25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

宗教

2018年07月13日 | 文学 思想
 また聖書について書かせていただく。
 聖書、および聖書関連の本を読んでいて、旧約聖書はラテン語(古代イタリア語)で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれた。イエスキリストの時代、ラテン語など読める人はほんの少数であり、ギリシャ語を読める人もほとんどいなかっただろう。確か1800年代で識字率は2割ほどではなかったか。(これは確かではなく、記憶に頼っているから間違っているかもしれない)西暦100年や200年の時期に文字が読めた人は特別な貴族か司祭などの人だろう。
 キリスト教を広めるのに布教者は聖書を読んで聞かせた。そしてその布教者は聖書の言葉以外ににも付け足しを言ったことだろう。カトリック教会はラテン語を他の言語に翻訳することを許さなかった。なんだか今のイスラム教と似ている。
 やっとマルチン・ルターがドイツの出て来て、ドイツ語に翻訳され、さらに印刷技術の発明により、聖書は個人でも持てる時代がきた。

 教会の神父から聞いていたことと聖書の内容を自分の目で読んだときとどのくらいの差があったのだろう。

 この話は浄土真宗の話と似ていて、仏教を解体してしまった親鸞の著書は確か蓮如が持っていた。これを隠すように持っていたのではないかと思われる。ここからは想像だが、布教者と同じように、蓮如が親鸞の言葉を持ち、人々に呼び掛ける。そして教団を作っていった。浄土宗から離れ、浄土真宗とした。教祖を親鸞とした。もうすでにこの世にいなかった親鸞は何を言うこともできない。「墓など要らない」と言った言葉はもう使われなかったのではないか。

 キリスト教も浄土真宗も、イエスや親鸞が死んだあとに、パウロや蓮如のように広める人が出て来る。そしてやがて、弱者や病人や困窮者の人々のためであったものが、権力そのものになっていく。信長はそれを嫌った。マルチン・ルターやカルバンも嫌った。宗教戦争が起こった。

 中野京子という作家が「名画の謎」という文庫本を出している。前に「名画で読むイエスキリストの物語」が宗教画の解説本として面白かった。彼女は聖書の解釈をしているのではない。当時に時代背景とあとは想像力でイエスの物語を福音書から膨らませて書いていた。
 「名画の謎」は旧約聖書と新約聖書の有名シーンの解説である。
 旧約の最初の部分は神話だから荒唐無稽である。初めに光が作られ、太陽は四日めだった。そもそも初めから矛盾している。するとこの光とは何だったのか、と思う。
 神は自分に似た人間を作った。と書いていたら、次の章では神は土泥から人間を作り、と書いてある。この人間をミケランジェロは筋肉隆々とした男として描いているが、「臍」があった。ヘソ? 土から作って、ヘソも作ったのか。その男アダマの肋骨から一本取り出し女を作った。

 まあ、いいけど、こんなことに解釈などしたくないと思いながら、ユダヤ教も、キリスト教もイスラム教も旧約聖書は経典のひとつである。
 ぼくらはイクチオステガという小さなネズミのような弱い哺乳類だったのが、生き延び、チインパジーのようになって、さらに突然変異を起こし、ラミダスになったことを知っている。科学による人類発生、生物発生の研究はどんどん進んでいる。すると宗教って一体何だい? よいことなんてないじゃないか。我が宗教が正しいと思い込み、他を排除する。しかし個人の深い悩みや傷はある。それを救うのもまた宗教である。だから宗教を安易に否定できない。ぼくのような信心のないものは、文学として聖書や歎異抄を読むしかないのである。そこには優れた思想も嵌めこまれているのは確かだ。信じるか信じないかの論争などではない。そんな風に思っている。