25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

大衆というもの

2018年07月15日 | 文学 思想
三十年前の日本は一億総中流社会と言われていた。企業の社長でいまのような報酬をとっていなかった。なんとか持ちこたえてきた90%中流社会が崩れ始めたのは古泉政権からである。この中流層がもっとも消費が活発であった。お金持ちだからと言って消費を活発にするとは思えない。靴にしろ、衣類にしろ、限度がある。この中流社会が崩れてきたとき、生活基準を落とさないために、女性が動員された。それに残業が延長された。帰宅が遅くなり、女性も働くとなれば犠牲になるのは子供である。
 一億総中流社会は続かなかった。中流から下へ落ちてしまう。あるいは突然中流から上へ行く者もいた。

 残業が伸び、女性が働いても消費が上向かない。日銀も諦めた。また消費税が2%上がったら、実質賃金がまた減る。当然生活防衛を国民はする。消費は遅れた生産である。消費が落ちれば生産も落ちる。悪い循環入ってしまった。賃金は上がらないといけないのだ。

 年金カットがささやかれ、働ける老人まで動員してなんとか日本社会を維持させようとしている一方で株で儲ける人もいる。
 医療費負担をあげ、介護保険料も年々上げていく。医学は発展しているように見える。いったいぼくらは幾つまでいきて、どのくらいのお金を貯金しなければならないのか、真面目に生きる人は考えてしまうだろう。

 さて話を変えよう。
 使わなくなった漁船を放りぱなしにして、それが賀田湾の一角にかたまるようにして積んである。無責任そのものである。車も捨ててある。これを税金で撤去することになると、撤去費用は船の持ち主を探しだして、お金儲けを請求するのが筋だろう。
 このように無責任に生きていても、行政の保護があり、廃船が税金で処理される。こういうことには愚かな者と腹が立つ。しかし、まったく知らぬ存ぜぬでやっていけるのでもある。赤信号、みんな渡れば怖くない、だ。
 弱いものは弱いと開き直って、保護を訴える。
 こういう振る舞いと生活の基準を落とさないため必死さで、日本が沈んでいく。 
 
 大衆というのはこのくらいの無責任さはへっちゃらでやり過ごすのだ。大衆と政府インテリ側との闘いは未来永劫に続くのだ。政府側は権力振りかざすこともある。へつらうこともある。大衆が怖いと思うときもある。大衆をなめきる場合もある。

 大衆はどんなことをしてでも生きていく。簡単に虫のように殺されもする。それが大衆だ。