お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

若江城

2013-08-06 05:08:39 | 大阪府
 若江城

2013/7/13

大阪府東大阪市のお城めぐり

 織田信長が石山本願寺攻めに使用したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 若江城
よみ: ワカエ
別称:
所在地: 大阪府東大阪市若江北町・若江南町
現状: 若江公民館・若江幼稚園・神社・若江小学校
築城年代: 明徳・応永年間(1390-1428)
築城者: 畠山基国
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2012/9/23・2013/7/13


≪ 訪城記 ≫

積善寺城から若江城へ向かう。

「美笹のゆ」の駐車場を出て積善橋北信号を左折、府道40号を北西に進み、側道を降りて畠中2丁目信号を右折、府道40号高架下をくぐり国道26号第二阪和国道を北上、道なりに進み葛の葉町北交差点信号を右折、堺泉北有料道路下の側道、府道36号を堺泉北有料道路沿いに東へ進み、途中に阪和道の側道に替わり、そのまま府道36号を進む、美原JCT付近で府道2号中央環状線に替わり北上、大和川に架かる新明治橋を渡り、さらにそのまま進み、近畿道の側道に替わり、巨摩橋西信号を右折、近畿道高架下をくぐり、府道24号を東へ約300m、道の北側のゲオ東大阪若江店の駐車場に車を駐車させてもらう。

ゲオから徒歩で府道24号沿いの道を東へ約250m行くと道の北側に若江公民館があり、公民館の南西隅の一角に説明板が建てられている。
公民館の東側信号を渡った道の南側に小さな神社があり、神社道側に若江城址碑が建っている。
若江小学校を含むこの一帯が若江城跡で遺構は何もない。


≪ 歴 史 ≫

明徳・応永年間 (1390-1428) 河内守護畠山氏が築城し、代々守護代遊佐氏が居城した。
宝徳二年 (1450) 基国の孫持国の子義就と養子政長の対立抗争から持国の死後、義就が河内国に下り、遊佐氏の守る若江城に入った。
応仁元年 (1467) 義就と政長の抗争をきっかけに応仁・文明の大乱が起こる。
文明九年 (1477) 応仁・文明の乱は終結したが、その後も義就と政長は河内・大和で戦闘を繰り返し、若江城は義就方が占拠する。
天文初年頃 近江守護佐々木六角氏の配下、若江下野守兼俊が居城する。
天文六年 (1537) 若江兼俊が佐々木氏に背き、佐々木氏の大軍に攻められ、開城降伏し、兼俊父子は高野山に追放、跡に堀江河内守時秀が城主として配され、以後、若江河内守実高、若江下野守行綱、堀江河内守実達、山田豊後守定兼と替わった。
永禄七年 (1564) 三好長慶の子義継が三好三人衆と対立していた松永久秀に擁立され信貴山城に入ったが、永禄十一年(1568)、織田信長から河内国北半分を与えられ若江城に入城する。
天正元年七月 (1573) 将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻し、槇嶋城に籠城するが敗れ、十一月には義継の若江城も攻められ、内応者が続出し若江城は陥落、義継は自害する。若江城は池田丹後守教正に与えられた。
天正三年四月 (1575) 高屋城に籠る三好笑岩(康長)を攻めるため織田信長が若江城に着陣する。石山本願寺攻めの重要拠点として若江城は残される。
天正四年五月 (1576) 石山本願寺攻めに若江城に着陣・宿泊。
天正五年二月 (1577) 和泉・雑賀攻めに若江城に着陣・宿泊。
天正六年九月 (1578) 堺出張に着陣・宿泊。
天正八年四月 (1580) 石山本願寺が開城・退去したのち若江城は破却され、池田教正は八尾城へ移った。


≪ 写 真 ≫


若江公民館前の説明板


道の南側の神社


神社の若江城址碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄奈良線若江岩田駅から徒歩約20分。
<車>
近畿道東大阪南ICを降りて巨摩橋西信号を右折、近畿道高架下をくぐり、府道24号を東へ約550m、道の北側若江公民館前に説明板、道の南側神社に若江城址碑。
駐車場はない。


≪ 位置図 ≫

若江公民館


紹介したお城の数 105城



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