歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書: プラトン 2

2005-05-06 | 哲学 Philosophy
プラトンの仮設法をこのように綜合法として理解することができるとすれば、それはさらに、いわゆる綜合・分割法の一つの側面だといわねばならないであろう。学者のなかには、綜合法を「上昇的弁証法」とか「綜観弁証法」とか名づけ、分割法を「下降的辯證法」、「分析辯證法」とよんで区別する人もあるが、それらは互いに結びついて、プラトンの全一な辯證的方法の二側面ないし二契機をなすものと考えられる。そこでわれわれは綜合・分割法の考察に移ることにしよう。

(2)『国家』第六巻の終りのところで、プラトンは辯證法が何を対象とし、どのような方法でそれをとりあつかうのかについて、次のようにいっている。

「それでは、可思考的なもののもう一つの分割された部分と私がいうのは、こういうものだと解してくれ、つまり、それは理性そのものが弁証の能力(h tou dialegesqai dunamiV)によって触れるもので、諸前提を初め〔根本原理〕としてではなく、いわば梯子の段や出発点のように文字通りヒュポテシス前提〔仮定〕とする。それは、すべてのものの初めに向って無前提のところまで進んでゆき、その初めに触れた後、再び今度はそれに依存しているものをたどりながら終りへ降りてくるためなのであるが、その際知覚されるものは何一つ用いず、形相そのものだけを用いて、形相へ向って降りてゆき、それらに達して終るのである。」(511BC)

ここには、辯證法が純粋な思考(理性知)によって下位のイデアから上位のイデアに昇ってゆき、最高のイデアに達すると再びイデアの連関をたどって下降することが述べられているが、こうした理性の上昇と下降の二側面がそれぞれ綜合・分割法の二側面に対応しており、この二側面があわせて弁証法とよばれていたことは、『パイドロス』のなかでプラトンがソクラテスの口をかりていっそう明瞭に語るところである。それによると、彼の方法は二つの種類に分かれる。

「その一つは、多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相〔イデア〕へまとめること。これは、人がそれぞれの場合に教えようと思うものを一つ一つ定義して、そのものを明白にするのに役立つ。」(265D)

もう一つの種類の方法とは、

「いまの行き方とは逆に、さまざまの種類に分割することができるということ。すなわち、自然本来の分節に従って切り分ける能力をもち、いかなる部分をも、下手な肉屋のようなやり方でこわしてしまおうと試みない」(265E)ことである。

またこの二つをまとめて、「ものごとをその自然本来の性格に従って、これを一つになる方向へ眺めるとともに、また多に分かれるところまで見るだけの能力を持っている」(266B)ことだともいえる。そしてプラトンは、「話したり考えたりする力を得るためには、この分割(diairesiV)と綜合(sunagwgh)〔という方法〕を、恋人のように大切にしている」(266B)ことや、この方法の実行できる人を「ディアレクティケーを身につけた者」(266C)とよんでいることなどを、ソクラテスに語らせている。さてこれを定義法としてみるとき、この個所では、第一の綜合の方法が定義するのに役立つといわれているし、もっとさきの個所でも、

「人がその言ったり書いたりする一々のものの真実を知り、また全体をそれ自体として定義することができ、また定義した後では今度はまた分割しえない所まで種類分けすることができ...」(227B)

というように、定義の後に分割がおかれていることから考えると、綜合と分割とは別個のもので、綜合だけが定義の方法のようにとれる。ところが、この弁証法を実際に適用してソフィストや政治家の定義を試みたものといわれる『ソピステス』や『政治家』では、むしろ主として分割の方法が用いられている。

定義を事物の木質の概念的把捧に到進するまでの探究過程として動的発展的に理解するならば、綜合と分割とはきりはなすことのできない二側面として定義法のなかに含まれているることが分かる。たとえば、ソフィストを定義するにあたって、まずすべての技術が「ポイエーティケー製作術」と「クテーティケー獲得術」とに分割されるが、その製作術は、耕作や生き物の世話や道具類の製作など、すべて作ることにかんする技術を総括して名づけたものであるし、また獲得術は、学習や認識、営利や闘争や狩猟のように、作るのでなく、既存のものを理論や実践でわがものとする活動にかんする技術を綜合して名づけたものである。(『ソピステス」219A-C)

そしてこんどは製作術が影像の製作術と本物のそれとに分けられ、さらに影像製作術が幻像の製作術と似像のそれとに分けられるというふうに分割が進んでゆくが、どの段階をとってみても、それぞれがより特殊なものを総括した一般的名称となっている。こうして最後に、ソフィストの術は《「問答によって」「狡猾な心を以て」「模倣される対象を知らずに」「自己の言行を用いての模倣による」幻像製作術》として定義されるわけであるが、この定義自体がまた、各段階で分割されたものの一方の側を全体的に結合したものとなっているのである。だから、分割法による定義といっても、分割の各段階が綜合を含んでいるばかりでなく、最終的な定義がまた分割されたものの綜合として成立するといわねばならない。分割の過程で任意の中間段階をとっても、そこで綜合をおこなえば、いわば中間的な定義が成立しうる。しかし最も厳密な定義は、中間の段階をいいかげんに飛びこさないで、しかも最終段階まで分割をつづけてゆき、そのうえで綜合することによってのみえられるであろう。このように考えれば、綜合の方法が定義するのに役立つといわれたり、定義したのちさらに分割しえないところまで種類分けするといわれたりしていることも、定義における分割の役割を否定するものではないことが諒解されよう。

そればかりでなく、類と最下の種との中間にある種を見おとさないで分割してゆくことが研究にとって最も大切だとされ(『政治学』262B)、この点に辯證法的に議論するか争論術的に議論するかの別れ道がある(『ピレボス』17A)といわれている意味も、いっそうよく理解されるであろう。

ソクラテスの定義法は、実践的な意図から、あるいは倫理学的な関心から、主として道徳的な一般概念を明確に把握するための方法であったか、プラトンの定義法としての綜合・分割法は、本質的にはソクラテスの精神を継承しながら、師の方法をいっそう理論的にほりさげ、論理学(=存在論)の領域にまで学的関心を拡大してえられたものということができる。

プラトンは、最高の類概念(最高実在-善のイデア)からいくつもの中間的な類または種を経て最下の種概念(不可分の種)にいたる諸概念(諸存在)の普遍的な連関ないし秩序を考えており、綜合も分割もこの客観的な秩序に従っておこなわれるべきものとしているのであって、こうした方法的意識の根底には、諸概念(諸存在)の普遍的連関がいわば客観的・法則的なものとしてとらえられていたことを見のがしてはならない。われわれは思考法としてのプラトン辯證法における分割と綜合の二側面が、あらゆるイデア(概念=存在)のあいだにある区別と連関の二側面を客観的基礎として成立したものと考えてよいであろう。
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