25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

宗教の変遷

2018年07月25日 | 文学 思想
 ぼくの場合、歯を磨いて、顔を洗って、髭を剃ったら、交感神経のスイッチが入る。服を着ると交換神経モード優位になり、事務所に向かうことに急きはじめる。13時で自律神経がバランスよくなる。17時になると完全に副交換神経が優位になる。ぼくの神経活動を見たことはないが、たぶんそうだろうと思っている。そのルーティーンが崩れる時がある。昼から仕事上で人と会うことになったり、急いで書類を作らなければならなくなったり、夜のスナックに行くことになったりする時だ。それは人と会話をし、神経を集中させ、緊張もするということだ。書類を片付けることがストレスになるとは思わないが少々くたびれる。社会と関わっていると実感して充実もするのだが。

 相変わらずキリスト教に関する本を読んでいる。荒井献の「イエスとその時代」はイエスが生きていた頃の政治、宗教、社会の制度、人々の暮らし、ユダヤ教分派、イエスに洗礼を授けたヨハネのこちなどが精密に書かれている。聖書ができたのは西暦100年代に編纂されている。392年年、ローマ帝国のテオドシス帝のときに国教化された。聖書編纂から正典となるまで300年もかかっている。ようやく迫害の歴史を終えた。そして今度は迫害する側になるのだから、皮肉なものだ。
 ところでイエスが死んだのち、12使徒のうちユダをのぞく者たちの原始キリスト教団はやがて滅んだ。ヨハネを除く全員が布教先で殉教死している。かわはぎ刑にされたものまでいた。ヨハネも流刑されたが処刑はなかったらしい。
 イエスと話したこともないパウロはローマ人であったので、ローマ帝国で布教活動をした。言葉ができたからである。パウロも殉教死している。300年の間で内容は相当変わったことだろう。
 坂本龍馬の話とて変わるのだから、というのと変わらない。
 聖書はラテン語以外に翻訳できず、司祭たちの独占物となった。
 一部神教のヤハウェは初め天地創造の神であったのがイスラエルの戦いの神となった。それがいつのまにか世界の神となり、宇宙の神とまでなっている。
 イエスが生きた時代の細部を知っていくのは興味深い。女性がいかに差別されていたか。多くの人々はいかに困窮していたか。律法学者や大土地所有者や富豪たちはユダヤ教をいかに牛耳り、利用していたか。
 聖書を書いた人たちはいかにイエスを血統に委ねようとしたか。マタイ伝ではいかにマタイ伝の書き手が旧約聖書に縛られたか。
 しかしながらもう聖書を信仰の絶対とする人たちがいる。そして確かにキリスト教は西洋の人々の意識w作ってきた。だまされながらも、信じながらもである。
 人間の多様な価値観、多様性の受容、これが現代である。濃い宗教から薄い宗教へ変遷している宗教であるが、大衆の無意識にまで入り込んだ道徳心や倫理、闘争精神は西洋そのものの名残のように思える。
 地が続く大地での族長たち守備と攻めの歴史は日本にはないに等しい。それほど困難な地でイエスは生まれて修行荒地にでたのだった。