25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

祝優勝 栃ノ心

2018年01月27日 | 日記
 栃ノ心を応援していた。怪我で幕下にまで落ちたジョージア出身の力士である。今場所、彼の膝は相当良くなったのか、彼の相撲に彼独自の型が出来上がっていた。突っ張って、左上手をとる。とにかく廻しをとれば絶対的に強い、といすごさみせつけた。それに姿勢の角度がよい。
 まさに横綱のような相撲で、この型が続けば、なかなか負けないだろう。ここは一気に大関にまで昇ってほしいものだおもう。横綱夢ではない。
 兎に角、取り口がよかった。応援していただけに胸にジーンと来、目頭が熱くなる。
 今日優勝するかと思い、シャンパンを用意しておいた。そして美酒を味わったのだった。

財務省を目の敵とする高橋洋一

2018年01月27日 | 社会・経済・政治
 高橋洋一という財務省出身で、財務省憎しの大学教授がテレビなどに出て、アベノミクスを擁護する発言を繰り返している。

 その理由は政府の借金が1000兆円あっても、政府の比較的換金可能な金融資産が600兆円あるから、差し引き400兆円の借金で、先進国では優秀だということだ。
 だったら、赤字国債を発行せず、資産を換金すればいいではないか。
 そもそもそんな考えがでてくるのは政府と日銀は親子であり、政府の借金は日銀が買い取るればいいだけのことだ、と言っているようなもので、とどのつまり、日銀はお金を刷りまくればいいんだ、と言っているようなものである。

 お金をもっていて、それを使わず、借金をするという論理は、銀行を潰し、日銀を潰すものだ。銀行が買う国債を日銀が買う。銀行は額面より安い金額で国債を買えたとしよう。利息を0.1としよう。額面100万円の国債を90万円で手に入れれば、銀行は101万円入ってくることになる。これを「利まわり」という。元手は90万円だから、11万円のもうけである。裏を返せば政府は利息付きで11万円多く払うことになる。それを返す資金がないから日銀に買ってもらうことを前提にまた借金をして国債を発行するのである。日銀は親の政府に利息と元金を返してもらわなければならないが、親もことだから家計は同じだよ、と借金を被ってやるよ、となり、日銀に買い取るお金がなければ日銀券(札)をすればよい。高橋洋一はこれを永久に繰り返せばいい、と言っているということだ。

 日銀は直接に国債の買い取りができなうのは、第二次世界大戦の経験があるからだ。政府と中央銀行が一体となってお金を刷りまくった。ナチスがそうであった。物価は何億倍にもなった。紙くず同様になったおである。国民の貯金は当然何億分の1となった。
 この教訓から中央銀行は政府から独立したものであるべきという現在の常識となった。高橋はそれを崩そうというわけである。
 
 実際アベノミクスで物価上昇があったが賃金は追いつかなかった。民主党政権期の方が確実に経済は成長していた。
 財務省を目の敵としている高橋は、財務省よりも経産省を重んずる安部政権と相性が合うのだろう。自信をもって国債は暴落しないと断言している。
 
 なんだか経済論議は床屋談義のようである。フンフンと聞いておいて、ぼくは事己防衛に入る。1997年の金融危機のとき、痛いめにあった。
 日本では一度失敗したものは這い上がるのは難しい。アメリカでは、3、4度失敗している方が信用を得られる。いいなあと思う。

 どんな経済談義があろうとも、物やサービスが成熟しきった社会で家の中にあるものをガラリと代えるほどの物がないと、人口減の中、生産性の向上は難しい。スマホが登場したときのように、欲しいと思う物、必要と思う物やサービスを生み出す知恵と技術が必要なのである。
 そして、戦後の荒れ地から再出発した日本国民は素早く成長させたが、停滞の時期となってからおかしくなった。西洋化の流れの中で日本の伝統と文化のような性格がこれを乗り越えられるか、という問題にも直面している。教育しかり、一律採用制度しかり、様々な規制しかり、いっぱいある。