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歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書: カント 2

2005-05-10 | 哲学 Philosophy
「純粋理性の誤謬推理」

「考えるものとしての私」は「霊魂(=心)」といわれる。合理的心理学は、「私は考える」(Ich denke)という唯一の命題から、霊魂は「実体」(Substanz)であると考え、ここから霊魂の「非初質性」・「不滅性」・「人格性」・「精神性」・「物体との交互作用」のごときを導き出すのであるが、カントによると、「考えるものとしての私」とは「統覚の自我」として、「単純な、それ自身まったく内容を欠いた表象」であり、すべて客観を捨象せる「思惟形式」(die Form des Denkens)としての「自己意識」(Selbstbewußtsein)Jを意味している。それは、「限定する(bestimmend)自己」の意識であって「限定され得る(bestimmbar)自己」の意識ではない。それは「概念」であるとすらもいうことはできず、むしろ「あらゆる概念に伴う一つの意識」にすぎないのであり、「あらゆるカテゴリーにその運載者(Vehikel)として随伴する」ものであって、「直観において与えられたもの」を意味しているのではない。したがって、それに「実体」というカテゴリーを適用するわけにはゆかぬ。

*合理的心理学の主張を、推論形式で表示すれば、次の如くなるであろう。

大前提: 主体(Subjekt)として以外に思惟せられ得ないものは実体(Substanz)である。
小前提: 思惟するもの(ein denkendes Wesen)は、主体Subjekt)として以外に思惟せられ得ないものである。
結論:  故に、思惟するものは実体である。

ここに媒概念は「主体(Subjekt)として以外に思惟せられ得ないもの」であるが、大前提においては「直観において与えられる主体として思惟せられるもの」を意味しているが、小前提においては「直観において与えられず、ただ思惟形式としての主体としてのみ思惟せられるもの」を意味している。従ってその推論は、媒概念多義性の誤謬推理であるということになる。

以上がカントの説明の要旨であるが、カントの当時、Subjekt (主体)とは、伝統的には「主語」の意味であり、今日でも、その言葉は、なおその意味に使われる場合が多い。「主語(Subjekt)が実体(Substanz)である」とは、アリストテレス以来、西洋哲学における伝統的な考え方である。それに反して小前提における《Subjekt》(主体)とは、経験論的な能力心理学を形相化し得たカントによって、はじめて新しい意味を与えられたのであって、先にのべた「先験的演繹論」は、そのためにカントが絶大の労苦を払ったことを我々に告げている。今日、日本語で「主観」と訳せられる意味は、ここではじめて与えられてくることになる。従って、このような形相的観念論の立場を獲得し得たカントにとって、「主語(Subjekt)が実体である」という伝統的命題は、ただちには肯定されなくなる。実体であり得るような「主語」(Subjekt)とは、感性的直観に与えられる「質料」を備えていなければならない。カントは、その意味に大前提を解する。

しかるに伝統的な意味で「主語(Subjekt)が実体でおる」といわれた場合の「主語」(Subjekt)は、感性的直観に与えられる質料を備えている必要はなかったのである。

《Subjekt》は日本語で一方では「主語」とも訳され、他方では「主観」とも訳される両方の意味をもっているともいえるわけであるから、それを利用していえば、前述の大前提に於ける《Subjekt》は「主語」の意味であり、小前提に於ける《Subjekt》は「主観」の意味であるから、この意味で、媒概念多義性の誤謬推理であるということにもなるのである。

しかしカントにおいて、Subjekt の「主観」としての意味は、なお曖昧な点を残している。それはなお、伝統的な形而上学的存在論のモティフを残している。

小前提において「思惟する私はSubjekt(主体)として以外に思惟せられ得ぬものである」という場合、この《Subjekt》(主体)とは、感性的直観における質料を欠いた思惟形式であり、「限定する自己の意識」として自発性において捉えられながら、なお固定化せられている。この意味でカントはそれが「思惟せられたもの」であるというのであるが、このように固定化せられて捉えられているために、思惟という作用の「主体」であり「基体」として、それがふたたび「実体」として想定せられ得る道が開かれているのである。これを独断的に想定するなら、伝統的な合理的心理学への逆転であるが、カントの場合には、理性統一のための「発見的原理」として想定するという作業仮設の意味で許容されるのであり、さらに道徳哲学で進んで霊.魂の不死が要請され得る途を開いておくのである。

これは伝統的形而上学の全き破壊ではなく、その変貌・浄化であり、実は伝統的形而上学の人間学化のカント的段階を意味するのである。《Subjekt》(主体)のカント的固定化を流動化する方向にカント以降のドイツ観念論は展則されたということができるであろう。

 合理的心理学は誤謬推理に基づいているとされることによって、在来の合理的心理学は根抵的な打撃を与えられ、心(霊.魂)の非物質性・不滅性・人格性のごときを立証することはできぬとせられたわけであるが、これと共に、またその反対を立証することも不可能とせられたわけである。「考えるもの」としての心(霊魂)には、「実体」のカテゴリーは適用できぬのであるから、「唯心論」(Spiritualismus)と共に「唯物論」(Materialismus)もまた成立し得ぬのである。しかしそれは「知識」(Wissen)としては成立し得ぬということであって、内的現象に関わる多くの悟性認識に理性統一を与えるための純粋理性概念としてこれを統制的に使用することは認められるのであり、さらに進んで、その積極的な決定は、「信仰」(Glauben)の領域に移されるのである。理論理性の問題であるよりは、むしろ実践理性の問題となるのである。


純粋理性の二律背反

「二律背反」とは、外観上、独断的なる二つの認識-「定立」(Thesis)と「反定立」(Antithesis)と-の間の矛盾をいう。

*純粋理性の二律背反は宇宙論的イデーに関わる。カントは、宇宙論的イデーを、カテゴリーの表を手引きとして提示する。(A.408-415, B.435-4429)
宇宙論的イデーは「現象の制約の系列の絶対的総体性」である。そこで宇宙論的イデーは、制約が系列をなす点に注目されることによって導かれる。

第一には分量のカテゴリーであるが、現象する量は時間と空間とである。ある与えられた時間に対する制約は、それに先行する時間であり、それに対する制約は、さらにそれに先行する時間である。そこでここに系列が成立し、或る与えられた時間までに経過せる全時間が、制約の全系列をなすのである。また或る与えられた空間に対する制約は、その空間を限界付ける、より大なる空間であり、その制約は、さらにそれを限界付ける、より大なる空間である。ここにも系列が成立し制約の系列の絶対的総体性というイデーが成立する。

 第二に質のカテゴリーでは、実在性即ち物質が被制約者とみなされ、これを内的に制約するものはその部分であり、さらに、それを制約するものは部分の部分である。かくしてここにも系列が成立し、完全なる分割というイデーが成立する。

 第三に関係のカテゴリーでは、因果性のカテゴリーが系列をなしている。被制約者としての結果から、制約としての原因へ、さらにその制約としての原因へとさかのぼり、かくて制約の全系列を構成することができる。

 第四に様相のカテゴリーでは、偶然的なるものが被制約者とみなされ、偶然的なるものを必然的ならしめるその制約へ、さらにその制約の制約へとさかのぼり、最後に、絶対必然性がその系列の総体性において見出されることになる。

 以上四種類の宇宙論的イデーに相応じて、純粋理性の二律背反は四種類成立する。
 
 カントによると、純粋理性の二律背反には、次の四種がある。

第一の二律背反
定立 「世界は時間上、はじまりを有し、空間上も限界の内に閉されている。」
反定立「世界は、時間上はじまりを有たず、空間上、限界をもたぬ。むしろ、時間に関しても空間に関しても無限である。」

第二の二律背反
定立 「世界における複合的実体は、いずれも単純なる部分より成る。一般に、単純なるもの、または単純なるものから合成せられるもののみが存在する。」
反定立「世界における複合せられたものは、決して単純なる部分から成立せず、また一般に世界には決して単純なるものは存在しない。」

第三の二律背反
定立 「自然の法則に従う因果性は、世界の諸現象が、ことごとくそこから導出せられ得る唯一のものではない。現象の説明には、なお自由による因果性(eine Kausalitaet durch Freiheit)を想定することが必要である。」
反定立「自由なるものはない。世界における一切は、もっぱら自然の法則に従って生起する。」.

第四の二律背反
定立 「世界には、その部分としてか、あるいは、その原因としてか、絶対に必然的なる存在体たる或るものが属する。」
反定立「世界のうちにも、また世界の外にも、世界の原因として、絶対に必然的なる存在体はどこにも存しない。」

カントはこれらの「定立」と「反定立」とに対して、それぞれ詳細な証明を行っている。これら両者が、それぞれ理論上、成立し得ることを示さんがためである。カントによると、「定立」の側は「独断論」(Dogmatism)を、「反定立」の側は「経験論」(Empirismus)を、それぞれ代表しているのである。これらの二律背反という難問に純粋理性が逢着するのは、世界、即ち現象の総括が、「与えられている」と考えるところに成立するのである。世界が時空上限界があるかないか。世界における物質の要素として単純なるものがあるかないか。世界には自由なるものがあるかないか。世界には、決して偶然的ならざる必然的なる存在体、自らによって存在する存在体があるかないか。これらの問に対して世界が「与えられている」ものと考えるから、その何れかでなければならないと考えるのであるが、しかし世界は、「それ自身においてあるもの」(=「物自体」)として「与えられている」ものでなく、実は、「現象」として、その総括が、我々に「課せられている」ものにほかならないのである。まことは「現象」であるものを「物自体」と考え、まことは「課せられている」ものを「与えられている」と考えるところに、純粋理性の二律背反という難問が生じたのに外ならぬ。

時間をどこまでも遡源し空間のひろがりをどこまでも拡大するということ、また物質をどこまでも分割してゆくということ、また因果の系列を遡源してどこまでも原因の原因を求めてゆくということ、さらにまた、偶然的なるものを必然的ならしめる必然性をどこまでも追求しゆくということ、これらの手続きはどこまでも「不定の範囲に」(in indefinitum)行われ得るのであって、我々にはこのようにして現象を総括することが「課せられている」のである。現象の総括そのものは、「与えられている」のではない。世界は、時・空上、有限であるともいえず無限であるともいえず、また世界には、単純なるものが有るともいえず無いともいえず、また自由なる原因があるともいえず無いともいえず、さらにまた絶対に必然的なる存在体があるともいえず無いともいえない。これを何れかに決定しようとする二律背反の定立も、反定立も、共に誤りであるといわなければならない。

 しかしながら第一と第二の二律背反と第三と第四の二律背反とでは、事情をやや異にしている。カントによると、第一と第二の二律背反においては、定立と反定立との矛盾は、いかにしても調停せられることはできぬが、第三と第四の二律背反においては、定立と反定立とが、共に他を否定して自己を絶対に主張することは誤りであるとしても、なお両者が共に真たり得るとして調停せられることは可能である。定立の側を物自体の世界に、反定立の側を現象の世界に関わらしめるなら、両者は共に真たり得るとして調停せられることができるであろう。
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辯證法にかんする覚書: カント 3

2005-05-09 | 哲学 Philosophy

 カントは、カテゴリーの「分量」と「性質」を数学的カテゴリーとよび、「関係」と「楼相」とを力学的カテゴリーとよんだのに応じて、純粋理性の二律背反の前の二つを「数学的二律背反」とよび、後の二つを「力学的二律背反」とよぶ。カントによると、「数学的二律背反」における「無制約者」即ちイデーは、被制約者の系列の一部をなすものであって、それと「同種的」(gleichartig)であるが、力学的二律背反における「無制約者」-即ち自由なる原因、及び絶対必然的存在体-は、被制約者の系列-即ち自然の因果の系列及び偶然的なるものの系列-の外に存する「単に可想的」(bloss intelligibel)な「異種的制約者」(ungleichartige Bedingung)である。

「現象の制約の系列の絶対的総体性」は有限なものともいえず、また無限なものともいえず、その意味で二律背反の定立も反定立も共に誤りであり、ただ系列の背進的綜合が「不定の範囲に」(in indefinitum)行われ得るという統制的原理を示すにすぎないのであるが、しかしかかる背進的綜合が同種的なるものの綜合でなく、異種的なるものの綜合を意味する場合には、無制約者はこの系列の外にあるのであるから、たとえ背進的綜合が不定の範囲のものであっても、無制約者が存在し得ると考えることは可能になるのである。

 かかる調停はいかにして客観的実在性を得ることが可能であろうか。特に第三の二律背反は、『純粋理性批判』を『実践理性批判』に結びつける重大な点であり、したがってまた、カントの哲学体系にとって最も重要な内容を含むものであるから、次に、第三の二律背反について問題の要点をのべよう。

 例えば一つの悪意ある嘘言のごときある不道徳な行為を為した人を我々が非難する場合を考えてみよう。我々はこのような行為を生み出すに至った自然原因を探究することができる。良くない教育、悪い交際関係、恥知らずの気質、軽卒さ、無思慮などその他、行為に機縁を与えるような「機会原因」)(.=die veranlassende Gelegenheitsursache )を見出し、行為がこれらの原因によって規定せられていることを信ずる。それにもかかわらず、人々はその行為者を非難する。彼はそうせざるを得なかったかもしれないが、そうすべきではなかったと。それは何故であるか。

カントによれば、「人間には、感性的衝動による強制から独立に、自ら自己自身を規定する能力が存している」からである。即ち、「自然に従う因果性」(Kausalität nach der natur)のほかに、「自由からの因果性」(Kausalität aus Freiheit)なるものがあり、後者は「一つの状態を自らはじめる能力」であり、「自らはたらきはじめる自発性」であり、「他の原因の先行することなき自発性」である。第三の二律背反の定立の側でいわれた「自由による因果性」とはかかるものであると解することができる。かかる先験的イデーとしての自由を、自由の実践的概念は某礎としている。「実践的自由」(praktische Freiheit)は、「あることが起らなかったけれども、しかもそれが起るべき(sollen)であった」ということを前提とする。即ち、「自然.原因(Naturursache)から独立に、のみならず、自然原因の強制と力とに反抗してすら、あるものを生み出す因果性、したがって出来事の系列をまったく自らはじめる因果性が、我々の随意性(Wirkuer)のうちにある」ことが前提せられている。実践的意味における自由とは、「感性の衝動による強制から随意性が独立している」ということである。「随意性は、感性の動因によって受動的(pathologisch)に触発(affizieren)せられる限り、感性的であり、それが受動的に強制(pathologisch necessitieren)せられる場合には動物的(即ちarbitrium brutum 動物的随意性)である。人間の随意性はたしかに感性的随意性(arbitrium sensitivum)ではあるが、しかし軸物的ではなく、自由的随意性(arbitrium liberum)である。けだし、感性は人聞の随意性による行動を必然的たらしめないからである。」カントは「感官の対象において、それ自身は現象でないもの」を「叡知的(可想的)」(intelligibel)という。かくて感性界(Sinnenwelt)において現象であるものが、それ自身また感性的直観の対象でない能力を有し、これによって諸現象の原因であり得るとすれば、その因果性は二面から考察せられ得る。しかもすべて「作用的原因」(wirkende Ursache)は「性格」(Charakter)即ち「その因果性の法則」(Gesetz ihrer Kausalitaet)を有する。かくて、我々人間の「主体(主観)の能力」(Vermoegen eines Subjekts)は、一方において「経験的性格」(empirische Charakter)を有し、他方において「叡知的性格」(intelligible Charakter)を有する。人間の主体は、その経験的性格からすれば現象であって、因果の自然法則に従い、その限り人間の行為はすべて自然法則によって説明せられねばならぬ。しかしながら、人間の主体はその叡智的性格からすれば、因果の自然法則に従属せず、一切の自然必然性から独立であり自由である。経験的性格は「現象におけるものの性格」(Charakter eines Dinges in der Ersscheinung)、叡智的性格は「それ自身においてあるものの性格」(Charakter des Dinges an sich selbst)ということができる。かくして「同一の行動」において、「自由と自然」(Freiheit und Natur)とが矛盾なく成立し得るのである。作用の結果が現象である場合、その現象の原因を「経験的因果性」(empirische Kausalitaet)の法則によって現象のうちに求めることは可能であるが、しかしカントによると「かかる経験的因果性それ自身が、非経験的にして叡智的なる因果性(ein nichtempirische, sondern intelligible Kausalitaet )の結果(Wirkung)であることが、むしろ可能ではないか」と。ここでカントは、自然因果性を、結果とするところの、より根源的な原因を考えているといってよい。ここに我々は、プラトンにおける「原因」(aitia)と「副原因」(sunaitia)以来、新プラトニズムを通じて西ヨーロッパに伝えられ、十七世紀には「原因」(cause)と「機会原因(または偶因)」(occasion)の形でとり上げられた問題が、カントによって受け継がれている姿をみることができるであろう。

「物自体」の因果性が、「現象」の因果性よりも更に根源的にして、その基礎として考えることができる、ということをカントはここで言っているのであって、こういう考え方の基本は、カントに至るまでのヨーロッパの伝統的形而上学の考え方であり、こういう思惟のモティフは、ロック、バークリィ、ヒュームのイギリス経験論をも貰いているモティフである。

現象としての原因が「機会原因」であるに対して、物自体としての原因が、真実の意味における「原因」であるという考え方としてもそれはあらわれ、マールブランシュやバークリィに、それは示されている。こういう伝統的形而上学の考え方の基本が十八世紀ドイツのカントに流れ込んでいるということは当然のことであるが、しかしそれはカント的に変容せられ、いうならば、それはカントにおいて根本的な改釈をうけているといってよい。

伝統的な考え方は、カントにおいて、そのままに肯定されているのではない。カントにおいては、その様にも考えることができる、という形で、はじめて認められているという点が重大な相違である。少くともカントは、その様に考えることが絶対にできないということを否定する。だから、そう考えることができるのではないか、とカントはいうのである。カントは確実なる認識を現象の世界に限ったが、だからといって、物自体の世界を否定するのでなく、それへの道を開けておくのである。そしていうならば、物自体の世界の方がより某礎的なる世界であり、現象の世界も、また現象の世界に対する確実なる認識の可能性すらも、物自体の世界によって保証せられ基礎付けられているということを、思惟可能として認めておこうとする。少くともカントは、ここで、絶対にそうではないということをはっきりと否定する。カントは「信仰に場所をあけるために」ここで「知識を取り除く」(das Wissen aufheben)ことをしているのである。

物自体としての原因が、現象としての原因よりも根源的であって、しかもその基礎であるという考え方は、第四の二律背反の解決-その定立と反定立との調停-に直ちにつらなってゆく。第四の二律背反の解決においては、世界の原因としても考えられる「端的に必然的なる存在体」が問題である。第三の二律背反においては、人間の主体-という作用的原因-が、現象界の系列のなかにありながら、-その限り、それは「現象的実体」substantia phaenomenonであるが、かかるものが、しかもまた同時に物自体としても考えられ得るというところに調停が可能であったのであるが、第四の二律背反においては、「端的に必然的なる存在体」即ち神が、まったく現象界の系列の外に在り、その限り「超世界的存在体」ens extramundanumであるとされる点に特質があり、そしてまさにこの点に、その調停の可能なる所以がある。即ち、現象の世界においては、その反定立が主張する如く、いかに制約の系列をさかのぼろうとも「端的に必然的なる存在体」は決して見出されることなく、そこに見出されるものはすべて偶然的なるものの系列である。しかしながらこのことは、この偶然的なるものの「全系列」が、なんらかの「叡智的存在体」即ち「端的に必然的なる存在体」によって「基礎付けられ得る」(gegruendet sein koennen)ということを「拒絶しない」のである。かくして反定立もまた認められることになるのである。即ち第四の二律背反も、その定立と反定立とが両者共に真であり得るとして解決せられる。さて右の如くであるとすると、「現象」と「物自体」との関係は、「偶然的なるもの」と「必然的なるもの」との関係として考えられ、「現象」は、「物自体」という「必然的なるもの」の「偶然的なる現われ方」(zufaellige Vorstellungsarten)であると見なすことができる、ということになる。しかし我々は、この物自体としての「叡知者」(intelligenz)即ち「神」について最少の知識すらもっていない。しかしそれに就いて我々は知識をもちたいと欲する。そこに従来の神学的形而上学の努力があったのであって、それを吟味し批判するのが、次の「純粋理性のイデアール」の問題である。

純粋理性のイデアール

「イデアール」(理想または理想体)(Ideal)とは「個体的なイデア」(die Idee in individuo)であり、「個物」(ein einzelnes Ding)としてのイデーである。イデアールは理性にとって、一切のものの「原型」(Urbild, Prototypon)であり、我々の理性そのものも、かかる「原型」の「模写物(Nachbild)」であるようなものである。理性のイデアールの対象は「原存在体」(Urwesen; ens originarium)であり、「最高存在体」(hoechstes Wesen; ens summum)であり、「一切存在体の存在体」(Wesen aller Wesens; ens entium)である。かかるものは神である。即ち、純粋理性のイデアールは、先験的神学の対象である、

理性によってなされる神の現存在(Dasein Gotes)の証明は三種だけ可能である。第一は、あらゆる経験を捨象し、全くア・プリオリに単なる概.念から神の現存在を推論する「存在論的証明」(der ontologische Beweis)。第二は不定の経験から神の現存在を推論する「宇宙論的証明」(der kosmologische Beweis)。第三は一定の経験から神の現存在を推論する「自然神学的証明」(der physiko-theologische Beweis )。この中、第一の存在論的証明が最も根本的なものである。そこでまずこの吟味からはじめる。

存在論的証明とは、神、即ち「最も実在的な存在体」(das allerrealste Wesen)は、一切の実在性(Realitaet)を有し、一切の実在性のうちにはまた「現存在」も含まれている。故に神は存在する、と推論するものであるが、しかしカントによると「長も実在的な存在体」という概念から、この概念の対象の現存在を推計することはできない。現実の百ターレルは百ターレルの概念以上のものを含んでいる。概念としては現実的な百ターレルも可能的な百ターレル以上のものを含んでいないが、私の財産状態という現実においてはそうでない。一つの対象について、これが現実に存在するということをいいうるためには、この対象の概念の外に出て、経験に頼らなげればならぬ。しかるに「最も実在的な存在体」という概念の対象は経験を超えている。故に、古来有名なる存在論的証明は成り立たぬ。

 次に宇宙論的証明は、ライプニッツによって「世界の偶然性から」(a contingentia mundi)の証明とよばれたものであって、それは次の様に推論する。世界に何かが存在するとすれば、それは原因を有たねばならぬ。何故なら、世界の中にあるものはすべて偶然的なるものであつで、それ自身において存在するものではないからである。さてしかるに、少くとも私は存在する。故に、私という偶然的なる存在者がある以上は、そこに原因が求められなければならぬ。しかし、その原因もまた偶然的なるものであるかぎりは、さらにその原因が求められなければならぬ。かく原因の連鎖、を探ねてゆけば、最後に、「第一原因」(eine erste Ursache)として、もはや偶然的ならざる絶対に必然的なる存在体が求められなければならぬ。絶対に必然的とは、自らにおいて、独立に存在するということであって、かかるものこそ、最も実在的な存在体、即ち、神である。即ち、神は存在する、と。

 このような宇宙論的証明は、カントによれば、まず第一に、現象界においてのみ使用せらるべき因果律を、現象界を超えて第一原因にまで拡張的に使用しているという誤りを犯している。そして第二に、かくして求められた絶対に必然的なる存在体が、最も実在的な存在体即ち神であるとせられるのであるが、それは、最も実在的な存在体こそ、必然的に-即ち、自らにおいて独立に-存在するものであるということを前提としているのである。しかしこのことを敢えて主張しようとすることは、さきの存在論的証明がはたそうとして、その誤りなることが既に示されたところのものである。現象界における偶然的なるものの因果の全系列を基礎付けるために、第一原因として端的に必然的なる存在体を「想定」(annehmen)することは許されることであるとカントは認めるのではあるが、しかしさらに進んで、かかるものが必然的に存在すると敢えて主張するに至るならば、それはもはや許されざる越権であると彼は考える。そしてここにこそ、宇宙論的証明の「主要論拠」(立証の腱nervus probandi)はあり、そしてこの主要論拠こそ、先にその誤りなることが暴露された存在論的証明の当の主張にほかならぬのである。かくて宇宙論的証明は、存在論的証明とは相違するかの如き外観を装いながら、実は「覆面せられた存在論的証明」(ein versteckter ontologischer Beweis)であることが、明らかにされたのである。

最後に第三には自然神学的証明であるが、これは次のように推論する。世界にはその到るところにおいて、多様.秩序・合目的性・美しさの限りなき光景が展示せられている。故に、この無限に偶然的なるものを維持し、その発源の原因であるもの、そしてこの無限に偶然的なるものの外に独立自存する「崇高にして賢明なる原因」、即ち、自由によって世界の原因であるところの「叡知者」(intelligenz)がなければならぬ、と。カントによれば、この証明は最も古く、最も明瞭で、常識に最もよく適している。しかしながらこの証明は「人間の技術との類推」(Analogie mit menschlicher Kunst)によって悟性及び意志をもった自由なる叡知者が自然の根抵に存すると推論するものであって、それはせいぜいのところ、自然の組織の合目的性とその立派な調和斉一という、世界の「形相(口形式)」(Form)に関して、その形相(=形式)の創始者である「世界建築師」(weltbaumeister)としての神に到達し得るにすぎないのであり、決して、世界の「質料」(Materie)をも創造する「世界創造者」(Weltschoepfer)としての神を証明することはできぬものである。もしも世界創造者としての神を証明しようとするならば、自然神学的証明は突如として宇宙論的証明にとび移らねばならぬ。ところが宇宙論的証明は「覆面せる存在論的証明」にほかならぬ故に、自然神学的証明も結局は存在論的証明を基礎とするものとならねばならぬ。

以上の如くして、経験の範囲を超えた理性の「思弁的使用」(der spekulative Gebrauch)においては、最高の存在体たる神の現存在のいずれの証明も成立せぬことが明らかにせられたが、しかしこのことは、神の現存在を否定することではない。神が経験、の範囲を超えた存在体である以上、思弁的理性は神の存在を証明することができぬと同様に、神の存在を否定することもまたできぬ。「有神論」(Theismus)が成立し得ぬと共に、「無神論」(Atheismus)もまた成立し得ぬ。しかしそれは理論として成立し得ぬということであって、結局、問題は実践の世界に移されるであろう。もしも、「道徳律」を手引とし基礎とする「道徳神学」(Moraltheologie)が成立し得るとすれば、神の現存在は積極的に想定され要請されねばならぬであろう。
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辯證法にかんする覚書:アリストテレス

2005-05-08 | 哲学 Philosophy
アリストテレスの弁証法-批判検討の方法として-

トピカ 「弁証的推理」を主題的にとりあつかった彼の『トピカ』は、まず巻頭で次のように論じている。(100a-101a)

「この著述の意図するところは、われわれが、提起されたそれぞれの問題について、一般に承認された意見から推理することができるような方法、また答弁するさいに、自分で矛盾したことを言わないようにする方法、を発見することにある。まずはじめに推理(sullogismoV) とはなにか、それにはどんな種類があるか、ということを述べねばならない。それは弁証的推理を把握するためであり、この推理を研究するのがこの著述の仕事なのである。さて推理とは、或るものが定立されたとき、その定立されたものを通じて、それとは違ったものが必然的に帰結するような言論(logoV)である。ところで
(1) 推理が、真で第一の前提からなされるとき、または第一で真のものから認識されたものを前提としてなされるとき、その推理は論証(apodeixiV)である。これに対して、
(2)一般に承認された意見から為される推理は弁証的な(dialektikoV)推理である。
真で第一のものというのは、他のものの故にでなく、それ自らの故に信じられるもののことである。というのは、学問の諸原理においては、われわれは何故にということを問うべきではなくて、それぞれの原理はそれ自らにおいて信じられるものでなければならないからである。ところが、一般に承認された意見というのは、すべての人に、または大多数の人に、或いは賢者たちに、そして賢者という場合にも、すべての、または大多数の、もしくは最もよく知られた著名な賢者たちに、認められた意見のことである。しかし、
(3)一般に承認された意見のように見えて実はそうでないものからなされる推理や、一般に承認された意見またはそう見えるだけの意見から推理されたように見えるにすぎないものは、争論的な(eristikoV)推理である。この争論的推理のうちで前の方の種類は推理と呼んでよいが、後の方の種類は争論的推理ではあるにしても、それは推理しているように見えて実はそうでないのだから、推理ではない。上述のすべての推理のほかにまだ、
(4)一定の学問に固有なものからなされる誤謬推理(paralogismoV)がある。例えば、幾何学やそれに類する学問によく起こるようなものである。.....間違った作図をする人は、真で第一の前提から推理しているのでもなければ、一般に承認された意見から推理しているのでもない、その学問に固有ではあるが真でない想定から推理しているのである。---」

この文章から推察されることは、まず、「答弁するさいに自分で矛盾したことを言わないようにする方法」とあるように、アリストテレスの弁証論が問答討論の方法(問答法)という性格をもっていたことである。アリストテレスはこの書物の第二章から第七章にわたって、弁証家が問(抗議)を提出し、あるいは立論したり論破したりするための種々の観点(topoV)について詳論したのち、最後の第八巻の冒頭で、「抗議すべき観点を見いだすまでの考察は、哲学者にとっても弁証家にとって共通である」が、「個々の問を順序だて、それらを他人に向かって提出するのは弁証家に固有の仕事」であって、「自分ひとりで探究する哲学者」には無関係だといっている。また彼は、「弁証的命題は、それに対して《然り》とか《否》とか答えることのできる命題〔問〕である」(158a)ともいっている。
さらに、アリストテレスが弁証的推理を争論的推理や誤謬推理と区別し、論理的に正しい推理としていることから、彼の弁証論は、単なる問答法ではなく一種の推理法(思考法)という性格をもっていたことが推察される。争論的推理はその前提や推理過程に「見せかけ」を含んでいるから真の推理とはいえない。「争論術的に問答するのは悪い議論家」であり(161b)、「詭弁は争論的推理である。」(162a)しかし弁証家は争論家とは「目的」を異にし、「訓練や検討試論(peira)や研究のために」互いに討論するものである。(159a) 弁証的な討論は問い手と答え手とが「共通の目的」をもっておこなう「共同の仕事」なのである。(161a)だから、争論術や詭弁術は一種の問答法とはいえるにして思考法ということはできないが、弁証法は論理的に正しい問答思考法でなければならない。
したがってまた、弁証的推理と論証とは、推理の前提がちがうにしても、推理過程では同じ思考の原理(同一律・矛盾律など)や推理の法則(三段論法)に従うものとされていることが推察される。アリストテレスが「分析論前書」で次のように述べていることは、その裏づけとなろう。
「論証法(apodeiktikh)では、その前提となる判断は、互いに矛盾する二つの言表のどちらか一つを断定することであるが――というのは論証する者は単に前提を探索するのではなくて前提を確立する者であるから――これに反し、辯證論は二つの矛盾する言表のうちから随意にこれを、選択する点において、前者と違っている。しかしこの違いは、両者各々のなす三段論法の推理過程には無関係である。何となれば、論証する者もまた弁証的に探索する者も、共に或ることが他の或るものに属するか属しないかを述べることによって推理するのであるから、したがって、三段論法の前提判断は、判断としての限り、上述のように、或るものについて或ることを肯定するか或いは否定するかであろうが、それが真であり根本原理から得られたものである場合には、論証法の前提というべきである。これに反して、弁証法は、前提を問い求めて探索する際には、二つの矛盾するもののうちから随意にその一つを前提として選択し、それから推理してゆくときには、明らかで一般に承認されているものを採択する。それは『トピカ』で述べた通りである。」(24a-24b12)

このようにみてくると、対人的問答の形式は、アリストテレスの弁証論にとって決定的な要素ではないことがわかる。争論術や詭弁術が議論の相手なしには全く無意味なものとなることはいうまでもないが、思考とは自分の魂が自己と問答することである(プラトン)という意味で、弁証論は自分ひとりで探究する方法ともなりうるであろう。アリストテレスも、一議論の相手がえられなければ、自分自身で同じやりかたで訓練しなければならぬ」といっている。
こうして結局、哲学者は争論術・詭弁術を斥けねばならぬにしても、弁証論までも斥ける必要がないばかりか、むしろそれを活用しなければならぬ、ということになるであろう。なぜなら、厳密な学的認識としての哲学に固有な推理は「論証」であるが、論証の前提となるべき「真で第一のもの」、「真である根本原理から得られたもの」は、必ずしも常に与えられているわけではなく、哲学者はまずもってそうした「前提を問い求めて探索する」ことを必要としており、したがってそのさい、「二つの矛盾するもののうちから随意にその一つを前提として選択し」つつ、それらを検討吟味するところの弁証論の助けをかりねばならぬからである。「相反する二つの仮定のそれぞれの帰結を見渡しうること、また見渡していることは、認識や哲学的知にとっても軽視できない手段である」(『トピヵ』163b)というアリストテレスの言葉は、まさにそのことを意味すると言われる。また彼が『トピカ』の第一巻第二章で、「弁証論の研究がどれだけの、またどのようなことに役立つか」という問題について、次のように、それが哲学的な学問のために有用だという点を強調しているのも、そのためにほかならないであろう。

さて、以上の考察にもとづいてアリストテレスの弁証論の性格を考えてみると、それは、矛盾律を思考原理とする問答思考法という点で、また哲学固有の論証法(真理確立の積極的方法・存在認識の方法)と区別された消極的推理法(批判検討の方法)という点で、系譜的にはゼノンの問答法の発展形態だといわねばならない。しかし歴史的にはそれはゼノンの直接の発展ではなく、ソクラテスとプラトンを媒介とする発展であった。アリストテレスの弁証法がたんなる論駁の方法ではなく、問い手と答え手とが「共通の目的」をもっておこなう「共同の仕事」だというところには、ソクラテス的な共同討議の精神がうけつがれているとみられるし、またそれがたんなる対人的問答法にとどまらないで、むしろ推理法・思考法を主要性格としているところには、プラトン的な内面的問答法の性格が認められるであろう。

「辯證法は三つのことに役立つ、すなわち、訓練のために、会談のために、そして哲学的な学問のために有用である。まず

(1)訓練のために有用であることは上に述べたところがら明らかである。方法を心得ておれば、提起された問題をたやすく手がけることができよう。また
(2)会談のために役立つというのは、大衆の意見を要約して、正しく語られていないと思われることは何でも、ほかの意見からでなくその意見自体をもとにして、反論することができるからである。最後に
(3)哲学的な学問のために有用だという理由は、
(a)両方の側に難点を取出すことができれば、それぞれについてどこが真でどこが偽かということが、たやすく認識されようからである。また
(b)弁証論は個々の学問の諸原理の第一のものは何かを認識するためにも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一のものであるから、与えられた学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、むしろ個々の点についての一般に承認された意見を通じて、それを究明しなければならない。このことは弁証論に独特な、あるいは最も固有な仕事なのである。弁証論は検討吟味するに適している(エクセタスティケー「弁証論は三つのことに役立つ、すなわち、訓練のために、会談のために、そして哲学的な学問のために有用である。まず
(1)訓練のために有用であることは上に述べたところがら明らかである。方法を心得ておれば、提起された問題をたやすく手がけることができよう。また
(2)会談のために役立つというのは、大衆の意見を要約して、正しく語られていないと思われることは何でも、ほかの意見からでなくその意見自体をもとにして、反論することができるからである。最後に
(3)哲学的な学問のために有用だという理由は、

(a)両方の側に難点を取出すことができれば、それぞれについてどこが真でどこが偽かということが、たやすく認識されようからである。また
(b)弁証論は個々の学問の諸原理の第一のものは何かを認識するためにも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一のものであるから、与えられた学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、むしろ個々の点についての一般に承認された意見を通じて、それを究明しなければならない。このことは弁証論に独特な、あるいは最も固有な仕事なのである。弁証論は検討吟味するに適している(エクセタスティケーexetastikh)ものであり、それゆえあらゆる学問の諸原理への道をにぎっているのである。」(101a-101b)

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辯證法にかんする覚書: プラトン 1

2005-05-07 | 哲学 Philosophy
辯證法のルーツ

プラトンは認識の段階を四つに区別し、真理にあずかる程度の低いものから順次、
  1. 想像〔臆測〕(eikasia)
  2. 信念(pistiV)
  3. 悟性知(dianoia)
  4. 理性知(nohsiV)
と名づけ、前の二つは「可見的なもの」(感覚されるもの)に、後の二つは「可思考的なもの」(nohta)にかかわるとするが、この可思考的な対象をも下位のものと上位のものとに区別し、これに対応して下位に悟性知を、上位に理性知を考えている。

悟性知は「幾何学やそれに類する術知(tecnh)」であり、理性知が「弁証の学知(h tou dialegesqai episthmh)」つまり学としての弁証法なのである。(『国家』509D-511E)

「仮設法」と「綜合・分割法」

(1) 仮設法

それぞれの問題にさいして最も確実と判断される言説を仮定(前提)として立て、これと一致することは真、一致しないことは偽としながら推理してゆく方法。この場合、前提そのものが正しいかどうかは、そこからでてくるいろいろの帰結のあいだに矛盾がないかどうかによって決められる。仮設法は、矛盾を斥けることによって矛盾をもたない前提を積極的に追求してゆくための論証の方法なのであって、その点でソクラテスの弁証法と性格を同じくしていることがわかる。しかもこの論証の過程は、一つの前提が真であることが証明されると、「さらに上位にきたるべき前提のなかから最善と思われるものをえらび、あらためてこれを前提として立てたうえで、そこから証明を行ない、最後にこれで十分というものに到達するまでつづけ」られる。それは一つのイデアからいっそう包括的なイデアヘと事物の根拠を追求してゆき、ついに最高のイデアである「善のイデア」に達して究極の根拠を見いだすことと解されるが、こうしていわば個別的・特殊的なものから普遍的なものへと上昇してゆく推理方法は、帰納的に普遍的なものの定義を求めたソクラテスのあの方法をさらに発展させたものと見られるであろう。

ところでこの仮設法は、こうした普遍的なものへの上昇という点からみれば、また「綜合法」といってもよいであろう。このことは、プラトンが『国家』第六巻・第七巻で、国の統治者にとって必要な最高の学問としての弁証法について語るところによくでている。プラトンは理想国における教育課程について、弁証法を、計算術、幾何学、天文学、和声学など予備的教科ののちに学ばれるべき最高の学問としているが、それは弁証法がたんに一番むずかしい学問だからというだけでなく、あらゆるものの根本原理を認識して諸科学を総括的に基礎づける地位にあるからである。予備的な諸学科では、たとえば計算術や幾何学における奇数・偶数・種々の図形・三種類の角などのように、それぞれ一定の前提が根本におかれていて、その前提そのものは誰にでも明らかなこととして説明されないまま放置されている。(510C, 533C)

ところが弁証法では、これも前提を用いはするけれども、「諸前提を初め〔根本原理〕としてではなく文字通り前提〔仮設〕として」、「すべてのものの初めに向って無前提のところまで進む」(511B)のである。

「辯證的方法(h dialektikh meqodoV)だけが、このように諸前提を廃棄しながら初めそのものへ向って進んでゆく。」(533C)これは、さきに『パイドン』でいわれた、一つの前提からさらに上位の前提へと進んで、最高のイデアにまで昇ってゆくことを意味しているが、こうして普遍的なものに上昇するということは、多様なものを一つの共通な本質によって綜合し、それら
すべてのものの連関を綜観することにほかならない。そしてこの綜合・綜観ということがプラトン辯證法の一つの特徴をなすのである。すなわち彼はこういつている。

「二十代の者の中から逮び出された人びとは……子供のころにその教育で無秩序に追求したいろいろの学問をよせ集めて、それらの学問相互の問の、また有るもの〔存在〕の本性との間の類縁関係を綜観しなければならない。……これはまた、弁証的な本性とそうでないものとを区別する最大の試験なのだ。なぜなら綜観する者(sunoptikoV)はディアレクティコス弁証家であり、そうでないものは弁証家ではないからだ。」(537C)
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辯證法にかんする覚書: プラトン 2

2005-05-06 | 哲学 Philosophy
プラトンの仮設法をこのように綜合法として理解することができるとすれば、それはさらに、いわゆる綜合・分割法の一つの側面だといわねばならないであろう。学者のなかには、綜合法を「上昇的弁証法」とか「綜観弁証法」とか名づけ、分割法を「下降的辯證法」、「分析辯證法」とよんで区別する人もあるが、それらは互いに結びついて、プラトンの全一な辯證的方法の二側面ないし二契機をなすものと考えられる。そこでわれわれは綜合・分割法の考察に移ることにしよう。

(2)『国家』第六巻の終りのところで、プラトンは辯證法が何を対象とし、どのような方法でそれをとりあつかうのかについて、次のようにいっている。

「それでは、可思考的なもののもう一つの分割された部分と私がいうのは、こういうものだと解してくれ、つまり、それは理性そのものが弁証の能力(h tou dialegesqai dunamiV)によって触れるもので、諸前提を初め〔根本原理〕としてではなく、いわば梯子の段や出発点のように文字通りヒュポテシス前提〔仮定〕とする。それは、すべてのものの初めに向って無前提のところまで進んでゆき、その初めに触れた後、再び今度はそれに依存しているものをたどりながら終りへ降りてくるためなのであるが、その際知覚されるものは何一つ用いず、形相そのものだけを用いて、形相へ向って降りてゆき、それらに達して終るのである。」(511BC)

ここには、辯證法が純粋な思考(理性知)によって下位のイデアから上位のイデアに昇ってゆき、最高のイデアに達すると再びイデアの連関をたどって下降することが述べられているが、こうした理性の上昇と下降の二側面がそれぞれ綜合・分割法の二側面に対応しており、この二側面があわせて弁証法とよばれていたことは、『パイドロス』のなかでプラトンがソクラテスの口をかりていっそう明瞭に語るところである。それによると、彼の方法は二つの種類に分かれる。

「その一つは、多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相〔イデア〕へまとめること。これは、人がそれぞれの場合に教えようと思うものを一つ一つ定義して、そのものを明白にするのに役立つ。」(265D)

もう一つの種類の方法とは、

「いまの行き方とは逆に、さまざまの種類に分割することができるということ。すなわち、自然本来の分節に従って切り分ける能力をもち、いかなる部分をも、下手な肉屋のようなやり方でこわしてしまおうと試みない」(265E)ことである。

またこの二つをまとめて、「ものごとをその自然本来の性格に従って、これを一つになる方向へ眺めるとともに、また多に分かれるところまで見るだけの能力を持っている」(266B)ことだともいえる。そしてプラトンは、「話したり考えたりする力を得るためには、この分割(diairesiV)と綜合(sunagwgh)〔という方法〕を、恋人のように大切にしている」(266B)ことや、この方法の実行できる人を「ディアレクティケーを身につけた者」(266C)とよんでいることなどを、ソクラテスに語らせている。さてこれを定義法としてみるとき、この個所では、第一の綜合の方法が定義するのに役立つといわれているし、もっとさきの個所でも、

「人がその言ったり書いたりする一々のものの真実を知り、また全体をそれ自体として定義することができ、また定義した後では今度はまた分割しえない所まで種類分けすることができ...」(227B)

というように、定義の後に分割がおかれていることから考えると、綜合と分割とは別個のもので、綜合だけが定義の方法のようにとれる。ところが、この弁証法を実際に適用してソフィストや政治家の定義を試みたものといわれる『ソピステス』や『政治家』では、むしろ主として分割の方法が用いられている。

定義を事物の木質の概念的把捧に到進するまでの探究過程として動的発展的に理解するならば、綜合と分割とはきりはなすことのできない二側面として定義法のなかに含まれているることが分かる。たとえば、ソフィストを定義するにあたって、まずすべての技術が「ポイエーティケー製作術」と「クテーティケー獲得術」とに分割されるが、その製作術は、耕作や生き物の世話や道具類の製作など、すべて作ることにかんする技術を総括して名づけたものであるし、また獲得術は、学習や認識、営利や闘争や狩猟のように、作るのでなく、既存のものを理論や実践でわがものとする活動にかんする技術を綜合して名づけたものである。(『ソピステス」219A-C)

そしてこんどは製作術が影像の製作術と本物のそれとに分けられ、さらに影像製作術が幻像の製作術と似像のそれとに分けられるというふうに分割が進んでゆくが、どの段階をとってみても、それぞれがより特殊なものを総括した一般的名称となっている。こうして最後に、ソフィストの術は《「問答によって」「狡猾な心を以て」「模倣される対象を知らずに」「自己の言行を用いての模倣による」幻像製作術》として定義されるわけであるが、この定義自体がまた、各段階で分割されたものの一方の側を全体的に結合したものとなっているのである。だから、分割法による定義といっても、分割の各段階が綜合を含んでいるばかりでなく、最終的な定義がまた分割されたものの綜合として成立するといわねばならない。分割の過程で任意の中間段階をとっても、そこで綜合をおこなえば、いわば中間的な定義が成立しうる。しかし最も厳密な定義は、中間の段階をいいかげんに飛びこさないで、しかも最終段階まで分割をつづけてゆき、そのうえで綜合することによってのみえられるであろう。このように考えれば、綜合の方法が定義するのに役立つといわれたり、定義したのちさらに分割しえないところまで種類分けするといわれたりしていることも、定義における分割の役割を否定するものではないことが諒解されよう。

そればかりでなく、類と最下の種との中間にある種を見おとさないで分割してゆくことが研究にとって最も大切だとされ(『政治学』262B)、この点に辯證法的に議論するか争論術的に議論するかの別れ道がある(『ピレボス』17A)といわれている意味も、いっそうよく理解されるであろう。

ソクラテスの定義法は、実践的な意図から、あるいは倫理学的な関心から、主として道徳的な一般概念を明確に把握するための方法であったか、プラトンの定義法としての綜合・分割法は、本質的にはソクラテスの精神を継承しながら、師の方法をいっそう理論的にほりさげ、論理学(=存在論)の領域にまで学的関心を拡大してえられたものということができる。

プラトンは、最高の類概念(最高実在-善のイデア)からいくつもの中間的な類または種を経て最下の種概念(不可分の種)にいたる諸概念(諸存在)の普遍的な連関ないし秩序を考えており、綜合も分割もこの客観的な秩序に従っておこなわれるべきものとしているのであって、こうした方法的意識の根底には、諸概念(諸存在)の普遍的連関がいわば客観的・法則的なものとしてとらえられていたことを見のがしてはならない。われわれは思考法としてのプラトン辯證法における分割と綜合の二側面が、あらゆるイデア(概念=存在)のあいだにある区別と連関の二側面を客観的基礎として成立したものと考えてよいであろう。
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The Principle of Relativity 2

2005-04-10 | 哲学 Philosophy
Though Einstein did not formulate his own standpoints in philosophical terminology, we may tentatively summarise them as follows:

(1) The immanent epistemology in the forma/ principles of Einstein's theory, especially the special and the general principles of relativity. According to this epistemology, such entities as absolute space, absolute time, and absolute inertial systems, should be excluded from the physical theories. Natural phenomena, observed from a certain standpoint (coordinate system of reference), should not be considered as absolute, but always as relative to some observers. But the same principle prohibits the existence of a privileged observer. All observers are equal, for it is postulated that the natural laws should be formulated in such a way that the same mathematical forms hold in every system of reference.

(2) The essentialism implicit in the material principles of Einstein's theory, such as the constant velocity of light, and the principle of equivalence. These principles, though empirically refutable, should give some information about the essential structures of the world. For example, the constant velocity of light plays the essential role of mediation between mass and energy. The principle of equivalence, if accepted, would necessarily reform our ideas of space and time. We must adopt the curved space of non-Euclidean geometry in the presence of a gravitational field.

(3) The deterministic world-view in the background of Einstein's cosmology. The characteristic of relativistic cosmology is that uncertainty, or contingency totally disappears in the four dimensional space-time: everything should be determined sub specie aeternitatis. The appearance of contingency is due to our ignorance of necessity. It was this kind of Spinozism that forced Einstein to reject the non-deterministic interpretation of quantum mechanics.

In order to estimate a physical theory, it is not enough to understand its philosophical background. We must also know to what extent it has passed through the empirical tests. What we must bear in mind is that while the special theory of relativity, with its abundant empirical supports, has won the approval of almost every physicist, the general theory of relativity, in spite of its philosophical importance, has been treated, not as decisive, but as one of many competing gravitational theories. This is because of the comparatively few number of crucial tests, whose accuracy has often proved not sufficient enough to be reliable. It is not without reason that the general theory has been isolated from other advanced fields of physics. But thanks to the improvement of experimental techniques and the development of astronomy, the general theory of relativity has again become the center of interest among experimental physicists.

There are many theories of gravitation known as varieties of Einstein's theory, e.g. Brans-Dicke theory. famous for being faithful to Mach's principle, scalar- and vector-tensor theories, etc. From the philosophical point of view, the most interesting is Whitehead's theory of relativity. This theory, originally published in 1922, has a different paradigm from Einstein's, elegant and simple in mathematical formulation with its own philosophical background. It has been called as "a thorn in Einstein's side", because it agrees with Einstein in its prediction for all the classical tests. Whitehead's theory is closely connected with his philosophy of nature and his metaphysics. We cannot understand it without paying due attention to his philosophy. Comparing it with Einstein's theory, we may summarize the main oppositions between them as follows:

( 1) Whitehead's theory does not presuppose "the principle of relativity" in Einstein's sense. It contains a subsystem which corresponds to Einstein's theory of special relativity, but it can do without "the principle of special relativity" and "the principle of the constant velocity of light." For example, it derives the Lorentz Transformation only in terms of the weak condition concerning the symmetry and uniformity of space-time. Moreover, "the principle of general relativity" does not hold in Whitehead's theory of gravitation, in which the inertial systems are not equivalent to the rotating systems of reference.

(2) Whitehead rejected "the principle of equivalence" which was the cornerstone of Einstein's theory oj'genera/ relativity. According to Whitehead, there is no reason why we should give privileged status to gravitational fields with respect to the space-time metric. They should be treated on a par with other physical fields. The gravitational and inertial forces are, therefore on principle, distinguished from each other in his theory.

(3) Whitehead did not adopt the deterministic world-view in his background cosmology. According to his philosophy of nature, natural laws only partially restrict future contingency. The concept of matter as the substance of nature disappears with his rejection both of Cartesian dualism and of Spinoza's monism. The concept of event, or of duration which is the field of creative becoming, plays the central role in his theory.

Thus we have to say that Whitehead's theory is different from Einstein's with respect both to the formal and to the material principles, in addition to the difference of world-views in the background.

I don't intend to decide by an outside criterion which theory is better, but to consider each in its own context. It is not easy for us to compare between theories with different paradigms, and the simple data cannot tell us crucial matters by themselves. What we want is the integration of the two paradigms. This does not mean that the problem of empirical tests might well be devalued. On the contrary, as long as we discuss physics, we must try to formulate theories in such a way that they are refutable by possible observation. The problem is that there exists a difference between them concerning the kind of principles that are subject to empirical refutation.

Whitehead once said of Einstein that "the worst homage we can pay to genius is to accept uncritically formulations of truths which we owe to it." This kind of critical spirit will become the guiding thread in the following consideration, with proviso that it should be the case with Whitehead as well.

What we must notice before discussing empirical tests is that Whitehead's principle of relativity has a different meaning from that of Einstein's. Taking into consideration the importance of the Whiteheadian relativity principle, we must first make clear what he means by it in the context of his own philosophy.


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The Principle of Relativity 3

2005-04-09 | 哲学 Philosophy

2. Whitehead's principle of Relativity

Einstein's principle of relativity has two components: one is the special principle, and the other is the general one. The former states that all inertial systems are equivalent for the description of natural phenomena, while the other claims that the same equivalence should hold generally in any chosen frame of reference. Whitehead did not rely on either of them. First, he pointed out in The Principles of' Natural Knowledge that the physical content of Einstein's theory can be deduced without relying on Einstein's principles. The special theory of relativity correlates space to time through the Lorentz-Transformation, which Einstein deduced from the combination of the special principle and the principle of the constant velocity of light. Whitehead, on the other hand, deduced the same transformation from the weaker principles of kinematics and geometry, i.e. (1) the uniformity and symmetry of space-time, (2) the symmetry and transitiveness of transformation, etc.(6)

Secondly, he repeatedly laid stress on the inequality between inertial and rotating systems in his book, The Principle of Relativity, the title of which was certainly ambiguous and therefore misleading.

The principle of relativity in Whitehead's sense must be understood in the context in his philosophical thought. This principle plays the central role not only in his physics, but also in his metaphysics. The physical principle of relativity is generalized to the metaphysical one. The more we understand his metaphysics, the more we comprehend his physics. So we may well begin with the definition of this principle in Process and Reality:

"It belongs to the nature of a 'being' that is a potential for every 'becoming'. This is the 'principle of relativity'.(7)

As the above formulation of the principle is the most general characterization on the metaphysical level, it needs some explanation as to how it is embodied within the realm of physics. What we must bear in mind is that two lines of Whitehead's criticism of classical physics are closely connected with the above principle: i.e. his criticism of scientific materialism, and his rejection of Cartesian dualism involving the "bifurcation of nature."

In Whitehead's metaphysics, "Becoming" is more fundamental than "Being" which is the reversal of Aristotelian ontology. The concept of matter as "hypokeimenon" (substratum) of nature, the cornerstone of scientific materialism, presupposes the Aristotelian concept of substance: matter is conceived as the true Being which exists independently of perceivers: the description of the configuration of matter in space-time through the deterministic laws is thought to be the only task of physicists: there remains no place for the perceiving subjects. Nature, as it is perceived by us, is separated from nature as the object of physics. This bifurcation cannot be easily overcome: if we try to bridge them by considering the one as a cause and the other an effect, then we soon find that such a kind of causality is unintelligible on account of the "fallacy of nusplaced concreteness". Whitehead pointed out this fallacy by grasping the most concrete aspect of nature as creative becoming rather than as static, substantial Being. According to Aristotelian ontology, Being precedes Becoming because the former is the actuality of the latter. The opposite is the case with Whitehead. Becoming is the actuality of Being: what has been thought to be substantial Being must be re-interpreted as derivative from Becoming. Therefore the most fundamental category of nature should be found in "events", and not in "substance".

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The Principle of Relativity 4

2005-04-09 | 哲学 Philosophy

Concerning the concept of event, Whitehead wrote:

"I give the name 'event' to a spatio-temporal happening. An event does not in any way imply rapid change: the endurance of a block of marble is an event Nature presents itself to us as essentially a becoming, and any limited portion of nature which preserves most completely such concreteness as attaches to nature itself is also a becoming and what I call an event. By this I do not mean a bare portion of space-time. Such a concept is a further abstraction. I mean a part of the becomingness of nature, coloured with all the hues of its content. Thus nature is a becomingness of events in terms of space and time Thus space and time are abstractions from this structure."(8)

Whitehead tried to reduce physical entities which were previously considered as substantial Being to the Becomingness of interrelated events. What he means by "event" must not be interpreted as something cut off from the pre-existing continuity of space-time, but the space-time itself is an abstraction from the concrete relatedness of events. What must be noticed here is that the concept of events as four dimensional structures plays the role of mediation between space and time. Both matter as a self-identical substance and space-time as a fixed framework of physics are to be deconstructed to the interrelation of becoming events. Whitehead executed such deconstruction by what may be called the reversal of subject-predicate logic. In classical physics matter is treated grammatically as subject, and its spatio-temporal determinations as adjectives. Whitehead, on the contrary, treats matter as an "adjective" of 'four-dimensional events with specific characters. Material beings are considered by him, not to be causes of perceived qualities, but treated merely as one of many adjectives uniformly modifying events. This does not mean that events occupy the place of substance, for the essence of an event consists in its relatedness

The reason why classical physics had to fix separately the framework of space and that of time was that it lacked necessary means of representation for four-dimensional events. Whitehead, adopting Minkowski's idea that four-dimensional manifold should give the framework of relativity theory, tried to deduce that framework itself from the interrelated structures of events. This procedure was called by him "the method of extensive abstraction", according to which the elements of Minkowski's manifold, event-particles without extension, were mathematically re-constructed from becoming events with spatio-temporal extension

Thus Whitehead endeavoured to reconstruct the fundamental categories of physics after having deconstructed classical physics through the relativistic reduction of Being to Becoming. Einstein's theory was to be assimilated to his own paradigm, and at the same time to be criticized in certain points, especially the relation of matter to space-time. Whitehead was not satisfied with the view of matter presupposed by Einstein, according to which spatio-temporal determinations, depending on the configuration of matter, had to be separated from our perceptual experiences. Whitehead claimed that the condition of perceptual situation, which makes the measurement of spatio-temporal magnitudes possible, should be given independently of matter. According to Einstein's theory of general relativity, the metric properties are decided completely by matter. Space-time is said to be "warped" by matter: The "curvature" of space-time is variable, and it may be said "fiat" only when the gravitational field caused by matter is negligible

Whitehead rejected the very idea of the priority of matter over space-time. As was stated before, matter was considered by him as an "adjective" of events, and it can not exert any influence on the essential characteristic of space-time, which should be determined only on the level of events. The existence of matter only concerns accidental qualities of space-time. On this point the problem arises whether the metric properties are considered to be essential or accidental. Considering the contingency involved in the configuration of matter, Whitehead rejected the effect of matter on space-time metric: the very idea that the curvature of space-time is variable should be irrelevant in Whitehead's theory. In The Concept of Nature he wrote:

"'Space caught bending' appeared on the news-sheet of a well-known evening paper. This rendering is a terse but not inapt translation of Einstein's own way of, interpreting his results. I should say at once that I am a heretic as to this explanation and that I shall expound to you another explanation based upon some work of my own, an explanation which seems to me to be more in accordance with our whole scientific ideas and with the whole body of facts which have to be explained."(9)

The "bending of space" was and is a favorite phrase used by many physicists to explain the meaning of the previously mentioned verification of Einstein's theory at the time of eclipse. It can be paraphrased more exactly by saying that non-Euclidian geometry holds in the neighbourhood of the sun. It was this thesis that Whitehead wanted to replace by his own theory of measurement. Whitehead was convinced that geometry should be distinguished from physics. Geometry represents the uniform elatedness of nature, especially of spatio-temporal relations. Physics treats the contingent properties of nature. These convictions were related to his rejection of scientific materialism and of the bifurcation of nature. The theme of physics, according to him, is not the material things themselves cut off from the perceptual data but the perceived phenomena which show themselves "contingently" in the uniform framework of space-time. The space-time in which material bodies are located, in his view of unified nature, is nothing other than that in which the visual images of them are situated.

Concerning the reason why the uniformity of space-time should be a necessary condition of measurement, Whitehead wrote:

"By identifying the potential mass impetus of a kinematic element with a spatio-temporal measurement Einstein, in my view, leaves the whole antecedent theory of measurement in confusion, when it is confronted with the actual conditions of our perceptual knowledge. The potential impetus shares in the contingency of appearance. It therefore follows that measurement on his theory lacks systematic uniformity and requires a knowledge of the actual contingent physical field before it is possible. For example, we could not say how far the image of a luminous object lies behind a looking-glass without knowing what is actually behind that looking-glass."(10)

If we are to locate a material body and the visual image of it in the same space, it is necessary that the space should have a uniform structure independent of matter. For example, we can interpret the aforementioned result of Eddington's experiment in such a way that we need not say, "Space caught bending". The experimental evidence for the idea that rays of light are bent in the neighborhood of the sun is that the visual image of a distant star is shifted on account of the intervening sun. But how can we talk about the shift unless we locate two visual images in the same space? As one is observed in the presence of the intervening sun and the other during its absence, the same space is required to have a uniform character independent of matter.

Thus Whitehead set about constructing a gravitational theory according to which rays of light are bent through the physical (contingent) effects of the gravitational field. Whereas Einstein's theory states that rays of light pass straightly (i.e. along a geodesic line) in the "warped' space, Whitehead's theory states that they pass literally along a crooked curve in the "flat" space. There are two points which we must notice here. First, the requirement of uniformity is not necessarily connected with that of the space-time metric. The theory which Whitehead propounded as an alternative to Einstein's postulated that the metric structure of space-time should be uniform, i.e., it should have the same curvature everywhere. But this is not the only alternative. Adopting Whitehead's paradigm, we can require that only the topological structure of space-time should be independent of matter, and thus a priori relative to measurement. Secondly, as Whitehead himself admitted, the choice of "flat" (Euclidean) space is not an inevitable requirement of Whitehead's theory. Non-Euclidean space, whether it is hyperbolic or elliptic, will do if it has a constant curvature. So we are not concerned with the problem whether space is Euclidean or not.(11) The real issue to be discussed is the relation of matter to space-time. For readers who are interested in mathematical physics, I will next explain the difference between Whitehead's and Einstein's theories in mathematical terminology. The reader may omit the next section if he does not want to bother about mathematical technicalities.

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The Principle of Relativity 5

2005-04-09 | 哲学 Philosophy

3. The Outline of Whitehead's Theory in Mathematical Terminology

The mathematical formulation of Whitehead's theory is, as in Einstein's case, supplied with tensor-analysis. But it is to the physical structure of gravitational field and not to the geometrical metric of space-time, that the Riemanian theory of differentiable manifold with variable curvature is applied in Whitehead's theory Adopting a different interpretation from Einstein's theory which identifies the gravitational and metric fields, Whitehead introduces the concept of impetus as a physical quantity in order to determine the path of light or of a moving particle in the physical field. There are two kinds of impetus: the potential mass impetus and the potential electro-magnetic impetus.

Writing the potential mass impetus as and the potential electro-magnetic impetus as dF, we can integrate the total impetus realised along the time-like world-line AB as follows:



where M is the proper mass as an "adjective" uniformly qualifying the world-line AB,

E is the charge of the mass, c is the velocity of light.(12)

The two kinds of impetus can be expressed in covariant tensors respectively with first and with second orders, as follows:



The potential mass impetus is split up into the difference of two symmetric covariant tensors, and : the former represents the inertial aspect of motion, and the latter the gravitational aspect of the physical field. Thus we get



In order to derive the equations of motion Whitehead applies the variational principle

to the above impetus

and gets a set of differential equations of the Euler-Lagrange type:

The procedure is mathematically similar to Einstein's use of the variational principle but the meanings of mathematical formula are different: Whitehead separates the physical (contingent) component from the geometrical (uniform) one in what Einstein interprets as a space-time interval. When the effects of gravitation and electro-magnetic fields are negligible, we can derive from Whitehead's equations, as from Einstein's, the law of motion



which is nothing but the law of inertia in the special theory of relativity. In the presence of electro-magnetic fields, we get the equations




If we identify with the electric force and with the magnetic force, the above formulas again agree with those of special relativity.

To sum up, as far as the mathematical syntax is concerned, Whitehead's equation of motion can be regarded as a generalization of the special theory of relativity. It is in the theory of gravitation that the difference between Whitehead and Einstein appears sharply on the level of mathematical formulation, to say nothing of physical interpretation. Whitehead treats the gravitational field on a par with other physical fields, as independent of the metric structure of Mincowski's space-time. Therefore, it is required in Whitehead's theory that the system of n mass particles with gravitational interactions should be mathematically similar to the system of n charges moving under their mutual electro-magnetic interaction. Whitehead's theory of gravitation is sometimes referred as "a theory involving action at a distance with the critical velocity c". This characterization of Whitehead's theory is due to Synge, who located Whitehead's theory between the two extremes of Newtonian theory on the one hand and the general theory of relativity on the other. Such a middle-way character comes from the peculiar definition of the physical field in Whitehead's theory. The physical field of an event P modified with mass m is defined as the domain of P's causal future, i.e. the set of world-lines along which the physical signals propagate from P with the critical velocity c. The distance between P and any event X which is under the causal influence of this physical field vanishes into zero in the Mincowski metric. Thus the causal efficacy may be characterized by an action at a distance propagating with c.

To recast Newton's formula of gravitational potential into a Lorentz-invariant form, Whitehead uses the formula



where is the gravitational constant, and w is a Lorentz-invariant quantity which play the role of distance from P to the time-like worldline uniformly qualified by the mass m. The Lorentz-invariant w can be expressed as the inner product of vector PX and the tangent vector of the world line as follows:



Using the spatial distance and the term depending on the velocity of the mass, we may also rewrite the above formula as follows:




where



and



If the mass is at rest, then w becomes identical with the spatial distance r, and we get the Newtonian formula of gravitational potential. Thus Whitehead's theory can give Newton's formula under the special condition. Whitehead's law of gravitation then takes a simple and elegant form as follows:



where dJ is the potential mass impetus of an event X, dGM is the invariant differential of the world-line which passes through X modified with the proper mass M, and dGm is that with proper mass m which exerts causal influence on X.(13)

If we want to find the components of the tensor gu" which represent the gravitational field, we can get them after necessary calculations as follows:(14)



The above equations should not be confused with Synge's reformulation of Whitehead's theory:




As this formula is easy to handle, physicists usually mentions it as if it were Whitehead's own. But we must notice that Synge treats the gravitational field on a par with the metric field in Einstein's manner, and the notation has a different meaning from Whitehead's original formula.

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The Principle of Relativity 6

2005-04-08 | 哲学 Philosophy

4. The Comparison between Whitehead's and Einstein's Theories of Relativity
(From the viewpoint of empirical tests)

Eddington first took notice of Whitehead's theory. He proved in his 1924 paper that Whitehead's equation has the same solution (the Schwartzchild solution) as Einstein's in the special case of the stationary gravitational field due to a single mass-point.16 The implication of this equivalence was that Whitehead's theory can pass the standard tests such as periherion precession of Mercury and the bending of light-rays close to the sun. The similar result was obtained by Temple, who also gave a generalized version of Whitehead's theory which holds in the space-time with constant curvature.(17) In the 1920s, the comparison of two theories was mainly on the level of conceptual analysis, for both gave the same results under the limited conditions, and it was difficult to choose between them on experimental grounds then available. The question at issue was the justifiability of Whitehead's theory which, presupposing Minkowski's space globally, rejected the general principle of relativity. For example, Band criticized Whitehead by pointing out that the acceptance of a uniform or "fiat" space was untenable on account of the illegitimate assumption of a standard of absolutely uniform motion.18 But the problem of finding the exact solutions of both theory other than Schwartzchild's was so difficult that the crucial experiment between them was not yet contrived.

In the 1930s and 1940s the main interests of physicists shifted to the realm of quantum mechanics and nuclear physics which developed without relying on any gravitational theory. Here physicists were satisfied only with the special theory of relativity, and kept away from Einstein's later project of relativistic cosmology and the unified theory of fields. Whitehead was regarded as a metaphysician, and his theory of relativity seemed to be virtually ignored during this period. The re-evaluation of Whitehead's theory began in the 1950s, which was due to an Irish physicist, Synge, who esteemed Whitehead's theory for its elegance and originality, and located it between Newton's theory of action-at-a-distance, and Einstein's theory of local action. Setting aside Whitehead's philosophical background, Synge reconstructed mathematical formulae of Whitehead's theory in Einstein's terminology to make them accessible to contemporary physicists. Synge also treated the problem of a continuous static model, and calculated the gravitational field of a finite sphere of uniform density at rest on the basis of Whitehead's theory.(19) Two years later, this result was extended by Rayner to the case of non-static continuous distributions of matter. Calculating the gravitational field of a finite, uniformly rotating, homogeneous sphere, Rayner examined the perturbing effects of the rotation of the central sphere on the orbits of planetary motion, and got similar results to those obtained by Lens and Thirring applying Einstein's theory to the same problem. Rayner also constructed a cosmological model uniformly expanding with homogeneity and isotropy on the basis of Whitehead's theory.(20)

Whereas Synge and Rayner proved that Whitehead's theory, in spite of the paradigm-difference, had the same conclusions as Einstein's in various applications, Clark for the first time took up the problem of establishing a crucial experiment between the two. Having discussed on the two-body problem, Clark proved that Whitehead's theory of gravitation involves a secular acceleration of the center of mass, and suggested that Whitehead's theory might be refutable by observing the motions of the centers of mass of double stars.(21) The same problem was also discussed by Schild, who showed that Whitehead's theory can be modified in such a way that linear and angular momentum are rigorously conserved, and the center of mass of any isolated system has no secular acceleration. Schild added an interesting remark that Levi-Civita, using Einstein's theory of general relativity, obtained a similar secular acceleration, but that this was later proved to be in an erroneous calculation.(22)

In the 1960s, the confrontation between gravitational theories and experiments again became a matter of concern for physicists. The rapid progress of technology and astronomy made it possible to test various gravitational theories at an unprecedented levels of accuracy. The number of theories in need of testing having increased, the desire to sift them out systematically was intensified. Pioneered by Dicke and Nordtvedt, the various meta-theoretical frameworks of gravitational theories were propounded. Concerning the principle of equivalence on which Einstein founded the general theory of relativity, we must mention the results of redshift experiments in 1965 on the earth by the use of the Moesbauer effect (recoilless emission and absorption of photons). The accuracy of that observation was about twenty times higher than those previously obtained by astronomical observations. This proved to be a strong support for Einstein who had considered the gravitational redshift one of the most important tests of general relativity. Moreover, it is thought by many physicists today that the result of the gravitational redshift proves the so-called Schiff's conjecture that any theory of gravitation must necessarily be a metric theory.

Inspired by Dicke's ideas, Will energetically grappled with the problem of testing in the 1970s, and presented five criteria by which we can eliminate those theories that disagree with experiment. He laid out the "Parametrized Post-Newtonian" framework (PPN) as a meta-theory in which nine metric parameters. varying from theory to theory, made it possible for him to render the various theories of gravitation commensurable. As for Whitehead's theory, Will admitted it was an elegant theory that had been "a thorn in Einstein's side", but claimed that he had now succeeded in refuting it by geophysical effects, the fifth criterion which he had invented.(23)

According to Will, Whitehead's theory involves a small anisotropy in the gravitational constant G measured by Cavendish experiments on the earth. As the earth rotates, the anisotropy in G produces "Earth tides", i.e. variations in the acceleration g measured by the gravimeter, which are completely analogous to the tides produced by the moon and the sun. Making use of a simplified model of the galaxy, Will calculated the amplitude of the earth tides on the basis of Whitehead's theory, and got the value, which proved to be 200 times larger than the experimental limit. So he concluded that "Whitehead's theory, after 50 years of life. was "killed" by the geophysical data.(24)

Will's argument, though accepted by many physicists today as valid, was not without objections concerning the process he used to calculate and estimate the predicted value of earth tides. Fowler claimed that he could reduce the value by a factor of 100 under a different model of the galaxy, and thereby diminish the discrepancy between Whitehead's theory and the geophysical data. Remembering that Whitehead was prepared to adjust his own formulae to take account of new data, Fowler concluded that:

"The real issues between Einstein and Whitehead are not physical but philosophical. No empirical test can decide the issue of the adequacy of Whitehead's basic theory of relativity. This issue must be settled on other grounds."(25)
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The Principle of Relativity 7

2005-04-08 | 哲学 Philosophy

5. The Redshift Experiment and Whitehead's Theory

In the previous section we have summarized chronologically the various opinions of physicists concerning the experimental tests of Whitehead's theory as compared with Einstein's. Taking these accounts into considerations, I will try to make clear the meanings of new experimental situations available today so that Whitehead's theory may be reexamined and modified within this context.

First, we should bear in mind the fact that Whitehead's theory contains two levels of arguments. One is propounded as a physical hypothesis, open to the future refutation, and the other is his philosophy of nature which is the guiding principle of his physical theories. For example, his basic equation of gravitation such as



is a refutable hypothesis which Whitehead was able to abandon without altering his background philosophy. In a similar way we can consider it as a hypothesis, and not an inescapable result of his philosophy, to state that "the gravitational forces are propagated along straight lines in Mincowski's space, whereas electromagnetic waves are deflected by the contingencies of the universe," though it is a natural interpretation of Whitehead's formulae. So in one sense it was understandable that Fowler would conclude his remark on Will's alleged refutation by stressing the paradigm-difference.

The present author, however, believes that it is not productive, and is even sterile, to insist too much on the paradigm-priority over observed data. Even today it is logically possible that we believe in the Ptolemaic theory by postulating peripheral hypotheses in order to explain the planetary motion. But physics needs more than logical consistency. We had better consider the refutability of a physical theory on its merit. We always learn something at the time of refutation of our pet-theories.

Take, for example, the thesis that space-time must be "fiat". This thesis was the guiding principle of Whitehead's formulae for gravitation. He admitted openly that he was very willingly to believe that each permanent space is either uniformly elliptic or uniformly hyperbolic, "if any observations are more simply explained by such a hypothesis." But the postulate that the curvature of space-time must be constant was thought by Whitehead to be essential to any satisfactory theory of space-time. It was not a hypothesis, but one of the fundamental principles of Whitehead's theory. I will try to show that the very postulate that the metric structure of space-time must be uniform should be abandoned if we want to learn seriously from experiments which are available today, but were unknown to Whitehead.

We will confine the discussion to the effects of redshift experiments on Whitehead's theory. This does not mean that the problem situations raised by Clark and Will may well be ignored. On the contrary, they should be considered as very important contributions even if there remain some ambiguities concerning their results. Lengthy discussions and mathematical technicalities are involved, if we are to grapple with the problern of earth tides or of conservation laws. Moreover if we abolish the thesis of a uniform metric, we need not insist, as Whitehead did, on the global inertial system, which was responsible for the earth tides in Will's criticism. So it is justifiable first to discuss the problem of the metric structure of space-time.

Einstein, as was pointed out in the first section of this paper, stressed the importance of the gravitational redshifts so much that he dared to say that he would abandon the general theory of relativity if it was not observed. The result, however, of astronomical observations by Freundlich (1930) and others were not satisfactory because of an inaccuracy of measurement. This was one of the reasons why many physicists thought the experimental evidence for the general theory of relativity was not convincing. The situation, however, has changed since 1965, because the aforementioned experiment by the use of the Moesbauer effect gave strong support to Einstein's prediction Since this result is interpreted as verifying the principle of equivalence, some kind of reformulation of Whitehead's theory is necessitated because Whitehead did not accept the principle of equivalence in his original formulations.

Whitehead's theory in its original version (1922), using a simplified model of a radiating atom obtained a gravitational redshift slightly different from that of Einstein's theory by the factor of 7/6. Whitehead also predicted that the values of redshift would depend on the directions of emitted light (Limb Effect), which, at least qualitatively, corresponded to the data of astronomical observation. So it seemed as if the predictive power of Whitehead's theory were equivalent to Einstein's concerning the redshift phenomena, but in fact such an equivalence does not hold. First we must notice the difference of physical interpretations when both theories derive the gravitational redshift. Whereas Whitehead's theory needs additional hypotheses concerning the structure of atomic clock and the nature of interaction between a gravitational field and other force fields, Einstein's theory does not need such auxiliary hypotheses, because the latter postulated that the gravitational fields should directly influence the metric of space-time. One of the most important results of this difference is that whereas Einstein's theory should predict the uniformity of gravitational redshift independently of physical conditions, Whitehead's theory can not expect such a uniformity. This mean that Einstein's theory has a stronger structure than Whitehead's because it runs the risk of being refuted by possible varieties of gravitational redshift. But since Einstein's prediction of redshift has been corroborated by empirical tests since 1965, it gains the advantage of Whitehead's theory because of its completeness.

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The Principle of Relativity 8

2005-04-07 | 哲学 Philosophy

Moreover there is a further argument against Whitehead's type of gravitational theory as suggested by Schild.26 According to this argument, we must abandon the presupposition of "flat" space, if we accept the uniform occurrence of the gravitational redshift. The argument is as follows:

Suppose that a light signal with the frequency v' is emitted at the gravitational potential V, and it is observed as a light with the frequency v at the potential .

As the light loses energy during the movement against the gravitational field, becomes smaller than ' according to the equation:



This is the formula for the gravitational redshift. If we consider the light as a wave movement then the above formula involves an apparent contradiction, for it is unreasonable that




since wave crests cannot originate or disappear between sender and receiver. This contradiction is resolved by assuming that time flows at different rates at different levels in a gravitational field. If a clock resting at level V measures a time interval s' for n oscillations of the wave and if a clock resting at level measures a time-interval s for n oscillations, then



Substituting this into the aforementioned formula, we get:



This is the formula for the gravitational time dilatation.

If we presuppose that space-time is fiat, we find that it is contradictory to the above result of time dilatation. In Minkowski's space-time, the world-lines of two clocks at rest are parallel to the time-axis. Suppose that the stationary gravitational field is parallel to x-axis, and the light signal, emitted from the world-point P with the potential V, is received at the world-point Q with the potential

After the time-interval s', measured along the lower world-line of the clock at the potential V, another light signal with the same frequency is emitted from the world-point Q, and received at B which lies at the higher world-line of the clock at the potential

As the whole setup is stationary, PA and QB are parallel to each other, and PABQ must be a parallelogram. Therefore PQ(s') must be equal to AB(s), which is contradictory to the formula for the gravitational time dilatation. Simple as it is, the above argument shows clearly that the Whiteheadian theory of gravitation needs some modifications in order to explain the uniformity of the gravitational redshift. Of course we can escape form this difficulty simply by postulating as an auxiliary hypothesis that the gravitational field exerts a physical infiuence uniformly on the inner structures of atomic clocks. But such an ad hoc remedy only shows that we had better adopt Einstein's thesis that the gravitational field directly affects the space-time metric. The only alternative is to take what Whitehead called "potential mass impetus", dJ, as measuring the element of proper time along time-like world-lines. This type of modification, as Synge and others showed, makes it possible to deduce the uniform redshift from Whitehead's equations. We can get the same predicted value of redshift as that of Einstein's equations.

But we must bear in mind that the above remedy requires us to reformulate one of the fundamental tenets in Whitehead's theory, i.e., that space-time should have the uniform structure independent of matter. Accepting the influence of gravitation on metrical properties of space-time, we are obliged to ask the following question. To what extent may we admit the effects of matter on space-time and at the same time remain faithful to Whitehead's philosophy of nature?

As was stated in the second section of this paper, Whitehead rejected the priority of matter over space-time. In his philosophy of nature, events are ontologically prior to matter and space-time. Matter is treated as an "adjective" of events, and cannot influence the essential properties of space-time which should be decided only by the interrelated structures of events. The existence of matter only affects the accidental attributes of space-time. So there are two alternatives concerning the status of metric properties. One is what Whitehead adopted in his formulation of physical theory: the metrical properties of space-time are independent of matter. But this choice is untenable if we take seriously the aforementioned results of experiments. So we must take the other alternative. i.e. the metrical properties of space-time are indeed affected by the existence of matter, but the topological properties are independent of matter. It must be noticed that Whitehead himself was absorbed in the topology of events as the "theory of extensive continuum" in his later philosophy of nature.27 For example, he tried to define the concept of "straightness" or "flatness" without relying on any metrical property, but only through the interrelated structures of extended regions. So the idea of topology without metric as the determinant of space-time may be called Whiteheadian, though it is not explicitly stated in The Principle of Relativity where he stresses the uniformity of metrical structure.

If we adopt the idea of the topological priority of events over matter, we can restrict the extent to which the distribution of matter exerts influence on the topology of space-time. On the other hand, if we think that the structure of space-time totally depends on the distribution of matter, we are confronted with a queer situation, which Goedel called "the Ideality of Time" in one of the solutions of Einstein's equation;(28)i.e. Einstein's theory is consistent with the cosmological model where "for every possible definition of a world time one could travel into regions of the universe which are passed according to that definition." Einstein himself admitted in his response to Goedel that the directionality of time cannot be determined within the framework of general relativity, for the topological structure of the universe might be determined by matter in such a way that the time-like world-line is found to be closed.29 As Whitehead's philosophy of nature insists on "the reality of time", i.e., the reality of events which cannot be repeated, it would be productive for the future development that a new version of Whiteheadian theory of relativity adopts the idea of topological priority of events over matter, instead of the uniformity of a space-time metric .


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The Principle of Relativity (References)

2005-04-07 | 哲学 Philosophy

References

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