新教出版社より、「東條耿一作品集-いのちの歌」が2009年9月4日に上梓されました。
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「いのちの歌」というタイトルのもとにここに編集された東條耿一の作品は、初出の雑誌によれば基本的に次の三種類に分類することが出来る。
一つは、全生園の園誌「多磨」の前身である「山桜」に昭和九年から昭和十七年まで掲載された作品、もう一つは、戦前の文芸誌「詩人時代」「蝋人形」「文学界」「四季」などに投稿された作品、そして三番目には、昭和十六年にカトリックの雑誌「聲」に連続して掲載された作品である。尚、このほかに、東條の没後十一年の昭和二十八年に、全生園のカトリック愛徳会の機関誌「いづみ」に、遺稿「癩者の改心」が掲載されている。
これらの雑誌に、我々の詩人は、昭和九年一月から昭和十一年六月までは「環真沙緒子」あるいは「東條環」の名前で、昭和十一年九月以降は、短編小説「霜の花」と詩「望郷台」を小杉不二の名前で発表した他は、晩年に至るまで、すべて「東條耿一」の名前で投稿した。
らい予防法にもとづく強制的な隔離政策の時代、入所者が実名を名乗ることは稀であった。療養所の作家は、入所時に選んだ仮名の他に、さらに、複数のペンネームを使うのが普通であった。異なるペンネームを使う作家を、後世のものが同定することはなかなか難しい。幸い、「ハンセン病文学全集」の刊行と共に、療養所の作家達の経歴を克明に調査された皓星社の藤巻修一氏と、東條耿一の詩の卓越性にはやくから着目されていた俳人村井澄枝氏のご努力で、環真沙緒子、東條環、小杉不二のペンネームで投稿した作者が東條耿一と同一人物であったことが、さまざまな文献的証拠によって確定した。そのおかげで、昭和九年から始まる東條耿一の詩人としての遍歴とその人間的苦悩、昭和十二年の北條民雄の死、その後の東條耿一のカトリックの信仰への回帰、「聲」に執筆した晩年の信仰告白、昭和十七年の遺稿「訪問者」に至るまでの魂の歴程をたどることができるようになった。
二〇〇二年に刊行された作品集「ハンセン病に咲いた花(戦前編)」(皓星社)は、東條耿一の「霜の花」を収録している。この作品は、昭和十五年の「山桜」文芸特集号で、木下杢太郎選第一等にえらばれた短編小説であるが、その編者、盾木氾は、戦前の全生詩話会の中でピカ一的存在であった東條耿一に触れて、
「東條には、当然詩集があってしかるべきと思うが、それがないという事は寂しいことである」
と書いている。また、北條民雄に関する評論「いのちの火影」を書いた光岡良二は、大正八年に創刊された「山桜」の書誌的研究を集大成した「書誌・多磨『五〇年史』」のなかで、東條耿一の詩から「誕生」「念願」「一椀の大根おろし」の三篇を引用している。このうち、「一椀の大根おろし」は昭和十四年四月の「山桜」文藝特集で選者の佐藤信重が一席に選んだ詩であり、おそらく東條の詩の中で最もよく知られていたものであろう。尚、この書誌の中で光岡は、東條が「晩年のある日、一切の自筆原稿を焼却し、所持の文学書を手放してしまった」と書いているのが注目される。同じ趣旨のことは、東條の実妹の津田せつ子も彼女の兄を偲ぶエッセイの中で言及しているが、東條の一途な性格を示すエピソードであろう。
尚、東條耿一の義弟で戦後の全生園カトリック愛徳会の中心的存在であった渡辺清二郎が、昭和四十九年に亡くなった後で、遺稿集「いのち愛しく」が私家本として編集されたが、それには、東條耿一の詩作品として、「一椀の大根おろし」「爪を剪る」「夕雲物語」「樹樹ら悩みぬ」「心象スケッチ」「閑雅な食欲」「奥の細道」「散華」の九篇が収められている。
東條の詩人としての主たる活動の舞台となったのは「山桜」であるが、これは、大正八年四月に、浄土真宗の熱心な信者でもあった全生病院の入所者の栗下信策と若くして病没した月島不二男らを中心として創刊され、昭和十九年七月に休刊されるまで、ほぼ毎月刊行された。最初の頃は俳句や短歌を中心とする文藝活動が主体であったが、昭和六年に生田花世や後に療養所の詩の選者となった詩人佐藤信重らが全生園を慰問して文芸講演をした頃から、詩の創作が盛んとなり、昭和十年には合同詩集「野の家族」が全生詩話会の名前で刊行された。これを契機として、我々の詩人はペンネームを環真沙緒子から東條環に変更したのであるが、「野の家族」には「柚の實」のように、短いながらも印象的な東條の作品が含まれている。
昭和十年は、前年に入所した年少の友人北條民雄との親密な交流の始まる年でもあった。北條民雄日記によると、このころの東條は、多くの詩を「山桜」に投稿してはいたが、他方、病気の進行によって失明するかも知れないと言う不安に苦しんでいた。この精神的な危機を、東條は療養所の中で文子という伴侶を得ることで乗り越えたようである。
我々の詩人は、昭和十一年九月より、ペンネームを東條耿一とあらためて、それ以後は、基本的にはこの名前で詩の創作活動を続けた。また、北條を通じて外部の文壇とも繋がりを得て、しばらくの間三好達治から詩作の指導を受け、「四季」「文学界」といった詩誌や文芸誌に彼の詩が掲載されるようになった。東條耿一の三好に対する傾倒ぶりは、昭和十二年正月の「山桜」に投稿した随筆「初春のへど」に現れている。
この随筆は、療養所で文藝活動を続けていくことの困難、そしてさまざまな二律背反に苦しむ東條の姿を浮き彫りにしているが、同時に、怨恨や復讐としての文学ではなく、「義務としての文学」を志したいという東條の文学観も語られている。「権利」ではなく「義務」という言葉を使うところに戦前の詩人であった東條の面目が現れているが、そこでいう義務とは、療養所の管理者や一般読者に対する義務ではなく、あくまでも自己自身に対する義務であり、自分が書きたいことを書くのではなく、どうしても書かなければならないことを書き残してから死を迎えたいと言う意味であろう。
昭和十二年に病床にあった北條民雄に、東條耿一は「樹々ら悩みぬ」という詩を捧げている。この詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「こころの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている―その二律背反的な苦しさが詠われている。
北條民雄は、療養所からの脱出を試み、各地を彷徨したのちに療養所に戻り、昭和十二年正月より重病棟に入った。それまでの彼の苦しみに満ちた試みを、仮に「水平的な脱出」というならば、それは不可能であった。日本の何処にも受け容れてくれる場所はなく、彼は柊の垣根のなかに舞い戻らねばならなかった。この苦い挫折の思いは、外出許可をもらっても決して故郷には帰らなかった東條自身にもあてはまるだろう。彼らが安住できる場所は何処にもなかったのである。
水平的な意味での「脱出」が閉ざされた場合、ひとは垂直的な「超越」をめざす。東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教の復帰という具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。
昭和十六年の「山桜」三月号に載った「落葉林にて」という東條耿一の詩は、同じ年の「聲」一月号に載った手記「癩者の父」とあわせて読むべき作品だろう。かつて父親から剃刀を渡され自害することを勧められたこと、また復生病院へ行く途中、この父親と心中したかもしれないというようなことなど、想像を絶するが如き状況を生きてきた父と子の姿が「癩者の父」では、ありしままに綴られている。そういう極限的な状況を嘗て共有した父が胃癌に苦しんでいるという報せを聴き、自分自身もまた死期を予感しつつあった東條は、その父に対する情念を、「落葉林にて」という詩では、誰に憚ることもなく吐露している。
胃癌に苦しみ「心むなしくやみたまふ」父に対して、救いの手を差しのべることが出来ない自分を、「親不孝者」として詰ること、そのかぎりない悔恨が、落葉のなかに埋もれていく父の幻影として、あるいは落葉林を吹きすさぶ風のなかに聴きとめた呻吟する父の声によって示されている。「癩者の父」の末尾に置かれた短歌二首は、この執拗な幻影・幻聴を鎮める祈りの言葉のように思われる。そこで、東條は自分のみではなく、父の魂が遂に平安を得ていないこと、自分が何一つ父のためになることができぬうちに父がなくなることがもっとも気掛かりであった。この肉親の父への切々たる思いを抜きにして、「癩者の父」に始まる東條の晩年の手記が、なぜ「聲」誌に投稿されたかは理解できないであろう。
遺稿となった詩「訪問者」のテーマは「父なる神」と子との和解であるが、その「父」のイメージには、東條を受洗した神山復生病院のレゼー神父、また全生園の重病棟を定期的に訪問して死を迎えんとする患者の世話をしたコッサール神父など、異国に骨を埋める覚悟で献身的に奉仕したカトリック神父たちも含まれているようだ。
東條の妹の渡邉たつ子は、カトリック愛徳会の会誌「いづみ」(1954)のなかで、東條とコッサール神父にかかわる次のようなエピソードを伝えている。
生前、兄はよく次の話をした。ある日、文学をやる友達と一緒に神父様の前で兄はこんなことを言ったそうである。「キリストが十字架に犠牲になろうが、どんな死に方をしようが、私には別にかかわりのないことである。」神父様は呆れて兄をじつとみつめていたが、「あなたの云われることが眞實だったら、私がはるばる日本に宣教師として来ていることは何の意味もないことになるのです。」兄はこのことを述懐するごとに、「俺はあんなおそろしい冒涜の言葉を吐いて、よくこの口がまがらなかったと不思議な位だ」と冷汗三斗の思いのようだった。
東條耿一がキリスト教信仰に復帰したことを示す「訪問者」という詩のなかでとくに印象深いのは、冬の寒い日の戸外で佇んでいた「父なる神」に暖をとってもらうために、自分が安逸を求めて坐っていた椅子と、自分がもっとも重んじていた過去の作品や大切にしていた書物を炉にくべるという箇所であろう。そこには、非キリスト教的な文学と訣別して、信仰の道を一筋に歩もうとする彼のひたむきな決意が認められよう。実際、昭和十六年以降は、東条の作品は山桜の文藝欄ではなく、カトリックの機関誌「聲」に寄稿したもののほうが主体となっている。ただし、晩年の東條は詩作そのものを断念したわけではなく、独自の優れた宗教詩を書き残している。
昭和十七年七月の「山桜」に掲載された「病床閑日」という詩は、遺稿「訪問者」を別にすれば、東條の最後の詩であるといってもよい。この詩の最後に出てくる、「いのちの歌」という言葉こそ、北條民雄が嘗て「いのちの友」と呼んだ東條耿一の晩年の作品の精神をもっともよく表すものではないだろうか。東條はこの詩が発表されてから二ヶ月後に亡くなったが、結核性の腹膜炎を併発し、非常に体調が悪い時期であった。この詩は、そういう苦しい病床の中で、比較的、病が小康状態であったときに詠まれたものである。この詩で、「新しい眼を瞠る」という箇所に注目したい。作者は、もはや「古い眼」で外なる自然を見ているのではない。そこで「私を超え、自然を超えた」声、鳥たちの囀りを聴いていると、それは、もはや「束の間の消えゆくもの」としてではなく、「永遠のいのち」として、そして同時に「私のいのち」として聴かれている。「この草 この緑 この大地」は、この世のものであるが、そこにおいて、「永遠なるもの」が先取されているような、そういう響きがある。
カトリック教会でよく唱えられるアッシジのフランシスの「平和の祈り」には、様々なバージョンがあるが、あるバージョンでは「永遠の生命を得る」ではなく「永遠の生命に目覚める」となっている。眠りから覚めて、新しい眼を瞠るとき、どういう情景が見え、どのような聲がきこえるのか。それは決してまだ訪れない未来のこととしてのみ語られているのではない。そういう未来は、必ず訪れるべきものとして、病床の中にいる東條の「新しい眼」において、直接に経験されている―そういう強い印象をこの詩は読むものに与えるのである。
義兄の信仰は本物でした。十六才の折、復生病院でドルワール・ド・レゼー神父様から洗礼を受け、一度退院し、何回か自殺をはかり、いずれも未遂。ついに多磨全生園に入園し、精神病棟の付添夫のかたわら文学に精進しました。その頃は信仰から離れていましたが、詩は三好達治先生に師事し、当時の詩誌『四季』にも作品が発表されました。その他、「一椀の大根おろし」「爪を剪る」「夕雲物語」など、すぐれた詩を遺してくれました。カトリック関係の雑誌や新聞にも寄稿し、『声』誌に「癩者の父」「小羊日記」「金券物語」等、数多くの作品を寄せています。北條の周囲の友人がこのようにカトリックに導かれたことは、神のみ摂理の不思議と思いますが、聖徳高いコッサール神父様のお祈りによるところと思います。義兄はかつて、この神父様に向って、「キリストが十字架上で死のうと生きようと、自分には何の関係もない」と言い切ったのですが、「どうして俺はあのような冒涜の言葉を吐いたんだろうか」と、これは義兄の死を迎えるまでの心の痛みとなっていました。東條耿一の妹の渡辺立子(津田せつ子)さんも同じ趣旨の回想を戦後まもな刊行された「いづみ」というガリ版刷りの雑誌に書かれていたが、コッサール神父は、回心前の東條に対して、「もしあなたの云うことが真実だとしたら、私が遙々日本にやってきて、ここでイエスのことを伝道していることは全く無意味になってしまうでしょう」と答えたという。
千三百人の患者は、眞宗、大師講、日蓮宗、新教、天主教などに分れ、月々に大抵一囘乃至二囘くらゐ、各宗團の特派布教師や牧師がやつてきて、色々の話をします。でたらめな時局談ばかりやつて氣をよくしてゆく僧侶もありますし、妻や子を一緒にひつぱつてきて、美しい聲で讃美歌をうたつてかへる牧師もありますが、それらの坊さんや牧師さんはそれで禮拜堂へ参集することのできる程度の健康な癩患者をみて、ああ思つたより癩病院は明朗だ、などといつて歸つてゆくのが常で未だかつて、本當の意味での癩病であるところの重病棟へ、その足を運んだことはありませんでした。その定説は今年になつてから、長身の司祭服を九號病棟に迎えたことによつて破られました。フランス人カトリック司祭C師は、病のあつい河野のところへ終油の秘蹟を授けに來られたのでしたが、そこは癩病院のなかでの結核病棟で癩と結核菌の中へ一人の外人が微笑をふくみながら、肉親の見舞客でさへも白く羽織つてくる消毒衣もマスクもつけないで入つてこられたのでありましたから、びつくりしたのは同じその病棟に病をやしなつてゐる二十名足らずの病友でありました。(中略) C師はやがてリノリウムの床を靜かに河野の枕許に近よられるとおだやかな聲でねんごろに見舞をのべた後、嚴かに終油の秘蹟をお授けになつたのです。丁度長い重病棟に三つしかないシヤンデリヤに赤い灯が入る頃で、いつもならばごたごたと色々な人の見舞客がおしかけラヂヲがなる頃でありましたが、その瞬間には、ひそと靜まつてしまひ、C師の白い指の先が何をするかを皆がじいつと見つめてゐましたが、その指が河野の唇にふれ、かへつてC師の唇にふれて「私にもいづれその日が來るであらうが、私のその日の爲にも祈つて頂きたい」といふ師の聲があたりへ響いて行つたときには、居あはせた總ての患者は皆愕然とし粛然としてしまつたのであります。これは、戦前の全生園で東條と並んで多くの詩を発表していた河野和人の臨終の場面を描いたものであるが、C師とあるのがコッサール神父である。ここでコッサール神父は、河野和人と同じ一人の人間としての立場に立ち、「私にもいづれその日が來るであらうが、私のその日の爲にも祈つて頂きたい」といっている。臨終を迎えている河野も、自分のことだけでなく、他者のために祈ることが出来る。その相互の祈りの中で、河野の生死とコッサール神父の生死は、一つに結ばれているのである。
神父様は「落栗」という俳名で作句されていたと伺ったが、次の一句だけをもれ聴いたことがある。スータンとは、カトリックの司祭が着る衣服であるが、それを着て、彼は、車を使わずに、徒歩で全生病院まで来院していたとのことであった。
「スータンに蛍(ほうたる)ついて来りけり」
「1951年より始まった小松(松本さんのこと)の聖書暗記は、秋津教会を退会したことから一時中断したが、教会の長老、小野宏、泉信夫、それに隣室の立川正一の協力を得て再び始められた。1960年までに共観福音書とヨハネによる福音書、使徒行伝、パウロ書簡、旧約聖書では詩編全編とヨブ記全章を暗記した」これをみますと、秋津教会の籍を離れたとはいえ、秋津教会の長老をはじめ信徒の方が、教会に籍があるかないかにはこだわらずに、松本さんが聖書を暗記するのを手助けされた事が分かります。
「怒り」そのものを禁じた律法は旧約聖書にはないように思います。ちなみに、パウロが例示した「むさぼるな」という規定は、「箴言」の第二十三章にあるだけであり、パウロの言う律法自体は、旧約聖書の律法というよりは、かなり一般的な道徳律のように思いますがいかがでしょうか。旧約聖書の神の姿は「聖なる怒り」を本質的な特徴として持ちますから、「怒り」そのものを禁止する律法は、旧約にはたしかにないですね。もっとも、肯定的な「怒り」は「義憤」と訳すべきかも知れませんが。
>27日に書かれた「絶対他力の信仰について」の中に、「相対的な信仰を絶対否定することによって恵まれた信仰」という件がありますが、「相対的な」信仰を持っている人自らそれを「絶対否定」することはできないのではないでしょうか。その信仰が、神によって否定されたことに気づくのだと思います。問題は、否定されただけでは、絶望に陥ると思います。自分の罪が赦されていることも同時に知らされることで、自らの救いを確認できるのではないでしょうか。これは、旅人さんが「信仰の弛緩」ということを仰った文脈ですね。つまり、いわゆる他力本願(あなたまかせ)では、「信仰が弛緩する」ということを言われた、そのことに対して私の考えを述べた文脈でした。「弛緩したり強められたりする」のは、あくまでも「我々の側の主観的信仰」であって、それの根源にある「十字架上のキリストの信仰」はそうではないということが私の趣旨でした。確かに、絶対否定は自力ではあり得ません。
>また、「相対的信仰」なるものは、「絶対的信仰」の前で、何の価値もないものなのでしょうか。私には、たとえ「相対的」なものであっても、「信仰」は実は神様から与えられたものなのだと覚ることにより、大きな喜びが与えられるのではなかろうかと思っています。「大きな喜び」については私もそう思います。信仰だと自分が思っていたものが、我も人も苦しめる律法と化してしまったら、それは實は十字架の信仰ではなかったということーこれが松本さんの言われていたことでした。いかにささやかなものであっても、信仰・希望・愛の三つの対神徳は、功利主義や世間的な道徳によっては得られない喜びを与えるものと思います。
>「小さき声」20号には、聖書を読まなければ生きていくことが出来なかった、とは松本さん自身の言葉です。すべてを犠牲にしてただ聖書を読み続け、聖句を暗誦することによって、ただ信仰のみによって生きていこうとされた松本さんの生活を伺わせます。
> 『神は命の言をきく耳だけを私に残したのです。私はこれをよろこんでよいのか、かなしんでよいのかわかりません。なぜなら魂は死ぬほど神をしたったためにその結果、罪をおかすことになったからであります。「まずいときに死んだ」は、私の熱心が云わせた言葉であります。神を知らなかったら、口はかかる罪をおかさなかったでありましょう。また、魂は飢えがかわくことなく、狼のようにむさぼることをしなかたでしょう。神の言は、食えば食うほど、それに応じて空腹は一層はげしくなり、私は魂の飢餓を満たすためには、隣人を捨て、友人を食い物にし、愛するものを死に渡すことさえ辞さないでしょう。世界をほろびにわたすことも、あえて辞さなかったでしょう。』
> と書かれていますが、幸か不幸か、私は神の言に対して、これほどの飢餓を感じたことはありません。このような思いは、ハンセン病で視力を失い、更には皮膚の感覚さえも奪われていく人になら分るものなのでしょうか。
>いずれにしろ、ここでは松本さんは自己本位になった熱心な信仰の恐ろしさを描いていると思います。そして、ここでは、自分の信仰が「絶対化」されてしまっていることが問題なのであり、それを否定・相対化される必要があったのだと思いますがいかがでしょうか。仰る通りです。自己の相対化ということこそ、真の「絶対」を自覚しなければあり得ぬことですから。絶対的信仰というのは、相対的信仰に「対立」して、それを最終的に無価値にするようなものではなく、結局はそれを新に活かし完成させるものであると思います。
> 『松本さんが聴いた関根正雄の講義では、「神の義が講じられイエスの十字架がさし示めされ信仰がもとめられるかわりに、信仰がとりさられることが求められた」。その講義には多くの人が躓いたが、松本さんにとっては、それこそが救いをもたらすものであったという逆説的な、しかし厳然たる事実が語られている。』と言われていますが、このような松本さんの信仰体験は、どのように受け止めるべきなのでしょうか。解る人にだけ解ってもらえば良いというものではないような気がします。私も又、旅人さんと同じく、「解る人にだけ解ってもらえば良いというものではない」と考えています。関根正雄は「無信仰の信仰」とか「絶望的信頼」という言葉を使って、「預言と福音」という伝道誌で十字架の信仰を語りました。それは当初、無教会の多くの信徒にとってさえ、あまりに逆説的であって、理解しがたいものであったようです。
> しかし、この受動的信仰は、非常な危機を孕んでいると思います。つまり、信仰の弛緩という危機ですが、松本さんには、そのような危機が現実化することはなかったようですね。旅人さんが「非常な危機」ということで何を意味しておられるのかは、良く分かりませんでしたが、「弛緩」するような信仰は、私の理解するところでは、相対的な信仰です。松本さんが、十字架のイエスの信仰によって語るものは、そういう「我々の側でいうところの信仰」ではない。その信仰は、「弛緩したり強められたりする」ようなものではなく、そういう相対的なものを絶対否定する十字架の信仰です。
>松本さんの自治会再建への取り組みは、自分の属する集団の中で十字架を負うということではなかろうかとも思いますが、いかがでしょうか。政治というものは、本質的に相対的な事柄の中で動きます。これに対して、「十字架を負う」ということは、事柄の根源に遡って、ラジカルに発言して行動することを求めます。
「あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」松本さんにとって、囚われ人に解放を告げるこの聖句が、そのまま、敗戦直後の日本へのメッセージとなる。米国も又、広島長崎への原爆投下という大量殺戮を犯した戦争犯罪の責任は決して免れるものではないが、米国の日本に果たした歴史的役割は、嘗て、キュロス王がユダヤ民族に果たした役割と類比的であって、結果的には、迫害され抑圧されたものに解放の福音をあたえることととなった。治癩薬がもたらされ、選挙権と人権を保障する憲法が制定されたことによって、療養所に隔離されたものに自由への希望が生まれた。しかしながら、閉鎖的な隔離医療から、解放医療への転換にともなう混乱状況の中で、療養者の「自由」を妨げているものが厳然としてある。それは何であるのか、というのが松本さんの問である。
「彼のあやまちを指摘することは監房で首を縊って死んだものや、監督の下でうらみをのんで世を去っていった先輩に対して、残っている私たちの義務でもある。自由の行き過ぎと、光田の隔離政策を礼讃する反動的な人たちの動きに対して、私たちは警戒し、自由を守らねばならない」文中に、シュワイツアーの名前が出てくるのは、おそらく、光田を「シュワイツアー以上の偉人」として顕彰した内田守のことを念頭においているのであろう。
青空は一時的なもので、台風の目の中なのである。こうした中で、われわれは、自由を奪うものは誰か、自己に問い続け、その答えを求めなければならない。という言葉でこのエッセイは締めくくられている。
霊魂は、元来不死のものであるかどうか、これは基督教が論じる所ではない。基督教は、ただ罪を犯した霊魂が死んだものであることを伝える。彼がもし元来不死の者であったとしても、彼は罪を犯したことにより死んだ者である。彼がもし生まれながらにして不朽の性を具(そな)えていない者であるとしても、彼は罪を避けることによって不死の者となる特権を有する者である。問題は、滅、不滅の問題ではない。滅びようと思うか、滅びないようにしたいと思うかの問題である。本然性の問題ではない。可能性の問題である。基督教が哲学と異なる点はここにある。哲学が人を究めようとするのに対して、基督教は人を救おうとする。哲学者にとっては研究の材料である人類は、基督教にとっては、「憐憫の器」(ローマ人への手紙§9:23より)であるのである。基督教は、更に伝えて言う。不朽は、ただイエス・キリストにおいてだけあると。「唯ひとり不死を保つ者(Iテモテ§6:16)」と。また、「御子を持つ者は生命を持ち、神の子を持たぬ者は生命を持たず(Iヨハネ§5:12)」と。また、「イエス言ひ給ふ、『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん』(ヨハネ傳§11:25)」と。(「聖書の研究」明治43年(1910年)9月10日号より)現代の聖書學では、聖書にギリシャ的な霊魂不死の思想がないことは常識であるといっても良いが、そうであるからといって、聖書は「霊魂」の存在を否定したり、「不死」を否定したりするわけではありません。それどころか、「霊魂」への配慮を以て生きること、「永遠の生命」に生かされる事こそ聖書の核心の教えです。聖書は「身を殺して魂を殺し得ぬもの」を恐れるに足らぬものとし、「不滅」すなわち「永遠の生命」に生きることこそ人間にとってもっとも大切なことと教えています。
新約聖書の背景の時代には、労働者の一日の賃金が1デナリ(=1デナリオン=1ドラクメ)であり、1レプタ(=レプトン)は、その128分の1の価値と聞いています。そして、イスカリオテのユダがイエス様を売り渡した価格である銀貨三十枚は、当時の奴隷に付けられた値段だとも聞いています。すると、人間の「命の代価」が、2レプタだというお話をどのように解釈すべきか、疑問に感じます。また、その一方で、関根先生の詩篇釈義の中の「魂の値は高すぎて人が神にそれを払うことは到底できない」と矛盾するように思うのですが、いかがでしょうか。「命の代価」つまり「命の値段」は、貧しいものの場合は僅かな金額、2レプタにすぎないかのごとく扱われます。こういう社会的不正義に満ちた現実が一方にある。他方において、ひとりひとりの「命の価値」あるいは「命の重み」は本来、値段の付けられないほど貴重なものである。もしあえて値段を付けるならば、無限大とでもいうほかない。--私は、そのように理解しましたので、とくに論理的な矛盾は感じませんでした。
私には、人間の命が2レプタの価値しかないと感じられた松本さんの置かれた立場が、どれほど悲惨なものであったかが伝わって来るように思えました。全く同感です。「倶会一処」などの資料によりますと、昭和24年ころの園内の作業賃は、日給で10円程度。当時は牛乳一合が10円という事ですから、一日働いても、牛乳一本分にしかならなかった。入所者達は家郷を捨て肉親と絶縁するものが多かったので、彼等は、僅かな作業賃を蓄えて、自分たちが死んだときの葬式や供養にあてていたとのことです。松本さんの「小さき声」を改めて読んでみますと、彼が、自分を寡婦と同じ立場に置いていることが良く分かりました。
18号では、「訓練」の部分、特に渥美さんに対して、「私は彼に向かって、心の中で叫びました。「叩け、もっと叩け、その音が道となって開かれるまで、叩け」。渥美が迷った同じ道で私も迷っているのです。しかし、渥美の背後には私が立っていましたが、私の背後に立ち、私を見守り助けてくれるものは誰か。」という個所が印象的というか、感動的でした。
「レプタ二つは、やもめの命の代である。それがなければ生きることはできない。なんと貧しく、そして、小さな命だろう。やもめはレプタ二つで買い取られた肉の奴隷である。やもめと同じく、人はみなレプタ二つの奴隷である。たとえ巨万の富を持っていても、その人のレプタ二つに変更はない。詩人は次のように述べている。ここで「命の代」という言葉が使用されているが、これは多くの口語訳聖書では「生活費」と訳されている言葉である。参考までに、ルカ傳21章の該当箇所の共同訳を挙げておこう。
「たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである」(詩篇49・11)
レプタ二つは死が人間につけた市価である。やもめはレプタ二つの自己に絶望しながら、同時にそれに仕えなければ生きることが出来ない。これは預言であるが、人間はこの預言の中に生きている。やもめはこの預言の自己、レプタ二つをさいせん箱に向かって投げ込むのである。
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」「生活費」という訳語は分かりやすいし、貧しい寡婦が、生活費を全部献金したと言うことをイエスが讃えたという話も周知の物語であるが、私は、この箇所を、松本さんのように、「いのちの代」と読む読み方のほうに、より深き意味を感じた。
イエス目を挙げて、富める人々の納物(をさめもの)を、賽銭箱(さいせんばこ)に投げ入るるを見、また或る貧しき寡婦(やもめ)のレプタ二つを投げ入るるを見て言ひ給ふ、「われ實(まこと)をもて汝らに告ぐ、この貧しき寡婦(やもめ)は、凡ての人よりも多く投げ入れたり。彼らは皆その豊なる内より納物(をさめもの)のなかに投げ入れ、この寡婦はその乏しき中より、己が有てる生命の料(しろ)をことごとく投げ入れたればなり」さて、口語訳で単に「生活費」と訳されている言葉は、「己が有てる生命いのちの料(しろ)」と訳されている。「小さき声」の筆記者は、おそらくこの「命の料」を「命の代」と書いたのであろう。この場合は、単に「生活費」という意味だけでなく、「生命の代価」というもう一つの意味が重ねられている。
地上の裁判では死罪の場にも死一等を減ぜられ、賠償金を出して死を免れることもできるが、最後の死に対してはそうはいかない、死の力から免れるために死の支配者である神に賠償金を払うことは出来ない、と(詩人は8節で)いう。その理由として、9節で、魂の値は高すぎて人が神にそれを払うことは到底できないからだ、という。寡婦の献金の説話は、日本では「貧者の一燈」という仏教説話と対比せられ、富めるものの「万燈」よりも貧しいものの「一燈」のほうが「功徳」が大きいというように解釈されている。