歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

細川ガラシアの死を伝えるイエズス会宣教師の書翰

2019-02-18 |  宗教 Religion
私が土曜日に細川ガラシアの記事をFBに掲載した二日後の月曜日の朝日新聞朝刊に「細川ガラシア」の特集が掲載されました。その記事の「人質拒否した最期 宣教師から自死の了解?」という小見出しがありましたので、それについて私の理解していることを纏めておきましょう。 
 ガラシアの悲劇的な最期について、同時代の報告書として重要な一次資料は、Valetin Carvalho S.J. が編輯した1600年10月25日付の日本年報書翰(British Museum, Additional manuscripts 5 859,ff. 138v.-140v.)です。この記事を収録したGurreiroの冊子(1603)が上智大学のキリシタン文庫に保存されているので、それをアップしておきます。それによると...

「(細川忠興は)諸将と共に内府様〔家康〕に従って関東の戦に赴いたのであるが、彼は家老小笠原殿以下家臣の者の監督に任せて、奥方と家族の者を〔大阪に〕残していった。越中殿はは常にそうであるように、万事を名誉のために心がけていたから、家を離れるときには、いつも警備として残してある家老及び家臣に命じ、もし留守中に何か奥方の名誉に関する危険が勃発したらば、日本の習慣に従って、まず奥方を殺し全部の者が切腹して死を共にすべきであるとしてあった。このときにも同様のことを家来の者どもに命じたのであった。
 さて、そのあいだに奉行〔石田三成〕は越中殿の邸に使いをやって、留守の者に対して、本日より戦争が始められたから、殿の奥方ガラシア夫人を殿の将来の恭順の人質として引き渡すべしと命じてきた。これに対して家老等は奥方は絶対に渡せないと返答した。そこで奉行が手早く邸を包囲して奥方を捕らえようとしていることを知ると、一同は奥方の名誉のために、殿の命令を実行しようと決心した。そして事態の急をいちはやくガラシア夫人に知らせ、殿から命じられていることをそのまま申し上げた。奥方はさっそく、何時もきちんと綺麗に飾られている礼拝所に行き蝋燭を点させ、跪いて死の準備の祈りを捧げた。
 ようやく、奥方は礼拝所からたいそう元気にに出てきて、腰元どもを全部呼び集め、自分は殿の命令であるからここで死ぬが、皆の者はここを退去するようにと言い渡した。一同はそこを去るにしのびず、むしろ奥方と共に死出のお供をしたい希望を述べた。日本ではこういう場合、主人と死を共にするのが臣下の名誉であり、また習慣であったからである。
 ガラシア夫人は真に召使いたちから慕われていたので、召使たちが死の供をしたいと望んだのであったが、奥方は無理に命じて邸の外に逃げさせた。その間に家老小笠原殿は家来共とにいっしょに全部の室に火薬をまき散らした。侍女達が邸を出てから、ガラシア夫人は跪いて幾度もイエズスとマリアの御名を繰り返しとなえながら、手づから(髪をかきあげ)頸をあらわにした。その時、一刀のもとに首は切り落とされた。家来達は遺骸に絹の着物を掛け、その上に更に多くの火薬をまきちらし、奥方と同じ室で死んだと思われる無礼のないように、本館のほうに去った。そこで全員切腹したが、それと時を同じくして火薬には火がつけられ(大爆音と供に)これらの人々と共にさしもの豪華な邸も灰燼に帰したのである。
 ガラシア夫人の命令によって邸の外に逃された侍女たちの外は、誰一人として逃れようとしたものはいなかった。これらの女達は泣きながら、パアデレ・オルガンチノのもとにいって、この事件の一切を知らせた。その報知を得て、我々は非情に悲しみ、かくも人の鏡として、とくに改宗してからはまれにみる徳の高い高貴な夫人を失ったことを非常に悲しんだ」
(ヘルマン・ホイベルス神父『細川ガラシア夫人』資料篇の邦訳に従いました)

主人の忠興の命に従って自決することが、名誉を重んじる當時の武家の妻と家臣の「法」であったということを當時の宣教師達が、的確に理解していたことを、上に引用した宣教師の書翰がよく示しています。 また、侍女達が殉死を願い出たときに、ガラシアがそれを決して認めず、邸の外に逃げさせたという記事が重要で、彼女が侍女達の殉死を決して許さなかったことを示しています。結果として侍女達は、ガラシアの死の状況を後世に伝える証言者の役割を果たすことになりました
 
 朝日新聞記事にもどりますと、そこには「家臣に自らを殺させたのであれば、実質的に自殺と何ら変わらないではないか。それだけでなく、家臣に殺害を犯させたことになりはしないか?」という青山学院大学の安廷苑先生の疑問が引用されていました。
 當時の宣教師の書翰を見る限り、家臣にガラシアを殺害するように命じたのは細川忠興であり、ガラシア本人ではなかったわけですから、ガラシアの死は、決して「自殺」ではありません。関ヶ原の合戦の敗軍のキリシタン武将の小西行長は、切腹を拒否して斬首されましたが、これは武士の名誉よりもキリスト者としての筋を通したわけで、彼が「自殺」をしたなどという宣教師はいなかったでしょう。
 ガラシアと宣教師達は、彼女が受洗する前から、すでに何度も何度も「自死が許されるかどうか」について、書翰のやりとりをしていました。たとえば、逆運にたった秀次と親交があった夫忠興の生命が危うくなったとき、ガラシアはオルガンチノ神父に「夫の命令を受けた場合に自害することが許されるか」と尋ねています。神父の答えは「どんな事情があっても自殺は決して許されず、いつでも大罪になる」と答え、ガラシアは、それにたいして「パードレの裁断によって行動する」と答えています。このオルガンチーノが、のちに意見を変えて自殺を許容するに至ったとは考えにくい。むしろ、彼は、ガラシアの死を自殺とは決して見ていなかったというべきでしょう。 武家のしきたりによって日本社会では切腹が名誉ある死であると云うことは宣教師達は良く理解していましたが、洗礼を受けたクリスチャンが自殺することは許されないという原則は曲げなかったように思います。
 しかしながら、ここにはさらに考えるべき問題が残っています。 嘗て、遠藤周作は、「日本の聖女」という短編の中で、自殺せずにあくまでも生き伸びる道を選ぶのがキリスト教の教えなのだから、ガラシアは「日本の聖女」ではあっても、キリスト者と果たして云えるのだろうかという意見を述べたことが思い出されます。「聖女」と祭り上げられるよりも、生き延びてほしかったという気持ちは私にもありますが、彼女の置かれていた状況は、そんな生やさしいものではなかった。ガラシアがなくなるまえにアヴェマリアとキリストの御名を称えていたという記事に着目して、引き続き、「なぜガラシアは、細川邸から逃げださずに、避けがたい死を受容したのか?」という問題を考えていきたいと思っています。

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