益鳥の思いつき放題放談之記

他愛のない話題で綴る無責任放談・・・

おお~い!日本よどこへゆく・・・日本を何処まで破壊すれば気が済むんだ!

2006-05-12 12:52:34 | Weblog

子供たちへ胸張って受け継がせる「日本と言う国」は、本当に存在するか?果たして存在しているであろうか? 今我国は5年に亘る小泉政権の暴政悪政によって、これまでの安定した平和な国民生活の歯車は逆回転逆行し、破壊破綻され、一握りの政財界人の私腹肥やしとおぞましい戦争地獄へのレールが再び敷かれ始めている。

若者を、子供を毒する「吉本興行」を初めとするお笑い業界が幅を利かし、それを煽り取り上げるTVマスコミがバカ番組の垂れ流しを連日連夜続行して居る内に、精神の退廃は取り返しのつかない「真面目に考えること、働くこと、人を思いやること・・・」等々の大きな欠落と犯罪増加と社会の安定を著しく阻害、反社会的傾向が蔓延しつつある。そしてそれをチャンスと小泉政権暴走政権は地獄への罠を更に仕掛けんと意図している。今一度良く考えて見直して見る必要があるのではないか!

おお~い!日本よどこへゆく・・・日本を何処まで破壊すれば気が済むんだ!

身近な問題

ある新聞コラム&社説より・・・

政権末期の小泉内閣の動きが急だ。沖縄県普天間飛行場移設問題…  政権末期の小泉内閣の動きが急だ。沖縄県普天間飛行場移設問題は、先の在日米軍再編の最終合意で“外堀”を埋められ、移設先の名護市辺野古崎の“内堀”まで埋められては、稲嶺県知事も、移設の基本確認書にサインするしかなかった

▼実際に埋められるのは珊瑚(さんご)の海だが、これを妥協と呼ぶのは酷だろうか。米軍再編で在沖海兵隊八千人のグアム移転を絡められ、地元名護市はすでに二本のV字形滑走路案に合意している

▼知事はせめて普天間の危険性を早急に取り除く暫定ヘリポートを辺野古に設ける案を主張したが同意は得られていない。安全保障や外交を国の専権事項として基地周辺住民の意向を黙殺する小泉内閣の姿勢は崩れない

靖国参拝問題でこじれた中国、韓国との歴史認識問題でも、一歩も譲らない首相は、経済同友会の参拝に再考を求める提言に「商売のことを考えて行ってくれるなという声」ときめつけ「それと政治は別」と退けた企業の海外経済活動を「商売のこと」とは、言いも言ったりだが、国連のアナン事務総長がアジア歴訪前に邦人記者らと会見、「歴史認識をめぐる対立の克服」を要請した。この事務総長の提言に、首相はなんと答える

▼小泉後継争いでは、靖国参拝問題でも首相発言を踏襲する安倍官房長官に対し、同じ森派の福田元官房長官が、中韓との和解を前面に出して出馬の構えを示し、現在訪米中だ。米国側も福田氏を有力候補と見てか、ライス国務長官が会談に応じる異例の厚遇。安保と靖国を軸に後継争いも、風雲急を告げる。

普天間移設 課題は残されたままだ 米軍普天間飛行場の移設について、政府と沖縄県が政府案を基本に詰めていくことで合意した。ただ、課題は残されたままだ。政府はその解決に全力を尽くす責任がある。

 沖縄県の稲嶺恵一知事は額賀福志郎防衛庁長官と会談後、政府案を容認したわけではないと強調した。額賀長官から握手を求められると、顔をそむけて応じた。何も決着していないと言いたかったのだろう。  

稲嶺知事はこれまで、米軍キャンプ・シュワブ沿岸部に移設する政府案について「受け入れられない」との姿勢を示してきた。今回の合意は、どうせ政府に押し切られるなら、せめて好条件を引き出そうという現実路線に転換したといえる。

 かといって、政府高官が「事実上、容認したと受け止める」と浮かれてよいほど事態は甘くはない。  両氏は合意にあたって(1)普天間飛行場の危険性の除去(2)周辺住民の安全(3)自然環境の保全(4)移設工事の実行可能性-に留意することを確認した。文字通りならハードルは高い。  

まず危険性の除去だ。沖縄県は移設先に暫定的なヘリポートを設ける案を迫る考えだが、政府が受け入れる可能性は低い。移転先の周辺住民の安全と海洋環境の保全も政府案を変えない限り、実現は難しい。

 知事は続く小泉首相との会談で、基地返還後の跡地利用や基地従業員の雇用問題で、新規立法を含めた政府の支援を要請した。首相は「政府を挙げて対応したい」と述べた。いずれも空手形では許されない

 沖縄県民の多くは依然、政府案に反対している。政府が条件をうやむやにすれば、秋の県知事選に影響するのは確実だ。その結果次第では合意は白紙に戻る。強引な対応は自らの首を絞めることになる。

 米軍再編をめぐっては、十一日、衆院本会議で日米政府の最終報告に関する質疑が行われた。  首相は答弁で地元への説明について「誠心誠意、努力していく」と述べただけだった。在日米軍のグアム移転経費として日本が約七千億円を負担するような例は他国にないとしながら、具体的な拠出根拠すら示そうとしなかった。

 三兆円といわれる再編全体の日本側の負担についても「いくらになるか、現時点で示すのは困難だ」と述べた。国民の知りたいことは何も明らかにされなかった。  これでは関連法案の今国会の提出見送りは国会の議論回避としか思えない。政府は説明責任を果たすべきだ。そうしないと、沖縄も含め国民の理解は得られない。

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 孤独死多発 世話焼き社会にしよう 

高齢化が進む中、都市生活の孤独はもはや危機的な状況だ。東京都内では二〇〇四年度に都営住宅などで孤独死した人が四百十人もいた。「無関心社会」を一刻も早く変えなければならない。  

その数字は衝撃的だ。東京では毎日一人以上、誰にもみとられず亡くなる人がいることになる。八割近くは六十五歳以上という。これは都営住宅と都市再生機構の賃貸住宅だけの数字だから、民間の小さなアパートを含めたらもっと多いはずだ。

 阪神大震災後の仮設住宅でも注目されたように、孤独死は、地域コミュニティーが弱った現場で多発してきた。孤独死がこれほど多い実態は、かつてのファミリー層が楽しく暮らした東京の団地のコミュニティーが、今はもう機能していないという証明ともいえる。都市はいつからこんなに冷たい街になったのか。

 他者から干渉されず個人の好みのライフスタイルを維持できるのが、都市生活の魅力ではある。わずらわしく感じる近所付き合いを避けたい気持ちも、確かにある。だが、これほど多くの孤独死を許してまで「個」の生活を重視する都市生活が、正常といえるのだろうか。

 都市の「個」重視の流れはさらに加速している。防犯面からオートロックマンションが増え、個人情報保護を理由に町会名簿も作れないのが実態だ。コミュニティー維持が難しくなるばかりの現状で、孤独死を防ぐのは容易ではない。  

行政も右往左往しているようだ。高齢者の孤独死では福祉施策の問題点がよく指摘される。だが、独り暮らしの人が地域の一員として大切にされるためには、福祉に加え医療、住宅や生涯教育などの対策も欠かせない。コミュニティーの再建や育成は、従来型の縦割り行政では効果が出ない。施策の分野を超えて手を組み、解決する意思が必要だ。

 


自公民を大勝させた選挙民・国民の責任は重いぞ!!!思い知れ!その重さを!

2006-05-10 14:43:35 | Weblog

子供たちへ胸張って受け継がせる「日本と言う国」は、本当に存在するか?果たして存在しているであろうか ? 今我国は5年に亘る小泉政権の暴政悪政によって、これまでの安定した平和な国民生活の歯車は逆回転逆行し 、破壊破綻され、一握りの政財界人の私腹肥やしとおぞましい戦争地獄へのレールが再び敷かれ始めている。

 若者を、子供を毒する「吉本興行」を初めとするお笑い業界が幅を利かし、それを煽り取り上げるTVマスコ ミがバカ番組の垂れ流しを連日連夜続行して居る内に、精神の退廃は取り返しのつかない「真面目に考えるこ と、働くこと、人を思いやること・・・」等々の大きな欠落と犯罪増加と社会の安定を著しく阻害、反社会的 傾向が蔓延しつつある。そしてそれをチャンスと小泉政権暴走政権は地獄への罠を更に仕掛けんと意図してい る。今一度良く考えて見直して見る必要があるのではないか!

共謀罪は今週中にも強行採決の模様だ!!!自公民に大勝させた選挙民・国民の責任は重いぞ!思い知れ!その重さを!

ある新聞コラム欄より・・・

高田屋嘉兵衛は江戸時代後期、淡路島出身の回船商人。ロシア人捕虜救出に出動したロシア軍艦と国後島沖で 遭遇、拿捕(だほ)されカムチャツカに拉致される。嘉兵衛の愛国心が試される場は、そのように突然やって きた

▼異国船打払令により幕府は臨戦態勢を強化していた。このままでは戦争になる―。嘉兵衛は両国間の調 停を決意する。ロシア艦長との間に生まれた信頼、尊敬が危機的状況を解きほぐしていく。司馬遼太郎の『菜 の花の沖』でそう描く  

▼嘉兵衛は「他を譏(そし)らず自らを誉(ほ)めず、世界同様に治まり候国は上国」と切り出す。意訳し て司馬は「愛国心を売り物にしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と記す

愛国 心は、誰もが持つ自然の感情。だが「その感情は、揮発油のように可燃性の高いもので平素は眠っている。そ れに対してことさらに火を付けようと扇動するひとびとは国を危うくする」と説く  

愛国心は嘉兵衛のように危機を救うこともあれば、先の大戦のように国民を誤った方向に導くこともある 。教育基本法改正案は、人それぞれの心の問題を一つの型にはめる危険性も併せ持つ

外国首脳の言葉をはね つけるような政府要人の言動。また、それを毅然(きぜん)とした態度ともてはやす風潮。果たして「上国」 と言えようか。

 コンスピラシー・セオリー 

「コンスピラシー・セオリー」という言葉がある。日本でいう「陰謀史観」である。世の中の出来事の背後 には必ず何かの陰謀が潜んでいるという見方で、人によってその闇の勢力は秘密結社だったり、某国情報機関 だったりする

▲コンスピラシー・セオリーの大方は、人の偏見や紋切り型の世界観がたっぷり詰め込まれたフ ィクションである。ただこの世を動かす秘密のもくろみを自分は知っていると言いたくなるのは人のさがだ。 だから陰謀史観はいつの世も不滅である

▲何人かでの不法行為の合意そのものが犯罪とされる英米では、コン スピラシーは共同謀議という法律用語でもある。日本人には東京裁判で侵略戦争の共同謀議が訴追されたこと で知られるようになった法理だ。ただ当時からこの共同謀議の適用は歴史的事実に照らして無理があるとされ た

日本でその共謀罪を新設する組織犯罪処罰法改正案の衆院での審議がヤマ場を迎えた。テロなどを防ぐ国 際組織犯罪防止条約が各国に国内法規の整備を求めているための法改正だが、かつては政府自ら「日本の法体 系に合わない」といっていた共謀罪だ。当然、反対論も根強い

何しろ犯行にいたらなくても相談しただけで 罪を問える法である。運用次第で人権を脅かすというのはもっともな懸念だ。与野党双方から適用範囲を絞っ た修正案が出ているが、今週中には法務委員会での強行採決の可能性が取りざたされている

組織犯罪防止の 国際協力が大切なのは分かるが、日本人の法をめぐる常識を変える改正ではないか。論議を尽くしたといえる ほど法案も世論も煮詰まったように見えない。治安当局の勝手な「コンスピラシー・セオリー」が国民を振り 回さないよう十分な歯止めがほしい。

 


共謀罪を数の力で押し切るな!それこそ凶暴・狂暴・強暴罪ぞな!!!(笑い)

2006-05-08 09:25:49 | Weblog

子供たちへ胸張って受け継がせる「日本と言う国」は、本当に存在するか?果たして存在しているであろうか? 今我国は5年に亘る小泉政権の暴政悪政によって、これまでの安定した平和な国民生活の歯車は逆回転逆行し、破壊破綻され、一握りの政財界人の私腹肥やしとおぞましい戦争地獄へのレールが再び敷かれ始めている。

 若者を、子供を毒する「吉本興行」を初めとするお笑い業界が幅を利かし、それを煽り取り上げるTVマスコミがバカ番組の垂れ流しを連日連夜続行して居る内に、精神の退廃は取り返しのつかない「真面目に考えること、働くこと、人を思いやること・・・」等々の大きな欠落と犯罪増加と社会の安定を著しく阻害、反社会的傾向が蔓延しつつある。そしてそれをチャンスと小泉政権暴走政権は地獄への罠を更に仕掛けんと意図している。今一度良く考えて見直して見る必要があるのではないか!

ある新聞社説より・・・

 共謀罪 与党は数で押し切るな 犯罪の実行がなくとも、謀議段階の合意で処罰できるのが「共謀罪」だ。根強い反対論が絶えない法案を、与党は数の力で押し切ってはいけない。捜査当局に都合よく用いられる懸念があるからだ。  

二度も廃案になった共謀罪の成立を政府が今国会で目指すのは、国際的な“約束”の建前があるからだ。  そもそも二〇〇〇年の国連総会で、国際的なテロ組織やマフィアによる犯罪防止のため、国際組織犯罪防止条約が採択されたことによる。既に百十九カ国が条約を締結しており、G8(主要八カ国)でも、米国など五カ国が条約締結を済ませた。  

日本も同年に署名という“約束”をしたが、この条約は共謀罪など国内法の整備を求めている。だから、政府は同罪を盛り込んだ関係法案の早期成立を目指しているのである。  だが、共謀罪は思想の取り締まりにつながるという指摘が絶えない。

 「団体の活動」として犯罪の共謀をした者を処罰する内容だ。つまり具体的な犯罪が発生しなくとも、犯罪を起こすことを合意しただけで罪に問われることになる。  心の中で思ったことが処罰されるのと紙一重では…と不安を呼んでいる。内乱罪の陰謀など例外はあるが、「行為」があって初めて犯罪が成立するのが、刑法の大原則だ。だから、思想処罰に近づく恐れがあると指摘されているのである。  

しかも、対象犯罪は実に六百十九。広く投網を打つような法律だ。たんなる「団体」では、市民団体や労働組合などまで、対象にされかねないことにも批判が集中している。  

そのため、与党は「共同の目的が罪を実行することにある団体」と制限を付け、犯罪の実行に「資する行為」があった場合に適用されるという修正案を出した。  民主党案は団体を「組織的犯罪集団」と明記し、法適用は「予備行為」があった場合に限るとしている。同党案の「予備行為」とは、殺人謀議の場合、武器の用意などが想定される与党案の「資する行為」という表現はあいまい過ぎる。

 麻薬の密輸など国際犯罪対策といいつつ、国内犯罪についても適用される。いったん法が定められてしまえば、注意しないと独り歩きしかねない。現行法だけでも対応できるという説もある。かつて治安維持法という思想弾圧の歴史を背負った国である。  

捜査当局による法の拡大解釈や恣意(しい)的運用の恐れがある。性急な結論はやめるべきだ。条文で「歯止め」を明確にするほどの慎重に慎重を重ねた議論が必要だ。

 


どんな社会が見えますか・・・

2006-05-07 15:02:24 | Weblog

これで憲法九条改悪共謀罪、教育基本法改悪揃い踏み・・・確実に見えてくる「我国日本」という国の姿、社会の姿は戦前の忌まわしい姿の再現であり、逆戻りでしかないではないか!

最先端のエリート教育 

愛知県蒲郡市に四月開校した海陽中等教育学校が注目されています。最先端のエリート教育への期待の一方で格差というデリケートな問題も含まれているからです。

  英国の名門パブリックスクール・イートン校をモデルにしたとされる同校は、中高一貫の全寮制男子校。トヨタ自動車、JR東海、中部電力を中心にした中部財界が学校法人「海陽学園」(理事長・豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長)を設立、八十社が二百億円を出資して、構想発表から三年余で開校にこぎつけました。  

中高一貫も全寮制も、それ自体珍しいものではありませんが、「国家の品格」の藤原正彦お茶の水女子大教授や国際政治学の中西輝政京大教授など多数の学者文化人の意見がくみ入れられ、考え抜かれた最先端のエリート教育校といえそうです。従来の受験エリート型を否定、「世界に通用する次世代のリーダー育成」をうたっています。

 ■日本のリーダーはどんな人  その「建学の精神」から、日本を牽引(けんいん)するリーダーの姿が浮かび上がってきます。高潔で明朗闊達(かったつ)な人柄で、健全な肉体と精神をもっています。基礎学力修得のうえで自由で創造的な思考をめぐらします。学問好きで教養豊かですが、国際社会で尊敬され活躍するために日本の伝統文化をたっぷり身につけていなければなりません。そのための全寮制でありカリキュラムです。

 寮(ハウス)は、一棟に生徒六十人。全員個室で一階に教師兼父親役のハウスマスター、二-四階は生徒で、生徒二十人ごとに企業から選出されてきた若手のフロアマスターが配され、相談に乗る。これが世界に例のないシステムとのことです。

 六時半の起床から十時半の消灯まで、平日は六時間の授業と二時間半の自習時間。基礎となる国語、数学、英語の授業時間は通常の倍。高校までの学習内容は四年で終え、大学レベルの発展的プログラムも用意され、「国内の大学に進学できる学力は十分、海外の一流大学に進学することも視野に入れた教育が実践される」予定です。  

遠くに渥美半島を望む、海と緑の十三万平方メートルの広大なキャンパス。四倍を超える競争率を勝ち抜いた全国からの百二十三人が一期生として生活をはじめていますが、難点は、当面はリーダーとして女性が想定されていないこと、学費が年三百万円。奨学金制があるものの父母には相当の年収が必要なことなどでしょう。  

教育は国家百年の大計、世界各国で時に政権の最重要課題。経済のグローバル化と世界大競争の時代に隣の韓国、中国では国を挙げての英才教育が開始され、欧米では教育改革が進められています。経済衰退への日本財界の深い危機感と進まぬ教育改革への苛(いら)立ちが海陽学園設立の背景にあったといわれます。

 ■規制緩和のなかで教育は  「教育の機会均等」の下に、全体を平等に底上げするわが国の戦後教育は成功だったでしょう。高度経済成長の推進力となり、世界も羨(うらや)む学力大国ともなりましたが、一九八〇年代に入って一転、「詰め込み」「画一主義」の批判となり構造改革の対象ともなりました。大量規格の製造業からサービス、情報通信へと産業構造も社会も大きく変わっていったのです。

 一九九九年の文部科学省の学習指導要領改定と「ゆとり教育」は、やはり画期的でした。学力低下批判に揺れ動いたとされますが、「自ら考え、主体的に判断し、行動する能力を培う」改革の方向は変わっていませんし、学習指導要領を学ぶべき最低基準とする“解釈変更”で、教育の多様化、自由化に拍車がかかったといえるからです。通学区の自由化、小中一貫など公教育もまたいまは規制緩和の流れの中にあります。  

教育の自由化、多様化は歓迎面ばかりではありません。自由で多様な選択ができるのは高所得者層の子弟ばかり。選択の余裕のない低所得者層との間に格差と階層の固定化現象が生まれかねないからです。子どもには等しく未来があります。教育の機会均等は戦後教育の最も重要な価値であることに変わりはありません。公教育の場では、子どもの能力を精いっぱい引き出す教師の努力と献身をお願いしたいものです。

 ■命もいらず、名もいらず  エリートといえば「ノブレス・オブリージェ」。高貴なる者の公共への責務、命を捨てる覚悟というべきヨーロッパ的エトスでしょうか。  

「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此(こ)の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」は明治維新の西郷隆盛の遺訓でした。教えてのものか、天与のものか、時代のたまものか、わかりませんが、この日本にも無私、無償の尊い行為はあったようです。われわれ凡人には及ぶべくもありませんが、近づくことはできるかもしれません。

 


立夏

2006-05-06 18:03:47 | Weblog

子供たちへ胸張って受け継がせる「日本と言う国」は、本当に存在するか?果たして存在しているであろうか?

今我国は5年に亘る小泉政権の暴政悪政によって、これまでの安定した平和な国民生活の歯車は逆回転逆行し、破壊破綻され、一握りの政財界人の私腹肥やしとおぞましい戦争地獄へのレールが再び敷かれ始めている。

若者を、子供を毒する「吉本興行」を初めとするお笑い業界が幅を利かし、それを煽り取り上げるTVマスコミがバカ番組の垂れ流しを連日連夜続行して居る内に、精神の退廃は取り返しのつかない「真面目に考えること、働くこと、人を思いやること・・・」等々の大きな欠落と犯罪増加と社会の安定を著しく阻害、反社会的傾向が蔓延しつつある。そしてそれをチャンスと小泉政権暴走政権は地獄への罠を更に仕掛けんと意図している。今一度良く考えて見直して見る必要があるのではないか!

ある新聞コラム欄より・・・

プラス評価を大切に

 気になる調査結果がある。日本の子どもたちが隣国の韓国や中国、そして米国などの子どもたちに比べ、将来に対して悲観的であるというデータが数年前から出ている。  

財団法人日本青少年研究所が定期的にまとめている意識調査によるが、その傾向が改善している様子はみられない。

 「人類にとって二十一世紀は希望のある社会になる」という答えは中国がほぼ90%、米韓が60%を超えているのに対し、日本はわずか30%強という結果が出ている。

 一方で、人生の目標に対しては「その日、その日を楽しく暮らす」や「自分の生活をエンジョイする」といった項目を日本の子どもたちは最も多く選び、「高い社会的地位に立つ」や「科学の分野で新しい発見をする」は最も低かった。  

控えめな国民性という面もあろうが、自己評価の低いマイナス思考が気掛かりだ。  これら閉塞(へいそく)感漂う結果を大人はどう受け止めたらいいのだろう。

 他国よりもおしなべて強いマイナス思考は、特定のものに対して自信がないという意味ではなさそうだ。いつのまにか構造的に、日本の子どもたちはありのままの自分でいいと受け入れられなくなっているのではないか。  

子どもたちの親は受験戦争を体験してきた世代である。詰め込み教育が幅を利かす時代を生きてきた。引かれたレールの上を速く上手に走るテクニックは教えられたが、何のために走るのか、考える力は十分だっただろうか。

 経済発展とともにスピードや効率主義が重要視され、それが人の評価の対象ともなってきた。そして格差社会が訪れている。  

多くの大人はゆとりの必要性を認識しながらも、評価を気にし、効率主義を脱却できず、価値観を変えることができないままでいる。ありのままの自分でいいのだと、子どもに言える親も少なくなっていないだろうか。

 朝永少年の丸  

大人が何げなく下した評価が子どもを委縮させ、ひいては人生をも左右する場合だってある。  ノーベル物理学賞の故朝永振一郎さんは小学生の時、先生に字が下手だと言われて以来、朝、腹が痛くなって、不登校になったという。

 その後、登校するようになったのだが、後年、家で当時の習字の作品が出てきて、はっと思う。ある時から、丸がたくさんついているのだ。親が不登校の原因を先生に伝え、それ以来、先生が点を上げてくれたので学校が苦痛でなくなったのではないかと…。

 この時、朝永少年を励ます先生の丸がなかったら、世界に誇る日本の科学者の誕生はなかったかもしれない。プラス評価で子どもたちは大きく成長するのだ。  生きるために必要な思考力、思いやりや頑張る力の基礎を固めるのが子ども時代だ。そんな学びの獲得を大人は支援しなくてはいけない。学びの場は学校だけと限らない。

 国際社会には多くの人種が存在し、環境、風習、考え方などさらに多彩である。コミュニケーション力が何より求められる今後は、マニュアル通りにしか生きられない人間は対応できまい。自ら考える、引き出しの多い人間が必要だ。  われわれ大人は無駄や失敗することを子どもに恐れさせてはいないか。プラス評価を見いだしているか。自らを問い直すいい機会にしたい。

 


憲法を考える

2006-05-03 11:29:28 | Weblog

ある新聞コラム欄&社説より・・・

『平和』を生きた責任 憲法記念日に考える 
歴史の歯車を逆転させてはいけません。憲法の役割が変質するのを見過ごすようでは、平和の時代を生きる ことのできた者の次世代に対する責任が問われます。

 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ 」-日本国憲法第九九条です。ここに「国民」という言葉がないことに気づいていましたか。

 まず、憲法が公務員の行動規範であることを確認して話を進めます。  この数年来の憲法改正論議は、統治する側の国会議員とその周辺の人々が中心であることが特徴です。治め られる国民からは、新しい憲法像が明確に提示されていません。

■内発性と主体性と  世論調査では改憲容認が多数意見ですが、改正を期待する点はばらばらです。研究者は政治的に利用される ことを警戒して沈黙しています。こんなことで国民の間に定着できる新憲法が生まれるでしょうか。

 社会学者の日高六郎さんは三十年近く前、雑誌『世界』に寄せた論文「憲法論議」で「内発性に基礎づけら れない普遍性は存在し得るでしょうか。主体的な要求を伴わない価値は持続的に持ちこたえられるでしょうか 」と問いました。

  いまの憲法が誕生する前、政府案だけでなく在野の研究者、文化人、弁護士らによるさまざまな改正草案や 草案要綱案などが生まれました。それらの中には現憲法と同じ非武装を宣言したものもあります。

 GHQ(連合国軍総司令部)で草案作りの責任者だったケーディス大佐は、それらを参考にし生かしたもの もあると語っています。廃虚の中で立ち上がろうとする人々は新しい平和憲法を歓迎したのです。  

「押しつけ」といわれますが、誕生の背景に内発性と主体性もあったからこそ日本国憲法は六十年間、持続 したのではないでしょうか。

 ■価値観の大転換が  冒頭に紹介した第九九条は、前文の“平和の誓い”や第九条の非戦非武装宣言とともに憲法の核心部分です 。憲法は国民にあれこれ指図するのではなく、公権力を縛るものであることを明らかにしています。

  敗戦を機に日本国民の間に価値観の大転換が起きました。戦争による紛争解決から国際平和主義へ、軍国主 義から民主主義へ、滅私奉公から個人の尊重へ…軍事を最優先にしない価値観が確立しました。

 憲法や、「個人の尊厳重視、真理と平和の希求」を前文でうたった教育基本法がそうした価値意識の形成に 役立ったのは確かでしょうが、国民の内在的欲求と合致していたから有効だったのでしょう。  ところが、経済的繁栄の中で多くの日本人が初心の継承を忘れ、戦後的価値観を劣化させてしまったように みえます。

 いまの日本人のほとんどは、生まれたときから日本国憲法と豊かな生活がありました。軍事を最優先する息 苦しさとも悲惨な戦争被害とも無縁です。自分は平和な社会に身を置いているだけに、憲法と平和の価値に戦 争を経験した世代ほど敏感ではない人もいるでしょう。

 しかし、改憲が政治テーマになったいま、改憲論者の狙いをしっかり見極めなければなりません。 自民党の新憲法草案は「帰属する国や社会を愛情と責任感をもって支え守る責務」を国民に求めます。  

反発を警戒して草案の表現はやわらかくなりましたが、論点整理では「憲法が国民の行為規範であることを 明確にする」でした。「公権力の行動規範から国民の行動規範へ」です。民主党の憲法提言中間報告も同じこ とを言っています。

 教育現場で日の丸・君が代が強制され、愛国心教育を盛り込んだ教育基本法の改正が現実の問題となってい ることを、この憲法観に重ねて考えましょう。  国家が国民の道徳観や生活の在り方を指図した、教育勅語の時代に逆戻りしかねません。  

前文や第九条の改正は「戦争ができる国」の復活を意味します。勝利を目指せば軍事を優先せざるを得ない のは論理的帰結です。  憲法観、国家観の根本的な逆転換と言えるでしょう。  こう考えてくると、いまの改憲論議の危うさが浮かび上がります。  

日本の社会では、自由競争政策のあおりで少数・異端者、弱者への寛容さ優しさが薄れています。相手の気 持ちを理解しようとしないナショナリズムも台頭してきました。  泥沼と化したイラク、唯一の超大国・米国による「力の支配」になった国際社会に目をやると、日本が果た すべき役割が問われています。

 ■互いに尊重が基本  国家も国際社会も、全体の調和を保ちながら各個人、各国家が個性を発揮する“粒あん”のようでありたい ものです。そのためには互いに相手を尊重することが基本です。  

大きな犠牲を払って確立した憲法的価値観、国家観が逆転するのを傍観していては、平和な時代に生きて自 由を享受してきた者の次の世代に対する責任が果たせません。

 ▼平和を求める沖縄の人々の象徴といわれる言葉「命(ぬち)どぅ宝」。命こそ宝。命は何物にもかえられ ない大切なもの、との意味で、「命あっての物種」より重みがあるとされる。  

▼沖縄のことわざを集めた「黄金言葉」(仲村優子編著、琉球新報社)によると、琉球王国最後の尚泰王が 明治政府の命令で首里城を明け渡す際に詠んだといわれる琉歌に由来する。ただし、よく使われるようになっ たのは戦後という。沖縄戦の経験がこの言葉の意味をより重くしたのは間違いない。

 ▼もっとも、沖縄の現実は人々の願いからは程遠い。在日米軍の75%が集中する「基地の島」は、日本へ の返還後もずっと続いている。沖縄の米軍はベトナム、そしてイラクの戦場へと向かった。事故や事件、騒音 などは日常の問題だ。

 ▼日米両政府が最終合意した在日米軍再編により、沖縄の負担は少し軽減されることになる。とはいっても 、基地の島の現実が根本から変わるわけではない。一方には日本本土への移転などで、本土の「沖縄化」が進 むとの見方もある。  

▼再編で日米の軍事的「一体化」は一気に進んでいくだろう。米の世界戦略にがっちりと組み入れられた日 本は、これからどんな役割を担うことになるのか。その時、憲法が禁じる集団的自衛権はどうなるのか。「新 段階の日米同盟」という掛け声に、いくつもの疑問がわいてくる。

 ▼平和主義の原則を掲げた憲法の施行からきょうで59年。「命どぅ宝」に込められた思いを、あらためて 考える日にしたい。

 「いくさするための陸軍や海軍、空軍や大砲やミサイルや爆弾やの武器は、どれやってひとっつも持っとか ん事に決めたで。ほんでな、お上がどないに戦争したいゆうたってな、そないなほっこげなことはいかん。認 められへんきんな!」。

 「全国お郷(くに)ことば・憲法9条」(坂井泉編集、合同出版)に掲載された香川県版の憲法第九条の一 部だ。英文を訳した原文は、ちょっと読みにくくて小難しいが、方言になると途端に親しみやすく分かりやす くなる。  

そうなると見えてくる点がある。讃岐弁に訳した人は、「お上」に対して「認められへんきんな!」と強調 した。その主語は誰か。そう、国民だ。実はここが憲法全体の肝でもある。  

例えば国家は金も権力も一般の国民とは段違いに持っている。しかもスタッフは法律に詳しい人ばかり。そ んな集団がもし暴走を始めたら…。とても個人の手では止められそうにない。  

そんな時に役立つのが憲法なのだ。法律は国家が国民の行為に歯止めをかけるのが主目的だが、憲法は逆に 、国民が国家に歯止めをかけるためのもの。憲法に権利規定が多く義務規定が少ないのもそのためだ。単なる 「法律の中の法律」や「法律の親分」ではない。  

そんな憲法が改正されるかもしれない時に、国家の側の政治家や役人に任せっきりでいいはずがない。良く なる改憲どころか、やたらと義務を課して国民を縛ろうとすることもあり得る。

 国民が政治家や役人を監視するのは民主主義の基本。「関心ない」なんてほっこげなことはいかん。認めら れへんきんな!

共謀罪 乱用の余地を1点も残すな  共謀罪の新設を盛り込んだ組織犯罪処罰法などの改正案が今国会で再び審議されている。

 麻薬取引やテロといった国際犯罪に対応する国連の条約に基づいた国内法整備だ。犯罪を実際に行わなくて も話し合っただけで処罰できるようになる。  だが、どんな団体に適用されるかはあいまいで、該当する犯罪も広範だ。捜査当局の裁量で拡大解釈され、 恣意(しい)的に運用されるおそれがつきまとう。  

これまで二度廃案になり、昨秋の特別国会でも継続審議となった重みをかみしめたい。  相次ぐ市民活動家らの微罪逮捕を見ると、市民団体や労働組合が狙い撃ちされかねないと危(き)惧(ぐ) するのはもっともだ。実際、民主党によれば、米国では犯罪行為に無罪判決が出てもあらためて共謀罪で検挙 する手法で、イラク戦争への抗議行動などが取り締まられてきたという。  

私たちは改正案を撤回して抜本修正するべきだと主張してきた。テロや組織犯罪を未然に防ぐ重要性は理解 するにしても、乱用の余地を残せば、歯止めなく思想弾圧へ暴走した治安維持法のように内心が圧迫されて思 想や表現の自由は委縮し、社会が窒息してしまうからだ。  

改正案で対象となるのは懲役・禁固四年を超える六百種類以上の犯罪だ。公選法や職業安定法違反も含まれ る。一方、未遂罪より前段階の予備罪とちがって、準備行為がなくても成立する。適用も国際的犯罪組織に限 定していない。いずれも条約の要請を逸脱する疑いが強い。

 準備行為を要件としなければ謀議だけでどう立証するのか。政府案にある通報者の罪の減免規定を口実にお とり捜査に走るかもしれない。盗聴拡大や自白偏重に陥る可能性も否めない。

 同時提出されている刑事訴訟法改正案では証拠としてメールの内容を保全するほか、一つのパソコンの差し 押さえ令状によって、接続された他人のパソコンのデータも押収できるようになる。通信の秘密などにかかわ り、これも問題が多い。

 与党は修正案を提出し「共同の目的が罪を実行することにある団体」と定義、要件にも「犯罪の実行に資す る行為」を加えた。が、あいまいさは消えず、日弁連は「多くの問題点は是正されていない」と指摘する。  

一方、民主党は対案で、適用を「国境を越えた組織犯罪集団」に限定した。対象も懲役・禁固五年超に絞り 込んだ。これで適用罪名は半減するという。  与党案より踏み込んだのは確かだが、近年の厳罰化の流れからすれば、対象が必然的に拡大するのは目に見 えている。  

与党は四月二十八日に想定していた衆院法務委員会での採決を、民主党の反発もあって見送った。九日に参 考人質疑をするが、なおその日のうちの採決を念頭に置いているようだ。  

これはおかしい。問題点を掘り下げるには拙速で、単なる実績づくりかと疑われかねない。  与野党はこぞって合意できるものとなるよう時間をかけて練り直すべきだ。乱用の余地を一点たりとも残し てはならない。

 


明日憲法記念日・本当に改憲の必要はあるのか!!!

2006-05-01 23:25:44 | Weblog

 

 

                                今月の歌 (H18.5)

                    今月の詩 (H18.5)

ある新聞社説より・・・

【憲法記念日】基本に返るのも大切だ (憲法記念日を明日に控えて)

 自民党が昨秋の結党50年を機に新憲法草案を発表、民主党の憲法調査会も「未来志向の憲法」を提言するなど、憲法改正が現実味を帯びる中、3日の憲法記念日を迎える。

 改憲か護憲か、ということになれば、国会は衆参とも改憲派が圧倒的多数を占めるに至った。共産党、社民党の護憲勢力は少数である。とはいえ、加憲の公明党を加えた3党にしても方向は同じではない。

 このことは憲法を考える場合、従来の単純な改憲、護憲では論議しきれないものが生まれてきていることを意味する。各党の目指す方向と護憲派の主張を見極め、自らの姿勢を確立していくことが国民としても必要になる。

 その意味で重く問われるのは国民にとって憲法とは何か、という根源的なものだろう。いわば、私たち一人一人の憲法観である。

 私たちは憲法論議を九条問題などに特化する傾向がある。無論、九条が改正論議の中核をなすことはいうまでもないが、ここで少し基本に返って、憲法とは何かを考えることも無駄ではあるまい。

 先の共同通信社と加盟新聞社が主催した憲法問題の講演会と各党討論会でも、憲法を国家と国民の関係にどう位置づけるかが主要なテーマになった。

 考え方は二つある。

 一つは憲法とは、国家の専横から国民を保護するため、国家の行為に制限を加える基本法である、という伝統的な考え方だ。護憲派は無論、改憲派でも民主党がこれに近いといわれている。

 もう一つは民主政治が成熟した国において、国家と国民を対立する存在とみなす考え方はもはや過去のものだとする主張で、自民党などに有力な見方とされる。

 民主国家と国民がかつての専制国家のような支配と従属の関係にあるとは無論いえないが、かといって完全に一致するものだともいえそうにない。

 というのは国家権力には自らの思惑どおりに国民を動かしたいという権力特有のメカニズムが働くからである。仮に抽象的な概念であっても、憲法にそう書けば、必ずそれを強要する動きが出てくるとする識者の見方は的外れではない。

 いずれの憲法観を採用するかで、改憲と護憲とを問わず、基本的な方向は決まってくるものと思われる。その上で、個々の条項を判断するというのがまず順序であろう。

 冷静さを失わず

 もうひとつ憲法論議で忘れてならないのは、目先のことやムードに流されぬ冷静さである。

 世論調査などを見ても改正論が主流になった感があるが、戦後60年を経て現憲法が時代に合致しなくなったという理由だけが独り歩きしているような状況は決して好ましいものではない。

 憲法は国家と国民の将来を規定する。少なくとも戦後60年のわが国の平和と発展を守ってきた現憲法である。現憲法の検証抜きに改憲を語ることは不可能だが、どこまでそれができているのか。

 冒頭、憲法改正が現実味を帯びる中、と書いたが、今、自民党が秋の総裁選をにらみ、また民主党も熱心な改正論者であった前原代表が退き、小沢体制となったばかり。憲法論議は中休みの状態だ。

 これは国民にとって悪いことではない。もう一度冷静に憲法を判断できる余裕ができたからである。改憲にしろ護憲にしろ、個々の国民が信念を持って当たらなければ、次の世代に禍根を残す。

 政府は教育基本法改正案をまとめ閣議決定、国会に提出した。連休明けに新設される特別委員会で審議される。改正案は前文と一八条。焦点は愛国心とその表現だった。自民党は「国を愛する心」を主張、公明党の「国を大切にする心」と対立が続いたが「我が国と郷土を愛する態度」で決着した。足して二で割ったような表記である。字句にこだわり、教育とは何か、の本質的な哲学が見えてこないのは残念である。
 現行の教育基本法が施行されたのは一九四七年三月。戦前の軍国教育、戦時体制下の皇民化教育も敗戦で瓦解、それに代わる新しい民主主義教育の"憲法"として制定された。六三制、教育の機会均等、平和主義、男女共学、教育の自由、義務教育の無償などが骨子となっている。
 前文と一一条。GHQ(連合国軍総司令部)の指令に基づいたのは事実としても簡潔であり、国家に忠実な戦前の教師像、児童・生徒像のくびきから解放された表現に満ちている。確かに現行条文には愛国心や家庭教育、学校生活の規律などについての規定はない。しかし、五十九年たった今、読み返しても特段の違和感はない。改正する必要があるのかどうか、疑問である。
 与党二党がこだわった愛国心の表現について自民党の言う愛国心に「戦前の国家主義を連想させる」と公明党は反発した。戦前に受けた宗教弾圧を想起したはずである。果たして愛国心、郷土愛は法律に明記しなければ生まれないものなのか。強制されなければ身につかないというのだろうか。
 国民が戦後六十年、営々として築いてきた民主主義はそれほどもろいものとは思えない。あの敗戦で強制こそ怖いものはない、と私たちは心底から知ったはずである。教育基本法に書いたから教育現場がよくなるというのなら、教育とは何と楽なものであろう。
 公明党は愛国心に慎重だった。改正検討委員会が六十八回も開催されたのはそのためである。公明党が国家主義を連想させると言ったのは、正しい。その公明党も大島理森(ただもり)座長(自民)の折衷案で妥協している。
 自民党は早くから法改正を求めていた。「国への忠誠、家族愛などが書かれていない」というのである。二〇〇〇年十二月、森喜朗首相(当時)の私的諮問機関・教育改革国民会議が見直しを提言。中央教育審議会が〇三年三月、文部科学相に基本法の改正を答申している。自民党はよほど現行の基本法が気に入らないとみえる。
 「およそ、人は命令では働かない」。経済学の祖アダム・スミスが「国富論」で言いたかったのは、このことだった。愛国心、郷土愛も同様である。国民の自由な意思に任せればいいではないか。法律で強制されるいわれはない。