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お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

龍岡城

2013-05-29 05:05:25 | 長野県
 龍岡城

2013/5/3  信州北部遠征(3泊4日)

長野県佐久市のお城めぐり

 信州にあるもう一つの五稜郭

≪ お城の概要 ≫

城名: 龍岡城
よみ: タツオカ
別称: 五稜郭
所在地: 長野県佐久市田口
現状: 田口小学校
築城年代: 慶応三年(1867)
築城者: 松平乗謨
形式: 平城
遺構: 水堀・石垣・土塁・現存台所
規模: 300m×300m、標高728m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2013/5/3


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  初日、小諸城から龍岡城へ向かう。

懐古園有料駐車場を出て東のしなの鉄道沿いの道を南東に進み古城三叉路信号を直進、弁慶橋信号を左折、鉄道に架かる橋を渡り、次の南町交差点信号を右折、国道141号を南東へ進み、四ッ谷東三叉路信号で国道18号に出て東進、平原交差点信号を右折、国道141号を南下、佐久北ICを通り過ぎ、城山北三叉路信号を左折、千曲川を渡り、臼田駅前三叉路信号を左折、道なりに右に曲がったら八ヶ岳高原線の踏切を渡り、県道93号を東進、次の三分三叉路信号を左折、次の三叉路を右折、龍岡橋南信号を左折、約250m行った三叉路を斜め右に曲がり、約250m東に進むと五稜郭の星形の先端石垣が見えてきて、隣に「五稜郭であいの館」があり、ここの駐車場に車を駐車する。

水堀沿いに南へ歩くと大手門跡に橋が架かっていて中に入れ、入ると田口小学校の運動場で南側に校舎が建っています。
大手門橋の入口に龍岡城址碑と説明板があり、水堀、石垣、土塁がセットで北、東、南に残っていて、西側にも石垣と土塁が残っています。運動場の西側には現存する台所の建屋が残されていて中を見学できます。
見事な陵堡式の星形が地上でも良く分かり、この五稜郭は、函館の五稜郭の4年後に完成しているそうです。
帰りに五稜郭であいの館で資料をもらいました。


≪ 歴 史 ≫

文久二年 (1862) 三河奥殿藩主松平乗謨は徳川幕府の許可を得て三河奥殿から田野口村へ居を移し、田野口藩と改める。
文久三年九月 (1863) フランスの築城家ボーバンの陵堡式城塞を採用して縄張を開始、十二月に着手。
慶応二年十二月 (1866) ほぼ完成し、翌三年四月に新殿も完成した。
明治四年 (1871) 廃藩置県により廃城となる。


≪ 写 真 ≫


北側星形先端部の水堀と石垣


大手北側クランク部分


大手前の龍岡城址碑


大手橋


南東側星形先端部の水堀と石垣


東側の土塁


大手橋と水堀


南西側の土塁


現存台所


南西側の石垣


北西側の土塁


五稜郭であいの館


現地説明板縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR八ヶ岳高原線龍岡駅または臼田駅から東へ徒歩約20分。
<車>
中部横断道佐久南ICで降りて国道142号を南東に進み、跡部交差点信号を右折、国道141号臼田バイパスを南下、城山北三叉路信号を左折、千曲川を渡り、臼田駅前三叉路信号を左折、道なりに右に曲がったら八ヶ岳高原線の踏切を渡り、県道93号を東進、次の三分三叉路信号を左折、次の三叉路を右折、龍岡橋南信号を左折、約250m行った三叉路を斜め右に曲がり、約250m東に進むと五稜郭の星形の先端石垣が見えてきて、隣に「五稜郭であいの館」があり、ここに駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

龍岡城(五稜郭)


五稜郭であいの館


紹介したお城の数 72城



長野の山城ベスト50を歩く
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小諸城

2013-05-26 05:07:00 | 長野県
 小諸城

2013/5/3  信州北部遠征(3泊4日)

長野県小諸市のお城めぐり

 武田信玄、仙石秀久が大修築を施しためずらしい穴城

≪ お城の概要 ≫

城名: 小諸城
よみ: コモロ
別称: 穴城・酔月城・鍋蓋城
所在地: 長野県小諸市丁
現状: 懐古園・小諸公園
築城年代: 長享元年(1487)
築城者: 大井伊賀守光忠
形式: 平山城
遺構: 天守台跡・本丸・二の丸・三の丸・北の丸・南の丸・三の門・大手門・二の門跡・黒門跡・石垣・空堀・土塁
規模: 350m×500m、標高650m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/6/18・2013/5/3


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  初日、自宅から小諸城へ向かう。

ゴールデンウィークを利用して信州北部のお城を見て回る。
自宅から名神高速、中央道、長野道、上信越道を通って小諸ICで高速道路を降りて県道79号を南東へ、飯綱山公園付近で大きく右へ曲がり南下、諸入口交差点信号を直進、国道141号に突き当たる三叉路を斜め左折、国道141号を南下、本町交差点信号を右折、西へ進みしなの鉄道線の踏切を渡った懐古園入口交差点信号を左折してしなの鉄道線沿いに南下すると懐古園に着く。入口を右折した先に懐古園の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

懐古園が小諸城跡で駐車場の通路を通って三の門前の入場券売場に行ける。
まずは三の門を見て入場券売場から二の丸へ、入園料300円です。
入ってすぐ感じることですが、土地的に周りの市街地よりも土地の高さを低く感じます。
二の丸の石垣が通路の北側にあり、南側に水櫓跡、そのまま進み二の門跡の桝形、門を入った右側の石段を登った一段高い場所が二の丸跡で奥に土塁跡があります。二の門を過ぎ、北側に北の丸跡、南側に南の丸跡、真ん中の通路を進むと黒門跡で黒門橋の下は深い空堀です。黒門橋を渡った突き当りが本丸の石垣で左手に進むと本丸跡です。本丸跡には懐古神社があり、神社の裏側を通って天守台跡へ行けます。懐古神社には山本勘助が愛用した鏡石も飾られています。
黒門跡へ戻り、本丸石垣を右手に行くと本丸石垣と天守台跡の石垣を見られます。天守台の石垣はかなり孕んでいます。
天守台の北側に武器庫、酔月橋の下の地獄谷の空堀も大きくて深いです。さらに水の手展望台から千曲川方向は断崖絶壁です。本丸西側は馬場で千曲川側に土塁と空堀が見られます。
動物園に渡る白鶴橋の下の空堀もすごいです。
三の門まで帰り、鉄道の地下通路を東へ渡った先が三の丸跡で、公園に現存の大手門があります。


小諸城(懐古園)の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

長享元年 (1487) 大井伊賀守光忠が築いた鍋蓋城が小諸城の前身で、光忠の子光為が築いた支城の乙女城(白鶴城)、周辺に手城塚城、与良城、七五三掛城、富士見城などを築く。
天文二十三年 (1554) 武田信玄が山本勘助に縄張を命じて、小諸城を鍋蓋城を取り入れた大要塞に拡大し、小山田備中守昌行に守らせた。
天正十年 (1582) 武田氏が滅亡し、小諸城は武田信豊の代官下曽根入道覚雲から織田信長の家臣森長一に引き渡され、滝川一益の所領となり、道家彦八郎正栄が入城する。
本能寺の変後、小諸城は小田原北条氏の領有となり、大道寺政繁が置かれている。
その後、北条氏と徳川家康が佐久地方の領有を巡り戦い、家康の領有することとなり、戦死した依田信蕃の子康国が小諸城主となる。
天正十八年 (1590) 小田原城攻めの軍功により仙石秀久が小諸を与えられ、小諸城の大改修を行う。
元和八年 (1622) 仙石秀久の子忠政が上田城に移され、徳川家光の弟松平忠長が入城する。その後、青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平重政が入城し、城主が次々と代わる。
元禄十五年 (1702) 牧野康重が入城し、以後牧野氏が十代続き明治に至る。
明治四年 (1871) 廃藩置県によって廃城となる。


≪ 写 真 ≫


三の門


二の丸石垣


水櫓跡


二の門枡形


二の丸


二の丸土塁


北の丸


南の丸


黒門橋


黒門橋下の空堀


黒門跡


本丸石垣


本丸跡の懐古神社


懐古神社


山本勘助愛用の鏡石


天守台跡


天守台石垣


本丸西側の石垣


武器庫


地獄谷の空堀


水の手展望台からの千曲川の眺め


馬場の西側にある空堀


白鶴橋下の空堀


本丸南西の石垣


大手門


現地案内板(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
しなの鉄道またはJR小海線小諸駅から徒歩5分。
<車>
上信越道小諸ICで高速道路を降りて県道79号を南東へ、飯綱山公園付近で大きく右へ曲がり南下、諸入口交差点信号を直進、国道141号に突き当たる三叉路を斜め左折、国道141号を南下、本町交差点信号を右折、西へ進みしなの鉄道線の踏切を渡った懐古園入口交差点信号を左折してしなの鉄道線沿いに南下すると懐古園に着く。入口を右折した先に懐古園の有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

小諸城(懐古園)


大手門


紹介したお城の数 71城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




長野の山城ベスト50を歩く
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