歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

渡辺清二郎遺稿集より

2005-03-02 |  宗教 Religion
検証会議の最終報告書の前書きと後書きを読み、その内容を目次で確認した後で、なぜか、故渡辺清二郎氏の遺稿集「いのち愛(かな)しく」を読み直したいと思った。渡辺清二郎氏(大正4年-昭和49年)は、東條耿一の義弟であり、昭和9年に神山復生病院で受洗、昭和11年に多磨全生園に転入園された。目が不自由であった晩年の東條耿一の手記が執筆掲載されるにあたっては清二郎氏の多大な助力があったと思われる。

渡辺清二郎氏は、昭和23年9月から昭和49年6月に58才で逝去されるまで、全生園のカトリック愛徳会の会長であった。そしてそれと同時に、昭和40年までの間、自治会委員、患者代表、初代の全国患者協議議長などを勤め、戦中戦後の困難な時代の中で、当時の療養所の劣悪な居住環境の改善、看護切り替え交渉などにあたられた。

キリスト者の立場からいかにして人権の抑圧に対して戦うか-それは大きな課題だ。信仰と人権の問題は、理論上は区別されるが、実践の上では、一人の人間の中で統一されねばならない。ここには、先人の苦闘のあとから学ぶべき事が多々あると思う。

その点で、この遺稿集の中に収録されているF神父の書かれた「さかしらごとの終わりに」という文は、故清二郎氏の面影を彷彿とさせ、30年後にそれを読む私自身を叱咤している様にも感じられるのだ。F神父は、渡辺さんを「師」と呼んで、次の様に書いている。
忘れもしない6月10日。渡辺さんが世を去って行く前夜は嵐だった。私はゴーゴーと降りしぶく恩多街道を全身ぬれねずみになり、久米川をさして歩いていた。傘は強風に煽られてこわされ、大粒の雨に叩かれて私はなかば放心したようになって重い足をひきずっていた。そのときだった。耳をつんざく様な雷鳴の中で、突き上げる様にして師の言葉が蘇ってきた。それは、偉大な信仰者の死の予告だったのかもしれない。
「飼い殺しにされたままで、生きのびてよいものか」
言葉が魂に宿るものの真の音声だとしたら、乾坤一擲、一筋に生きた人の独白に心耳を澄まさずにおられようか。温和な渡辺さんの表情が、このときだけは一瞬険しくなり、鋭い眼光で私を睨みつけたのを覚えている。(中略)研ぎ澄まされこの気配こそ、義の爲には世と一線を画し、妥協すること知らなかった人間・渡辺清二郎の鋭い眼光ではないか、と。それのみか、私は見ずにはすまされない。炬のようにみはる師の瞳の奥に、この病を得、人に気取られてはならぬ旅路の果てに、柊の垣内で人知れず死んでいった僚友幾千の怨霊にも似た凄惨な生きざまを。
私は30年前に書かれたこの文章を再読した。検証会議がいま問題にしていることは、30年前に、まさに渡辺氏が格闘していた事に他ならないのだ。そして、その時点ですら、あまりにも我々の対応が遅すぎたという事実を直視し、「さかしらごとの終わりに」というF神父の言葉こそを肝に銘じなければなるまい。

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