25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

満月

2018年01月03日 | 日記

 月夜の砂浜を歩くのが好き、という人がいた。月の光が海に注ぐ風景を見たことがある。それは荘厳な線状になって海面まで光が射して反射する光景である。見知らぬ男Aと女Bがいたらきっとまぐわってしまうかもしれない。それは丘の上に建つホテルのレストランから見たのだった。

 今年の三ヶ日の月はホモ-サピエンスにとって珍しくロマンンティクで、大胆であった。

 息子も孫娘もすこぶるルナティクであった。月が欠け始めたら息子たちは帰ってしまった。交替で、娘と孫たちがきた。2日の日に重なったのだが、食卓は中国の、大宴会のようであった。空には煌々とした満月が浮かんで覗いていた。

 スマホで一瞬にして月齢と月の形がわかる。新月と満月の日にバリ島ではほとんどの人がお祈りをする。月に祈るということは月が何かにつけて悪さをするからなのか、月によって自分が美しさと同等のような悪さをしてしまうことを防御するためか。ぼくは知らない。

 月は美しく姿を変える。隠す場合もある。古代の人々は形を変える月に不思議さを感じただろう。あの夜空に浮かぶ黄色いものは何?  何か関係がある。それが地球のような球であることを認知するまで人類は何万年かかったのだろう。

 「サピエンス全史」(ユヴァル-ノア-ハラリ 河出書房新社)を読んでいる。我々の時代は地球上で何年続くのだろうか。月を征服するのも間近いのだろうか。とりあえず、東京ーニューヨーク間のロケットが飛ぶ時代がくる。40分だと聞いた。5年後には商売開始だ。

 

 

 


村本大輔 大衆の原像からの発信か?

2018年01月03日 | 文学 思想

 普通に生きている人は政治的なむずかしいことを考えて生きていない。今日どれだけの魚が獲れるか、今日は何人の客がくるか、今日の上司の言葉は辛かった、もう少しやんわりと注意すればよかったかな、夜何食べるか、明日何しようかとか、そんな平凡なことだ。

 進駐軍が入ってくると、女どもは犯される、などと誰かが言ったのだろうが、軍国主義や戦争より、アメリカが来てくれて、様々な改革をしてくれても、庶民は今日、明日をひたすら逞しく生きていくだけだった。多くのインテリは黙ってしまった。

 政権がどうであろうと、法哲学者の井上達夫や政治学者の三浦瑠麗やジャーナリストといわれる田原聡一郎などが何を言おうと、あるいは日本政府が資金繰りに行き詰まっても庶民は当然影響を受け、悲惨なことも起こるかもしれないが、庶民は生き抜いていく。悪いこともあれば良いこともあるさと思う人もいるだろう。食べること、生き抜くことしか考えられない人もいるだろう。

 「大衆の原像」とはそんなものである。つまり根源的に殺される、殺すことを命じられる存在であるにもかかわらず生き抜く存在なのである。権力に従っているようで、大きな流れでみると権力を交代させてしまう力をもつ。(もっと細かく言えば、政権など大衆の財布のヒモでいつでも交代できる)

 ぼくは多くの人は「戦争なんていやだよ」と思っていると思う。その思いは同じでも、戦争を抑止する方法論についてまで深く考えないから、専門家が、ああだ、こうだ、お笑いの政治批判漫才をするウーマンラッシュアワーの村本大輔に対して「小学生」だというインテリまで出てくる。そpれは大衆にお前ら小学生だ、と言っているのと同じことだ。おまえはアホなんだから勉強して議論の場に出てこい」と言ってるように思う。三浦、井上、田原、落合、小林よしのり、長谷川東京新聞解説者らにとっては、村本は小学生なのだ。そしたら自分たちは何なのだ。マスコミで意見をいう人というだけではないか。自分はこんなに知っているんだぞ、と解説しているだけでないか。

 実はお笑いの村本はわざと大衆というイメージで言葉を発することをしたが、インテリは戦前に陥った穴にすっぽりはまっていることに気がついていない。たぶん大衆を知らないからだ。

 ぼくは、学校も満足に行けなかった父が遠くインド洋までマグロをとりにいき、老年期には沿岸で小魚を釣り、ときどき家で仲間と酒を飲んでいただけで特に政治や哲学のことも考えなかったことに違和感は覚えない。軍に徴用されたことがあり、お金が紙くずになったときでも物々交換で生き抜いた「戦争らあロクなことないじょ」が本音の唯一の政治的感想だったように思う。村本はまがりなりにも「大衆-庶民」ksらの本音を伝えたかったのだろうと評価する。