日本政府が米国政府の意向を忖度して海外派兵を実質的に容認しはじめてから、アフガニスタンでの純然たる平和活動に困難が生じてきたことを師は以前から警告していた。それだけに「アフガニスタンの人々のために奉仕活動をして、アフガニスタンの人によって殺害されたとしても、決して彼らを恨んではいけない」という医師の言葉がなお一層、耳朶に残る。
昨年9月のペシャワール会会報(137)に中村哲医師は「温暖化と旱魃と戦乱の関連」を指摘したあとで、次のように言っている。
それは自然を無限大に搾取できる対象と見なし、科学技術信仰の上に成り立つ強固な確信です。実際、近代的生活は、産業革命以来の大量生産=大量消費の流れの上にあり、それを一挙に覆す考えは、多くの人々にとって俄かには受け入れ難いものがあるからです。
だが問題の先送りはおそらく許されないでしょう。放置すれば事態は不可逆の変化になり得ます。温暖化と千ばつと戦乱の関係は、もはや推論ではありません。治安悪化の著しい地帯は、完全に干ばつ地図と一致します。その日の食にも窮した人々が、犯罪に手を染め、兵員ともなります。そうしないと家族が飢えるからです。――
一連の動向は世界の終末さえ連想する絶望的なものがあります。干ばつの克服は、生易しいものではありませんが、力を尽くして水の恩恵を実証し、希望を灯し続けたいと考えています』
http://www.peshawar-pms.com/kaiho/137nakamura.pdf
そしてこのザビエル師の行動の中から、ひとつのたしかな心の安らぎになるような生き方を教えられました。それは「Taixetyni moyuru(大切に燃ゆる」というものでした。
私はこのザビエル師の処世の信条である「大切に燃ゆる」という生き方に強く心を動かされました。そのころ私は帆船の船主という身分で万に届くほどの莫大なクルサド貨幣を獲得していましたが、なぜか心の中は空しく、強い罪悪感のようなものがうごめいていました。私はこのことについてザビエル師に告解しました』
そのとき生まれて初めて自然の脅威と神の恐ろしさに戦慄しました。勇壮だった私の帆船の大きな白布はずたずたに破れ、マストは捻れるように折れ曲がり、竜骨だけがむきだしに残りました。マストの下方には船員や雇用兵たちが溺死しないようにしかりと躰をマストにくくりつけていましたが、最後の祈りのまま、無慚な姿で息絶えていました。その悲惨な光景を見た瞬間、それまで私が執拗に憧れ求めたもの、それがどんなに儚い幻のようなものであったかということが一瞬のうちに私の全身を貫きました。そのときザビエル師がつねづね申されていたマタイの言葉が大きく耳底で聞こえました。(一五五五年九月一五日付フロイスの書簡)
私が南の香料の島でザビエル師からこの目で学んだ「大切に燃ゆる(Taixetni moyuru)」これが病院j創設の発願の動機になったように思います。・・・・
私は「病める人間」の治療には「肉体の薬」と「魂の薬」の二通りの薬を併用しなければならないということを知りました。しかし、現在の私の力では、少しばかりの肉体の薬を与えることしかできません。必ず死ぬ運命にある人間の治療には「魂を癒やす薬」こそ最高の薬だと思っています。』
(ガゴ、トルレス、ビレ等、アルメイダの書簡)
残念ながら、アルメイダの病院は庇護者の大友宗麟の失脚につづく反キリシタン勢力によって破却され、アルメイダの名前もながらく本国と日本の双方で忘れ去られたが、20世紀になって、おおくの研究者の共同作業によってアルメイダの歴史的な事蹟が明らかとなった。現在大分県には、アルメイダの名前を冠した立派な病院がある。西洋医学を日本にはじめて紹介し、日本人の漢方医とともに国境を越え、身分の差別を越えて、人道的な医療活動に従事したアルメイダにたいする敬意がこめられていると言って良いだろう。
http://www.almeida-hospital.com/
- 早朝起床、坐禅・朝課・朝食。午前は作務・坐禅・勤行・昼食。午後は作務・坐禅・晩課・夕食。夜坐そして入眠という修行道場の一日と早朝起床・全体での祈り・個人の祈りミサ・朝食。労働・昼の祈り・昼食小憩後労働・夕方の祈り・夕食・夜の祈り・入眠といった修道院のサイクルはよく似ている。
- 「時の勤行、四時の坐禅」という定めを持つ修行道場と「聖務日課」に規定される修道院ではきわめて似た時間意識とリズムにおいて一日が過ごされている。加えて生涯をかけての修行・修道を志すという共通性もある。
- また、「我を張らない(無我)」ということは禅の修行の眼目であるが、修道士も自己を極端に主張してはならない。聖ベネディクト会則では「謙遜の実践」が「修道の全課程に欠かせない」ことが示されている。
- 集団での坐禅や祈りという宗教的行を務め、作務・労働をするという形態の中に、信仰対象や宗教共同体への自己帰入が希求されている。こうした希求は、諸々の宗教的行為において身体を通じて表現され、自らを小さなものとして、大いなるものに対して畏れと敬意を表す。
- 聖ベネディクト会則(第七章)でも修道士は神への謙遜という「こころ」を日常生活の中で「かたち」に表すことを要請されている。禅でも身体的行為には「仏作仏行」としてより積極的な意味がある
- 修行道場と修道院において最終的に求められているものが、教義の学術的理解というよりも、むしろ宗教的実践、求道(辨道)であり、生涯を通じて行じられる「生き方としての宗教」が大切にされている。換言すれば、修行僧と修道士は宗教的な生き方を宗教共同体の中で深めようとする者同士として本交流において邂逅したのであり、だからこそ、異なった信心や信仰体系を持つ宗教者同士といえども、両者の間に深い共感が生まれたと言えよう。[1]
外国の好青年よ、あなたはまだ弁道というものを解っていないし、まだ文字というものを知らないのです。(外国好人、未了得弁道、未知得文字在)
[1] 「宗教研究」84巻4輯「宗教的共感の源泉ー東西霊性交流の場合」pp.205-6(2011)
[2] 「正法眼蔵三参究ー道の奥義の形而上学」岩波書店271頁(2008)
[3]雲衲とは衲(のう)(継ぎはぎだらけの僧衣)を纏った雲水(禅僧)のこと
[4] 當時の中国の1里はだいたい540メートルくらい。老典座は19キロ位の道のりを徒歩でやってきた。
[5] 「弁道(辯道、辨道)」とは「修道がなんであるかをわきまえる」ことと「修道に精進する」ことの二つの意味がある。「文字」とは、先覚者によって書きしるされた真理のことばである。
「世界は何一つ秘蔵しない(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)」とは、森羅万象すべてが何一つとして「道」を説く対象にならぬものはないことを云う。「典座教訓」のなかで、特殊な少数の人にしか体験できない非日常的な場所に奇蹟や神秘を求めることをせず、台所仕事のような日常茶飯の世界の只中に顕現する真理の「ことば」を聴き、その「ことば」に活かされ生きる事を求めている。
[6] 春夜蒼茫二三更….慕古感今労心曲 一夜燈前涙不留 湿尽永平古仏録…..(読永平録)
[7] 「手鞠遊び」に興じる良寛に入門を願い出た貞心尼の歌への返歌。
「突きて見よ、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのと)を十とおさめてまた始まるを」は、道元の典座教訓の中の「文字(ことば)」についての問答を踏まえている。始(一)と終(十)がある手鞠遊びは10回ついただけでは終わらない。常に初心に返って修行を繰返す遊びの中に、「清規」の「ことば」に活かされ生きる修道の心を詠込んだ歌である。
[8] 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、我々が堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如き虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという言葉がある。顛倒世界においては、真実を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。良寛の貞心尼への返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。
[9]病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。
参考文献
ポケット版 「聖ベネディクトの戒律」 古田堯訳 ドン・ボスコ社
「伝国の辞」と「視民如傷」-人民のための共和政治
参考文献:上杉治憲(鷹山)(1751-1822)の米沢藩政改革についての一次資料は、新貝卓次編輯『羽陽叢書』(明治15-16年、山形県刊行)であるが、内村鑑三が直接に依拠したのは、民権派の機関紙『朝野新聞』の主筆川村惇(1862-1930)著の『米沢鷹山公』であったと思われる。明治5年に西郷従道(西郷隆盛の実弟)と共に東北地方を視察し、米沢の地で名君として尊敬されていた上杉鷹山公の藩政改革の事蹟を知って大きな感銘を受けた川村惇が、『羽陽叢書』を抜粋要約して、全国の一般読者向けに纏めた著書が『米沢鷹山公』(明治26(1893)年、朝野新聞社)であった。そして内村鑑三の『代表的日本人』によって、米沢藩の窮状を救った鷹山公が、封建時代の日本の模範的な啓蒙君主として、欧米の読者に初めて紹介されることとなった。[1]
1伝国の辞:日本史に於ける独自の共和政治の理念の表明
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私(われわたくし)すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
これは天明五巳年(1785年)二月七日に上杉治憲(鷹山)が、次の藩主となるべき上杉治広に伝えた「伝国の辞」である。そこには、国家の歴史的な継続性、国家に属する人民の私物化の禁止、国家人民のために君主が立てられたのであって、君主のために国家人民が立てられたのではないこと、の三箇条が、米沢藩主の忘れてはならぬ心得として語られている。[2]
2 「視民如傷」─人民の父母たる君主の責務
鷹山の座右の銘は「視民如傷」であったが、これは江戸米沢藩邸で暮らしていた若き日の治憲が儒学の師、細井平洲から学んだ言葉であった。出典は『春秋左氏傳─哀西元年』の「臣聞國之興也、視民如傷、是其福也:其亡也、以民為土芥、是其禍也」あるいは、『孟子─離婁章句下』の「文王視民如傷、望道而未之見」と思われる。この言葉は、「病人を憐れむように民を良くいたわる」という意味に解されることが一般的であるが、内村鑑三は、「Be ye as tender to your people as to a wound in your body(民をいたわること、汝の体の傷のごとくせよ)」と英訳している。君主が人民の苦しみを、他ならぬ自分自身の体の「傷」として視るという視点は、それまでの漢学者の読み方を越えた新しい解釈と云って良いだろう。
3 滅亡の危機に直面した米沢藩の再建
米沢藩は、関ヶ原の合戦後、上杉景勝が当主の時(慶長六(1601)年)に徳川幕府によって米沢に移され、一二〇万石の大名から三〇万石に減封された。しかし、名家としての体面を保つために家臣団の数を減らさなかった為に、米沢藩は深刻な財政危機に直面し、負債が年々増加していった。夭折した三代目藩主上杉綱勝の後継者を決めるに際しての不手際が幕府によって咎められ、吉良上野介の長男が、養子として上杉家の家督を継ぐときに、一五万石に減封された。このとき、一二〇万石当時と変わらぬ数の家臣の給与の総額が一三万三千石に達し、歳入の九割近くが人件費となる異常な事態となり、米沢藩の負債の総額は、二十万両(現在の通貨で二百億円位)にもおよんだ。
しかしながら、米沢藩の重臣達は、格式と儀礼を重んじ、名家の体面を保つための出費を削減せず、領地の農民の年貢を厳しく取り立てる以外の方策を持ち合わせていなかった。生活苦のために領民の他藩への逃亡が絶えず、また間引きによる人口減によって、農民の数が著しく減少したために、第8代藩主重定は、藩の財政破綻を救うために領地を幕府に返上する案も検討したほどであった。
この時点で嫡男に恵まれなかった上杉重定は、日向国高鍋藩(上杉家と母方が遠縁であった)の次男が、きわめて英邁な子供であることを聴き、その子供が10歳になったときに、重定の娘、幸姫の婿養子に迎えた。これが後に第9代藩主となった上杉治憲(鷹山)である。
4 治憲の誓詞
江戸桜田の米沢藩邸にて二歳年下の幸姫と共に暮らしながら、儒者の細井平洲から将来の藩主に相応しい教育を受けた後、十六歳で元服し、従四位下に叙せられ弾正大弼に任官し、翌年、明和4年(1767)十七歳のときに治憲は江戸藩邸にて上杉家の家督を継いだ。
治憲はこのときに秘かに米沢本国の春日神社に使を送って、つぎのような誓詞を奉納した。[3]
一 文学壁書之通 無怠慢相務可申候 武術右同断(文武の修練は定めに随い怠りなく励むこと)
二 民之父母之語 家督之砌 歌にも詠候へば[4]此事第一思惟可仕事(民の父母となることを第一の務めとすること)
三 居上不驕則不危 又恵而不費と有之候語 日夜忘間敷候
次の言葉を日夜忘れぬこと 「贅沢(に驕ること)無ければ危険なし」「施して浪費するなかれ」
四 言行不斉 賞罰不正 不順無礼之様 慎可申候
言行の不一致、賞罰の不正、不実と虚礼、を犯さぬようつとめること
右以来堅相守可申候 若於怠慢仕者 忽可蒙神罰 永可家運尽者也 仍如件
これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、
家運を永代にわたり消失されんことを。
5 自分自身の生活を改めることから藩の改革を始める
十七歳で家督を継いだ治憲は、藩政改革に熱心で藩主にも直言できる家臣を江戸藩邸に集めて、彼らの意見を聴取し、議論をつくさせた。その後に、江戸家老をはじめとして藩邸に居るすべての家臣を、身分の上下を問わず集めて、自らの決断を告げたのである。
彼は、まず藩主である自分自身が率先して無用な支出を切り詰めることから始めた。それまで1050両あった藩主の江戸仕切料(江戸での生計費)を209両に減額、奥女中を五十人から九人に減らし、一汁一菜、木綿着用という粗衣粗食の生活に徹したのである。更に名藩としての体面を保つための一切の虚礼(年間の祝事、神社仏閣の公的参拝などの煩瑣で形式的な宗教行事や贈答の儀礼的習慣など)を中止または延期することを宣言した。
6 国元の重臣達の反発
江戸でのこのような治憲の改革の開始宣言は、米沢藩をそれまで取り仕切ってきた国元の重臣達の反発を買うことは必至であった。日向高鍋藩という小藩から婿養子として藩主となった元服したばかりの青年の藩政改革宣言は、高家筆頭の吉良家とも縁の深い上杉家の格式と礼法を重視するこれまでの慣例を無視するものと国元の重臣達は判断したからである。しかし、そのような重臣達の保守的な態度では、壊滅の危機に直面している米沢藩の現実を救うことはできないというのが、江戸藩邸にて治憲の考えに賛成して共に改革を開始した少数の家臣達の考え方であった。そこには家臣相互の反目もあった。
二年後、十九歳で自領の米沢にお国入りしたときの治憲については様々なエピソードが伝えられている。たとえば、領内の土地の荒廃と領民の逃亡離散による過疎化を直接目にした治憲は、藩政改革の容易ならざる事を覚悟したが、たまたま籠中の煙草盆の死灰の中に僅かに残る火を吹き立て、それを火鉢の炭に次々と移すことができたことを経験して、
「一身の辛苦を厭はず経営怠るなくんば、一国もまたかくの如く挽回の運に向かうべし」
という教訓を得たこと。また、あまりにも簡素なお国入りに藩の国家老達は、眉をひそめ上杉家の伝統に相応しい格式を守ることを若き藩主治憲に求めたことなど、国の重臣達の意向を無視して性急に改革を進めた若き藩主に嫌がらせがあったことを様々な資料が伝えている。
7 治憲の新しい統治方式と国元の重臣達の造反
治憲は、自分の意向を無視しようとした重臣達に臆することなく、それまでの慣例を破り、足軽に至るまでのすべての家臣を自分の居城に招集して、藩政の窮乏の実態をあるがままに告げた。そして破産に瀕した藩の改革実現のためには、藩主になったばかりの自分の能力には限界があることを率直に認めたうえで、藩士全員の協力がどうしても必要なことを説いた。このように身分の上下に関係なく、すべての家臣を集めて、その前で、率直にあるがままの現実についての情報を公開したうえで、家臣団の協力を要請するというのが治憲の治世の新しい流儀であった。
治憲の大胆な藩政改革に対して、のちに七人の保守的な老臣が造反したが、当時22歳の治憲は春日神社に参り、平和的な解決の道を祈願したあと、家臣全体を集め、自分の政治が天意に反していないかどうか尋ね、その場にいた大多数の家臣から、治憲の改革に賛同するとの回答を得た後で、造反した老臣たちを処分した(二名に切腹、五名に隠居閉門と知行一部召上げを命ずる厳しくも果断な措置であった)
8 藩政改革の基本
治憲の藩政改革の基本方針は、人民の幸福こそが統治の目的であるということ、それを実現する正しい統治のためには能力のある人材を適材適所に登用することが必要であること、単なる倹約や年貢の厳しい取立てによって財政を改善するのではなく、積極的な施策と投資によって人民の生活の安定を図ることにあった。
9 敬天と愛民の心―仁愛と正義の実現
治憲は「民の父母」となる行政を実行するために、郷村の頭取、次席、群奉行を新たに任命するに際して次の文を書いて与えた。
〇 赤子之生無有知識、然母之者、常先意得其所欲焉、其理無他、誠然而已矣 誠生愛、愛生智
赤坊の生命は知識をまだもたないが、母親は子供の欲求を常に先に会得して世話をするものである。その理由はほかでもない、誠(内村鑑三の英訳はsincere heart=まごころ)が自然にそうさせるのである。誠が愛を生み、愛が智を生む
(Sincerity begets love, and love begets knowledge)
〇 唯其誠矣、故無不及、吏之於民、与此何異哉、誠有子愛民之心、則不患其才智之不及也。
唯その誠があるだけで、及ばないということはないのだから、官吏の民に応接する場合でも、これと何が異なっているだろうか。誠にあなたに愛民の心があるならば、才智の及ばないことを患う事はないのである。
治憲は、領内を十二分して十二人の教導の任にあたる出役を配し彼らに「飲食のこと、衣服のこと、婚姻のこと、法事のこと、葬式のこと、家屋修繕のこと、孤独を憐れむこと、孝行のこと、産業のこと」など、一々明細に人民を教える方法を示した。[5] また、教導出役の下に「廻村横目」という警察官を置き、「出役は地蔵の慈悲を主とし、内に不動の忿怒を含むべく、横目は閻魔の忿怒を表し、内に地蔵の慈悲を含むべし」と教えた。
12 治憲の社会事業ー農地の開墾整備と治水灌漑・社会保障制度の充実・産業の振興・教育改革・医療改革など
〇米沢藩の産業政策として、領内から荒蕪地をなくすために、大地を神聖に扱い、農業を奨励するために「土地崇拝」の儀式である「籍田の礼」をおこない、土地の荒廃をふせぐための漆の木や楮の木を植えさせた。
〇十一里にわたる水路をもうける灌漑事業と、山に二百間のトンネルを掘ることによって河川の流れを変える事業を黒井という算術家を新たに登用して実現させ、荒蕪地を良田に変えることに成功した。
〇農民には伍什組合を設けて相互補助にあたらせた。その「仰出」の文には
「老いて子なく、幼くして父母無く、或ひは貧にして養子に疎く匹偶に遅るる、或ひは片輪にて身過しのなり難き、或ひは病気にて取り扱いの行立ち難き、死して葬をなし難き、又は火難に雨露を凌ぎ難き、変災に遇ふて家の立ち難き、かかるよるべなき者あらんには其の五人組身に引き受けての養ひあるべく、五人組にて行き届き難きは、住人組より力を任せ、十人組の力に及び難きは一村の救に其難儀を除き其の生涯を遂げしむべく候」
とあるが、これは伍什組合という治憲の考案した独自の相互補助組織による社会福祉政策の先蹤といえよう。
〇領地を日本一の生糸生産地にするために、奥向きの費用二百九両より五十両を削って、桑の植樹や養蚕業を奨励し、それによって米沢織の名を今日高めるに至った。
〇 藩校を再興し興譲館と名づけて、かつての師細井平洲を招き館長とし、奨学金を設置して、若き人材の育成に努めた。
〇 藩の医師を杉田玄白につかせて西洋医学を学ばせ、病院を設立した。また公娼制度を廃止して藩の風紀を正した。
13 家督の禅譲ー権力の座に長く居座らないこと
治憲は、天明5年(1784年)三十四歳の時に家督を前藩主の実子治広に譲って隠居した。これは権力の座に長く居座ることが、国家を私物化する悪弊を生むという彼の信念に基づくものであった。「伝国の辞」を遺して隠居した後も、治憲は新藩主を補佐指導したが、享和2年(1802年)に剃髪し「鷹山」と号した。文政5年(1822年)に七十歳で逝去した後も、彼は「鷹山公」として領民から名君として記憶され敬愛された。
[1] 米国のケネディ大統領が「最も尊敬する日本人は誰か」という質問に対して、上杉鷹山の名前を挙げたときに、その場にいた日本の新聞記者は上杉鷹山の名前を知らなかったというエピソードがある。
[2] 「伝国の辞」とともに、鷹山の歌「為せば成る為さねばならぬ何事も為らぬは人の為さぬ成りけり」も次の藩主に伝えられたが、これは『書経』太甲下編で殷の第四代帝王の大甲に補佐役の伊尹(いいん)が述べた忠言「弗慮胡獲、弗為胡成慮」(慮(おもんばか)らずんば胡(なん)ぞ獲ん、為さずんば胡(なん)ぞ成らん)」に由来する。
[3] 江戸の米沢藩邸に居た治憲が秘かに奉納したこの誓詞は、百二十五年後の明治二十四年八月にはじめてその存在が一般に知られた。
[4] 「受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母(ちゝはゝ)」という治憲直筆の書一幅が、現在米沢の上杉神社の宝物館稽照殿に遺されている。
[5] 内村鑑三が、十二人の「教導出役」を基督教の教区の巡回説教師に擬えている事に注意したい。
「神の国」を地上に実現しようとした最も貴重で勇敢な実例として、フィレンツェのサヴォナローラ、英国のクロムウェル、英国を追われて新天地アメリカに渉ったクエーカー教徒のウィリアム・ペンに匹敵する人物として上杉鷹山を位置づけているからである。基督教精神にもとづく人民のための革命を志した三名の英傑が夢見た「敗者をいたわり、おごるものを砕き、平和の律法を築く」王国によく類似した共和国が、「真のサムライ」である上杉鷹山によって、異教国の日本にもかつて存在したことを欧米の読者に伝えることが内村鑑三の鷹山論の執筆の目的であった。
ペトロ岐部とシドッチー「十字架の道を行く旅人の心」
田中 裕
1「隠れキリシタン」ではなく「隠れたるキリスト者」
「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的であるが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味する以上、決して特殊な言葉ではない。そこで、この講演では、「隠れたるキリスト者Hidden Christian」という用語を使うことによって、原始キリスト教の宣教の基本精神との関係の中で日本のキリシタンの歴史を再考したい。そのために、まず「隠れたるキリスト者」の三つの意味を区別したうえで、歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づける。
1-1 隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-迫害の中で隠れた所にいます神に祈る-「マタイ福音書の初代キリスト者の祈り」
あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)
ステパノのように信仰告白すれば、殉教する危険にさらされていた當時のキリスト者の一人がマタイ福音書の書記者であった。「奥の部屋にはいって」祈るというところ、日本の隠れキリシタンとおなじではないだろうか・
1-2 隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)
-非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)
「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」 「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)
フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教であった。
1-3 隠さたるキリスト者-C (Hidden Christian-C) ─時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者、あるいは「隠されたキリスト者」
たとえば細川ガラシャ(1563-1600)の場合、彼女がキリシタンであったと云う事実は、島原の乱以後の厳しい鎖国時代には隠されていた。たとえば儒者黒沢宏忠の「本朝列女傳」(1668)は、夫の名誉のために自決した「細川忠興孺人(夫人)」を「細川内室、當時節女、婦而有儀・・」と頌えているが、林羅山の弟子筋に当たるこの著者が、「細川内室」が「ガラシャ」という洗礼名をもつキリシタンであったことを知ったならばさだめし仰天したことであろう。
ペトロ・カスイ・岐部の場合も長きにわたって「隠されたキリスト者」ないし「隠された日本人司祭」といえよう。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。彼が難民としてマカオに脱出した後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、潜伏を余儀なくされたキリスト者達を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになった。
2-1 十字架の道を行く旅人ペテロ岐部カスイー地球に架けられたロザリオ
このペトロ岐部の往路(求法の旅)帰路(伝法の旅)を見ると、全体が地球に架けられた大きなロザリオに見える。このロザリオに沿って、かれは地上を旅しつつ、十字架の道行きをしたのである。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市は、そのままロザリオの数珠であろう。
1582(天正10) 本能寺の変 天正少年遣欧使節日本出発(8年後に帰国)
1587(天正15) 豊後国浦部(大分県国東半島)でペトロ岐部誕生。岐部一族は大友氏の水軍衆の家系。大友宗麟の死去と秀吉の宣教師追放令直後の政治的・宗教的混乱の中で、父のロマノ岐部は宣教師の代役として領民に受洗する資格を得ていた。
1593(文禄2) 大友義統が豊後の国を秀吉に召し上げられ、父ロマノ岐部は所領を失い牢人となる。1600(慶長5) 石垣原での大友家再興のための合戦に敗れたロマノ岐部は、13歳の息子ペトロ岐部を長崎のイエズス会セミナリオに入学させるも、セミナリオが火災で焼失したため、翌年、肥後の有馬に移新築された有馬セミナリオに移住。
1606(慶長16)、セミナリオ卒業時に、将来イエズス会士となるための仮誓願をたて、「カスイ」という号を名乗り同宿として神父の補佐として働く。この号は、おそらく「活水(生ける水 aquaviva)」で、當時のイエズス会の総長のClaudio Aquavivaの苗字を頂き諱としたものであろう。
1614(慶長14)江戸幕府の吉利支丹禁令、教会堂の破壊、宣教師国外追放。
1615 (元和元) ペトロ岐部、日本人司祭となることを志して、長崎からマニラ経由でマカオに渡る。
1617 (元和3) マカオで現地人の日本人難民に対する反感と差別に出会い、三人の同宿と共にマカオを脱出、インドのゴアに到着。ゴアから海路リスボンをめざした同宿と別れて、単身、ホルムズ海峡を渡り、陸路でバクダード・ダマスカス経由、エルサレムに行く。
1619(元和3)エルサレム着。オスマントルコの支配下にあったが、フランシスコ会の聖地教会で巡礼。1620(元和6)パレスチナからヴェネチアを経てローマに到着。11月司祭となり、イエズス会に入会。聖アンドレア修練院に入り、コレジョ・ロマーノで倫理神学を学ぶ。
1622(元和8) 6月に帰国願いを出して、ローマを去り、バルセロナ・エヴォラ経由でリスボンに行き11月リスボンの修練院で誓願をたてる。
1623(元和9) 3月リスボンを出発。喜望峰・モザンビーク経由でインドに戻る。当時の日本は将軍家光ののもと、江戸の大殉教。各藩が幕府の命により厳しい迫害を開始。
1624(寛永元) ゴア到着。 仙台大殉教。1625(寛永2)マカオ到着。1627(寛永4)2月マカオを去り、マラッカ海峡でオランダの海賊船に遭遇、5月にシャムのアユタヤに行く。
1627(寛永4) アユタヤからマニラに渡る。
1630(寛永7) 六月ルパング島出発、七島海峡で難破するも帰国がかない坊津に上陸後、長崎へ。(出国後15年が経過。ペトロ岐部43歳)
1633(寛永10)長崎で厳しい迫害。フェレイラ神父棄教。ペトロ岐部は長崎を去り東北に行く。
1639(寛永39) 仙台領内でポルロ・式見両神父と共に捕縛され、大目付井上筑後守政重の屋敷で査問を受ける(将軍家光、柳生但馬守、沢庵和尚も同席、棄教した沢野忠庵ことフェレイラ神父とも再会)。
棄教を拒否したため、小伝馬町の牢屋で殉教。(H。チースリックと五野井隆史の考証による)
3 ザビエルの初心に還ることー「純一なる愛の働き」
3-1 旅行く人(homo viator)の心
ペトロ岐部とシドッチに共通する精神として Homo Viator (旅ゆく人)の心をあげたい。万里を遠しとせず命がけで求道/伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであった。日本に普遍のキリスト教を伝えた最初の宣教師ザビエルの「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」[1]という祈りは、諸王のなかの王なるキリストに対する忠誠を誓いつつ、他者のために十字架の道を行くキリストに倣う心を表現したものである。西洋の騎士道精神とキリストの出会いの所産ともいうべきものであったが、それは日本の戦国時代、中世から近世へと移行する転換期の武将たちの儒教的な「士道」の精神に直接訴えかけるものでもあった。
そして、ポルトガルやスペインのような大帝国の国家主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めてエルサレム経由でペテロの殉教の地であるバチカンに巡礼の旅をしたペトロ岐部もまた、ザビエルと同じく「十字架の行道」を志した人であった。
彼はマカオで難民生活の苦渋を味わったのちに、ゴアに行き、現地の信徒組織の人々からの支援だけをたよりに、陸路を一人でエルサレムまで旅をした最初の日本人であった。そして彼は、使徒ペテロと同じく祖国日本の迫害のさなかにある切支丹のもとへと帰還の旅に出る。帰国後も国内を潜伏しつつ旅を続け、東北で逮捕され江戸の切支丹屋敷で糾問される。そこで彼は将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守と対面している。岐部は、殉教者として、「キリストの法の真理」を証言するために徳川幕府の権力者と対面したといって良いだろう。
3-2 シドッチの旅と新井白石との対話
江戸時代に来日した「最後の宣教師」としてのシドッチもまた、「旅する人」であり、キリスト教の真理を証言するために殉教した人であった。
新井白石の『西洋紀聞』とあわせ読むべき資料として、徳川実紀ー文昭院殿御実紀(十九世紀前半に編輯された江戸幕府の公式史書 全517巻)がある。その宝永6年11月22日(1709)の条に、シドッチを「行人」と呼んでいる箇所がある。
ローマ法王の密使としてシドッチは来日したのであったが、途中長崎に立ち寄ったときに、当時ローマ・カトリック諸国と敵対していたオランダ人によって、彼が持っていたローマ法王の署名入りの手紙(通行手形)を没収され、単なる密入国の宣教師として処理されることとなった。そのため、正式の国信を持っていないことが江戸の裁判で問題とされたのである。しかし、白石は、シドッチがみずから「行人」と名乗っていたことに注目し、「行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て」と幕府に進言した。つまり、「行人」であるシドッチを処刑することは正しくない。シドッチの言葉が真実であることの徴があるまで待つようにと白石が述べたので、シドッチは切支丹屋敷の中で、みずからの信仰を捨てることなく遇されたというのである。
「行人」とは訓で「こうじん」と読めば、「旅人」であり、「ぎょうにん」と読めば「修行者」を意味するが、シドッチは自らをそのような「旅人であり修行者」であると白石に言っていたらしい。私は、さらに「修証者(あかしをするひと)」という意味を付け加えたい。すなわち殉教を意味するギリシャ語の原義は「証をする」という意味であり、その覚悟がなければ波濤万里を超えて日本まで旅することはなかったであろうから。「修証一等」とは、中国にまことの仏法を求めて旅に出た道元の言葉であるが、江戸時代の寺請制度のなかで身分を保障され体制化した仏教には、このような求法/伝法の旅の精神は失われてしまったのではないだろうか。ザビエル、ペトロ岐部、そしてシドッチに共通するものは、まさにキリスト教的な「修証一等」の精神であり、国家権力と妥協せずに「キリストの真理」を証しする「旅ゆく人」の精神である。
3-3 シドッチと長助・はる夫妻の殉教
シドッチによってキリスト教信仰を告白した長助はる夫妻にかんする新井白石の記述によると
「正徳四年甲午の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりしといふ夫婦のもの〈此教師は、黒川寿庵といひしなり。番名はフラソシスコ=チュウアンといひしか。奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ〉、自首して、「むかし二人が主にて候もの世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず。年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」と申す。まつ二人をば、其所をかへてわかち置かる。明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。ここに至て、其真情敗れ露はれて、大音をあげてののしりよばはり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじぎ由をすすむる事、日夜に絶ず。……此年の冬十月七日に、彼奴なるものは、病し死す。五十五歳と聞えき。其月の半よりローマン人も身病ひすることありて、同じき二十一日の夜半に死しぬ。其年は四十七歳にやなりぬべき。」
二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「授戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。
一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。
ここで注目すべきは、「此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。」という文である。「我が法のため」とはキリスト教のためと云うことであるが、長助・はる夫妻は、キリスト教を「我法」と呼び、自首して信仰告白をすることによって殉教の意思を表したと云うことである。浦上の隠れキリシタンが、自らキリスト者であることを名乗り出たのは、明治維新の直前であったが、長助とはるもまた、信仰告白をして殉教した「隠れたキリスト者」であったと思う。
[1] 「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありません。ただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです」
The record of Shidoti’s trial after Chosuke and Haru’s confession of Christian faith according to the official document, Nagasaki Jitsuroku Taisei 長崎実録大成 (The Great Collection of Nagasaki’s Accurate History) edited by Tanabe Mokei 田辺茂啓(1688-1768).
(Japanese Texts)
宝永五戌子年十一月九日、薩摩より異人送来る。則永井氏、按ずるに、邏媽録に載る注進状によれば、永井讃岐守は此頃在府中なれば、駒木肥後守の誤り也。別所氏立会にて被遂穿鑿処、彼者イタリア国ロウマの者、名ヨアンバツテレス、苗字シロウテ、宗旨キリステアンカツトウリコと云。身の長五尺八九寸、鼻筋高く色白く髪黒し。日本風俗の如く月代を剃り、当六月頃より、薩州領屋久島に来居たる由、書籍の如き物八冊持居る。日本詞を書写したる物と見えたり。日本詞と蛮語取換て云述る。其訳分明に通達し難し。先其身切支丹宗門の由、願かましき事もなく、唯宗門を勧め入る様の事而已を云出す。食物は薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て、飢を凌し由也。長崎来着の後は、和蘭陀人食物の如きを食す。段々御検議の趣、江府言上有之。
一、宝永六年九月二五日、御下知に依て、彼異人牢輿にて、検使両人下役四人、通詞今村源右衛門に外に二人、町使六人、都合二十六人相添う、江府へ差遣さる。於江府小日向に。前々より有之切支丹屋敷に差置かる。彼異人、毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置。按ずるに、外国通信事略に、月俸のことを載せず、こは新井君美が著書なれば、其実を得し事論なし。扨又、附添の人数は、其翌寅三月長崎に帰省す。
二、正徳四年三月、右の異人御咎のことありて詰牢に移さる。その趣、前年牢番の者両人に、切支丹宗門を勧め入れたるよし、御聞に達し、宗門御改、横田備中守警護者数十人引連られ、通事名村八左衛門通弁にて、御書付を以て、只今迄馳走を加え差置る処、御制禁の邪宗門を授けたる段、不届至極なりとて、此度牢詰に移さる。彼異人其年の冬月極寒の砌、凍死せしとなり。
(commentary)
〇資料一から、シドッチの姓をシロウテ、名をヨアンバツテレスと姓名を逆にしてはいるが、彼が「宗旨キリステアンカツトウリコ」、即ちカトリックのクリスチャンであることは正しく理解していることが分かる。「薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て」とあるは聖体のことであろう。
〇資料二から、シドッチは、おそらく新井白石の配慮で、「毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置」という破格の良い待遇をキリシタン屋敷で与えられていたことが分かる。転び伴天連では無いシドッチが、キリスト教を信奉したままで、このような厚遇を以て遇せられたことは、異例であったことがわかる。長助とはる夫妻は、キリスト教の生きた信仰を目の前にして、自分たちが嘗て踏み絵を踏んだことを恥じ、司祭にその罪を告白し、キリスト教に立ち返ったわけである。『西洋紀聞』では彼らが自ら進んで「自首」し、「此ほど彼国人(シドッチ)の、我法(これは夫妻が正しいと思っていた基督の法)のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ(信仰告白)。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」とある。つまり、基督の「法」を受けた以上、それを秘密にして、はっきりと言い顕わさないことは、国家の恩に背くことになるから、あえて信仰告白をして、国家の法によって罰せられることを選択したというのである。
〇資料三から、正徳4年3月に、シドッチを査問したのが、宗門御改 横田備中守であり、通訳が名村八左衛門であったことがわかる。シドッチの死因は、ここでは「凍死」とされている。
〇二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「受戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「受戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。
Arai Hakuseki’s manuscript of Record of Things Heard From the West (西洋紀聞) in his own handwriting.(National Archives of Japan, Cabinet Library Jap. 32551 3-1)-- The date of Sidoti’s death and Records about Chosuke & Haru --
It was in the winter of Shotoku 4 that an elderly slave couple, Chōsuke(male) and Haru(female), who had once served an apostate Christian prisoner (his name may be Kurokawa Jyuan, or Francisco Johan in his native Language) , surrendered themselves to the office, saying, “We were previously taught the (Christian) Law by our master during his life-time, but we didn’t consider it right to betray the Great Prohibition of the country. But after long years elapsed, we encountered the person who had come here for the Law after traveling ten thousand of miles from abroad in spite of the dangerous risk, and then was captivated at last. Seeing this person, we feel ashamed of being frugal of (mundane) short life. Fearing of going through hell for a long time, we have received the Law from him, and are Christians now. If we don’t confess these things, it would look like a treachery to the benevolence of the country. As we have confessed our faith, you should punish us according to the Law of the country.” The husband and wife were separated and confined for the time being. On March next year, the Roman (Sidoti) was investigated through the help of a translator who accompanied the Dutch Envoy, and was sent into prison on the grave charge of secretly giving Christian Law to the couple concerned. And it came to pass that he (Sidoti) cried loudly the names of the couple from the bottom of his heart encouraging them incessantly to confirm their faith and not to change their fortitude until death. …….On October 7 of this year, the husband slave became sick and died at the age of 55 according to the report. Since the middle of October the Roman had also suffered from sickness and died at midnight on the 21th of the same month. His age may be 47. (Translated by Yutaka Tanaka)
Note about the exact date of Sidoti’s death
Japanese historians agree that Sidoti died in 1714. The reason why some commentators in the past wrongly thought that he died in 1715 is partly due to Arai Hakuseki’s error in his hand writing. He writes “It was in the winter of Shotoku 4 that an elderly slave couple…..” (at the beginning of the above citation), and , “On March next year, the Roman (Sidotti) was investigated through the help of a translator who accompanied the Dutch….”According to Hakuseki’s diary, he met the Dutch Envoy to Edo (Tokyo) at Asakusa on March 3 in Shotoku 4 (1714). So “On March next year” is Shotoku 4 (1714) and not Shotoku 5 (1715)
Note about the exact translation of "受戒"
Previous (second-hand)literatures say that Chosuke and Haru were baptized by Sidoti.
"受戒" is originally a Buddhist term which literally means "to receive Law or Commandment”, that is “to become monk” or “to become a devoted believer (in the case of lay persons)”.
According to Kobinata Diary, they were former Christians forced to apostatize before they met Sidoti. (小日向志:又此夫婦、同宿受庵より教誡をも受けしものなれば、転びけれども永く山屋敷に禁固せられたり) So it was more probable that they returned to Christian Faith by confessing their crimes of apostasy before Siodoti than that they were baptized by him.
Original Japanese Texts of Arai Hakuseki’s manuscript of Record of Things Heard From the West (西洋紀聞) in his own handwriting
正徳四年甲午の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりしといふ夫婦のもの〈此教師は、黒川寿庵といひしなり。番名はフラソシスコ=チュウアンといひしか。奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ〉、自首して、「むかし二人が主にて候もの世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず。年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」と申す。まつ二人をば、其所をかへてわかち置かる。明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。ここに至て、其真情敗れ露はれて、大音をあげてののしりよばはり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじぎ由をすすむる事、日夜に絶ず。……此年の冬十月七日に、彼奴なるものは、病し死す。五十五歳と聞えき。其月の半よりローマン人も身病ひすることありて、同じき二十一日の夜半に死しぬ。其年は四十七歳にやなりぬべき。
ジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」(1658)を読むー「棄教」後のキリスト信仰と聖母の祈りについて
遠藤周作の「沈黙」の主人公ロドリーゴ神父のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父の墓碑が2016年1月26日に調布市の有形文化財に指定された。当時のカトリック新聞に 「キアラ神父は(棄教)後にキリスト教の教えを説く本(現在行方不明)を書かされました」という記事があった。しかし、キアラ神父が「棄教」後に書いた本のすべてが行方不明なのでは無く、「岡本三右衛門筆記」という文書の抜粋が新井白石の「西洋紀聞」にあり、更に詳しい内容をもつ「宗門大要」が、姉崎正治の「切支丹宗門の迫害と潜伏」(大正14年刊行)にある。
キアラ神父の「宗門大要」は、17世紀ころの迫害のさなかを生きたキリスト者の信仰の内容を当時の日本語で忠実に伝えてくれる第一級の資料である。
たとえば当時の切支丹は「十戒」をどのように理解していたか。「宗門大要」は次のようにそれを伝えてくれる。
〇十箇条のマンタメント(Mandamento)はデウスよりの御掟の事
第一、 御尊体のデウスを万事に越えて御大切に存じ、尊み奉ること
第二、 デウスの尊き御名にかけて、空しき誓すべからず候こと
第三、 御祝日をつとめ守るべきこと
第四、 父母に孝行にすべし
第五、 人を殺すべからず
第六、 他犯すべからず
第七、 偸盗すべからず
第八、 人を讒言すべからず
第九、 他の妻を恋すべからず
第十、 他の物を猥に望むべからず
右十箇条はすべて二箇条に極まる也
一には、御一体のデウスを万事に越えて御大切に存じ奉ること。
二には、わが身の如くに、他人を思ふべき事是れなり
「宗門大要」では、現代では「愛」と訳す言葉を「御大切」と訳している。これは、現代の私たちにも心にしみる訳語ではないだろうか。たとえば、「汝の敵を愛せよ」というよりも「汝の敵を大切にせよ」と言うほうが、生きた翻訳のような気がするがどうであろうか。
また、「主の祈り」(おらしょ=Oratio)も、当時の生きた言葉で翻訳されている。
〇 天にまします我らが御親、御名をたつとまれたまへ、
御代きたりたまへ。天に於て思召ままなる如く、地に於てもあらせたまへ。我らが日々の御やしなひを、今日我らにあたへたまへ。我ら人にゆるし申すごとく、我らが科(とが)をゆるしたまへ。我らをテンタサンにはなし給ふことなかれ、我らを今日悪よりのがしたまへ。アメン。
この「主の祈り」の翻訳は、「われらの父」ではなく「われらの御親」と訳すところなど、先行する「どちりな・きりしたん」の「ぱーてる・なうすてる(pater noster)」と基本的にかわらないが、「隣人」を表すポルトガル語の「ぽろしも」を「ひと」と訳すように、外来語の音写をやめて、当時の日本人に耳で聞いてわかる言葉に、できる限り近づけようとしている工夫がみられる。
「どちりな・きりしたん(キリストの教え)」によれば、「我らの御親」の「我ら」は貴賤を問わぬすべての人をさす言葉であり、(異教徒も含めて)万人はみな同じ親を持つ兄弟姉妹であるというキリスト教の普遍的なメッセージを伝えている。それは「父」と訳すよりも「御親」と訳すことによってよりよく伝わる。「日々の御やしない」は、(聖体拝領の時に唱える場合)、朽ちる身体ではなく朽ちない心(アニマ)を養う霊的な糧であり、(毎日の食事の時に唱える場合)、われらの身体をやしなう物質的な糧でもある。心と身体の両方の糧を表す語として「御やしなひ」を当時の切支丹は理解していたと思う。
「宗門大要」では、「サンタマリア」の祈りは次のように訳されている。
〇ガラサ(Gratia)みちみちたまふマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共にまします女人のなかに於て、わきて御果報いみじきなり。また御胎内の御身にてましますゼズスはたつとくまします。デウスの御母、サンタマリア、今も我らがさいごにも、我等悪人の為に頼みたまえ。アメン。
「宗門大要」には「雪のサンタマリア」についての伝承も記録されている。 潜伏切支丹の大切な遺産となった「雪の聖母」の絵姿とともに「宗門大要」のアヴェ・マリアの祈りが一つなって聞こえてきたような気がした。
遠藤周作の引用した宗門改の役人の手記に基づく映画版「沈黙」の最後の場面は、仏教の葬儀儀礼に従って棺桶に入れられ薪でで焼かれるロドリーゴ神父の胸に十字架が光り輝くシーンである。これはスコセッシ監督のこの映画にこめたもっとも重要なメッセージであろう。
浄土真宗の門徒として埋葬されたキアラ神父の墓碑は、1943年におなじイタリア人のタシナリ神父によって発見され、サレジオ修道会に大切に保管された。
そのとき、この墓碑銘の「入専浄眞信士霊位」は、仏教の戒名から、キリスト教の「浄い真の信仰」を示す墓標に変容したのではないだろうか。墓標の上の司祭帽のような墓石と、キリシタン文字のように刻まれた梵字が印象的である。
キアラ神父がその生まれ故郷で「殉教者」として絵に描かれていることも、決して全くの誤解によるものではなく、通常の意味での殉教とは違った意味に於て、真実を語っているものと思う。
補足
雪のサンタ・マリアーキリシタンの時代のマリア像―とジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」
「雪のサンタマリア」とは、キリシタン時代の絵画の小断片を掛軸に表装したもので、現在は長崎の日本26聖人記念館にある。その記念館の館長をながらく勤められたレンゾ・デ・ルカ神父が、2018年6月、上智のキリスト教文化研究所で、「信仰伝承の証しとしての<旅>を考える」というテーマで講演されたが、そのときに使われたスライドの一枚が、この聖母像であった。
「雪のサンタマリア」の名称の由来は、諸説あるが、おそらく、日本布教の前にイエズス会の宣教師達が祈りをささげたサンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承に由来する。昔、マリア聖堂奉献を考えていたローマのある貴族に、聖母ご自身が夢に示現され、建設すべき場所を(真夏であるにもかかわらず)雪で示されたという伝承である。
明治維新以後の浦上キリシタンに対する迫害、浦上天主堂の被爆へとつづく受難の歴史を思いつつ、あらためて信徒の苦しみと迫害をともにされた聖母ご自身の<旅>の歴史を感じた次第である。
ところで、Sidotti と新井白石との対話を記した「西洋紀聞」とその関連資料を調べているときに、姉崎正治の『キリシタン宗門の迫害と潜伏』(同文館 大正14年)に収録されている「宗門大要(北条安房守宗門改記録下巻)」のなかの「雪のサンタマリア」の記載に遭遇した。
「宗門大要」は、岡本三右衛門ことジュゼッペ・キアラが、井上筑後守に替わって宗門改役について北条安房守の尋問に応じて明暦4年、1658年に宗門の大要を陳述したのを筆録したものである。内容は、宮崎道生校注『西洋紀聞』に収録されている「岡本三右衛門筆記」とほぼ同じであるが、それにはない文書も記載されており、そのひとつが「雪のサンタマリアと申すこと」という一九番目の文書である。
雪のサンタマリアと申すことは、ロウマにてある侍(さむらい)、子を持ち申さず候(に)付きて、金銀取らせ申すべきものも之なき(に)付て、サンタマリアの寺を建て申すべき由、女房と相談申し候處に、其夜の夢にサンタマリア夢にまみえ給いて仰せられ候(に)付きて、夫婦ながら右の所へ参り見候へば、六月土用の中にて御座候へども、雪降り候て御座候。其處に即ち寺を建て申し候。夫れに就き雪のサンタマリアと申し候。
これは「雪のサンタマリア」に言及した文書の中で最も古いものであり、サンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承とほぼ一致することが注目される。この記事が、「宗門大要」に載っている理由については、姉崎博士自身は「この話を何のために出したのか聯絡不明、或は奇蹟の一證としてか」と述べるに止まっているが、一つの自然な解釈として、シドッチが「親指の聖母」像を持参して来日したのと同じく、ジュゼッペ・キアラも、ミサを立てるときに用いる聖像の一つとして、「雪のサンタマリア」の絵を持参したのではないかという仮説が考えられる。
キアラが宗教画を持参したという直接的な証拠は未だ見いだせないが、「ジュゼッペ・キアラが日本に密入国したときに持参した「書物」については、「岡田三右衛門筆録」に次のような記載がある。
一 ヒイデス、ノダイモク 壹冊 是ハ初テ切支丹ニイタシ、又ハサイゴノ時トナヘ候書物
一 ミイサ、ヲコナイノキヤウ 貳冊 是ハデウス、尊キタムケヲ捧ケ候時ノ経
一 身持ノ書物 壹冊
一 エキノ書 壹冊
一 ヲカボラリヤウ 但三右エ門自筆 壹冊 是ハ日本口ナラヒノ書
一 日本言葉集書 三冊壹結
一 勤三冊ノ書物控 貮冊
一 同下書共 壹結
一 同不審書控 貳冊
一 天地の図ニ有之国郡ノ名付 壹結
一 南蛮ユサンの書付 壹結
一 キリシト天下ル未来記 同
一 諸事アツメ書 同
以上
ここで「ミイサ、ヲコナイノキヤウ 貳冊 是ハデウス、尊キタムケヲ捧ケ候時ノ経」とある点に注意したい。宗門改めの役人にとってミサ聖祭の道具がどんなものであるかは理解できなかったと思うが、キアラがミサをおこなうための「経典」とともに、シドッチと同じくそのための祭具を持参した可能性はあると思われる。
現在、二六聖人記念館に保管されている「雪のサンタ・マリア」がキアラが持参したものであるという直接的な証拠は無いので、即断は禁物であるが、「雪のサンタ・マリア」は、その後様々に(日本のキリシタン説話として)変容された形で、隠れキリシタンの間に伝承されたことはよく知られている。その意味で、サンタ・マジョーレ教会の古い伝承にもっとも近いものが、キアラの言葉を収録した「宗門大要」に掲載されていることが注目されるのである。
「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的ですが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味するのですから、決して特殊な言葉ではありません。
そこで、原始キリスト教から始まるキリスト教史全体を考慮した上で、さらに「現代日本に生きている私達の直面している問題」との関わりを大切にするという観点をわすれずに、この講演ではもっと普遍的な「隠れたるキリスト者」の系譜の中にいわゆる「潜伏キリシタン」ないし「隠れキリシタン」を位置づける試みをしたいと思います。
まず「隠れたるキリスト者」の系譜として、三つの意味を区別しつつ歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づけてみましょう。
〇隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-迫害の中で隠れた所におられる神に祈る-
(マタイ福音書の初代キリスト者の祈り)
マタイの生きていた時代のキリスト者は、ステパノのように公然と信仰告白をすれば殉教するかもしれない迫害を「正統派」のユダヤ教徒から受けていた。街道や街角に立って自分の善行を人に見せびらかすユダヤ教の「正統派」の祈りではなく、「言葉数が多ければ神に聞き入れられると思う異邦人の祈り」でもなく、「まことのキリスト者の祈り」は、どのようなものであるのかについて、マタイ福音書の伝えるイエスは「主の祈り」を教える前に、次のように云います。
「あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)
〇隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)
-非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー
(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)
「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」
「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)
フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教でした。
〇隠れたるキリスト者-C (Hidden Christian-C)
-時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者(隠されたキリスト者)ー
細川ガラシアがキリスト者であったことは、江戸時代には隠されており、ホイベルズ神父ほか多くの人の努力によってそのキリスト者としての生と死が解明されたことは前に述べました。
ペトロ岐部にしても、たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及されているのみで、彼がいかなる人物であったかは書かれていません。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、残念ながらペトロ岐部の名前は見当たりません。
彼が難民として日本から逃れた後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、日本全国の隠されたキリスト者を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになりました。
そのほかにも、天草崩れ、浦上崩れのように江戸時代の夥しい数の殉教者の一人一人の名前は歴史から抹殺されました。
良心の自由などと云う観念のひとかけらももたぬ権力者達のプロパガンダによって、処刑の残虐非道なやりくちにもかかわらず、キリシタンの「殲滅」が徳川幕府の国策であるとして正当化されました。(万人は神の前に平等であり、良心の自由は例え国王といえどもおかすことはできないというキリスト教倫理の根本が、まさに幕府の保守的体制を覆す危険思想でもあったことを忘れるべきで無いでしょう)
しかし、キリシタンは殲滅されたわけでは決して無く、生き延びていた。大浦天主堂で「私たちはあなたとおなじ心です」と潜伏キリシタンの勇気ある一女性が、フランス人司祭に語った言葉は、「主は皆さんと共に(Dominus vobiscum)」という司祭の言葉に応ずる「あなたの心と共に(Et cum spiritu tuo)」でもあった。「潜伏キリシタン」として信仰を守り通した人の信仰告白は「信徒発見」であると同時に「司祭発見」の邂逅でもありました。
また、父祖以来の信仰を護り続け、ローマ教会に入らなかった「隠れキリシタン」の信仰も、日本の大切な文化遺産であることはいうまでもありません。生月島のオラショで歌われる「ぐるりよざ」が、十六世紀のスペイン・ポルトガルで歌われていたマリア讃歌であるということを発見された皆川達夫氏の次の言葉に私は全く同意します。
「オラショのなかには、日本人の生活と信仰、外来文化の摂取と日本化、伝統と現代、音楽のはかなさと強さ、祈りと歌、集団と個人、弾圧と自由、抵抗と順応、掟と罪、人間の強さと弱さ―要するに一人の音楽史研究者としてこの現代日本に生きている私のあらゆる問題がある。隠れキリシタンは今や私にとって、私の生き方そのものを問いただす存在となって、私に対峙している。」
(皆川達夫著「オラショ紀行-対談と随想」(日本キリスト教団出版局 1981)