歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

東條耿一作品集 「いのちの歌」 解題2

2009-09-05 |  文学 Literature

我々の詩人は、昭和十一年九月より、ペンネームを東條耿一とあらためて、それ以後は、基本的にはこの名前で詩の創作活動を続けた。また、北條を通じて外部の文壇とも繋がりを得て、しばらくの間三好達治から詩作の指導を受け、「四季」「文学界」といった詩誌や文芸誌に彼の詩が掲載されるようになった。東條耿一の三好に対する傾倒ぶりは、昭和十二年正月の「山桜」に投稿した随筆「初春のへど」に現れている。

この随筆は、療養所で文藝活動を続けていくことの困難、そしてさまざまな二律背反に苦しむ東條の姿を浮き彫りにしているが、同時に、怨恨や復讐としての文学ではなく、「義務としての文学」を志したいという東條の文学観も語られている。「権利」ではなく「義務」という言葉を使うところに戦前の詩人であった東條の面目が現れているが、そこでいう義務とは、療養所の管理者や一般読者に対する義務ではなく、あくまでも自己自身に対する義務であり、自分が書きたいことを書くのではなく、どうしても書かなければならないことを書き残してから死を迎えたいと言う意味であろう。

 昭和十二年に病床にあった北條民雄に、東條耿一は「樹々ら悩みぬ」という詩を捧げている。この詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「こころの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている―その二律背反的な苦しさが詠われている。

北條民雄は、療養所からの脱出を試み、各地を彷徨したのちに療養所に戻り、昭和十二年正月より重病棟に入った。それまでの彼の苦しみに満ちた試みを、仮に「水平的な脱出」というならば、それは不可能であった。日本の何処にも受け容れてくれる場所はなく、彼は柊の垣根のなかに舞い戻らねばならなかった。この苦い挫折の思いは、外出許可をもらっても決して故郷には帰らなかった東條自身にもあてはまるだろう。彼らが安住できる場所は何処にもなかったのである。

水平的な意味での「脱出」が閉ざされた場合、ひとは垂直的な「超越」をめざす。東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教の復帰という具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。

 昭和十六年の「山桜」三月号に載った「落葉林にて」という東條耿一の詩は、同じ年の「聲」一月号に載った手記「癩者の父」とあわせて読むべき作品だろう。かつて父親から剃刀を渡され自害することを勧められたこと、また復生病院へ行く途中、この父親と心中したかもしれないというようなことなど、想像を絶するが如き状況を生きてきた父と子の姿が「癩者の父」では、ありしままに綴られている。そういう極限的な状況を嘗て共有した父が胃癌に苦しんでいるという報せを聴き、自分自身もまた死期を予感しつつあった東條は、その父に対する情念を、「落葉林にて」という詩では、誰に憚ることもなく吐露している。

胃癌に苦しみ「心むなしくやみたまふ」父に対して、救いの手を差しのべることが出来ない自分を、「親不孝者」として詰ること、そのかぎりない悔恨が、落葉のなかに埋もれていく父の幻影として、あるいは落葉林を吹きすさぶ風のなかに聴きとめた呻吟する父の声によって示されている。「癩者の父」の末尾に置かれた短歌二首は、この執拗な幻影・幻聴を鎮める祈りの言葉のように思われる。そこで、東條は自分のみではなく、父の魂が遂に平安を得ていないこと、自分が何一つ父のためになることができぬうちに父がなくなることがもっとも気掛かりであった。この肉親の父への切々たる思いを抜きにして、「癩者の父」に始まる東條の晩年の手記が、なぜ「聲」誌に投稿されたかは理解できないであろう。 

遺稿となった詩「訪問者」のテーマは「父なる神」と子との和解であるが、その「父」のイメージには、東條を受洗した神山復生病院のレゼー神父、また全生園の重病棟を定期的に訪問して死を迎えんとする患者の世話をしたコッサール神父など、異国に骨を埋める覚悟で献身的に奉仕したカトリック神父たちも含まれているようだ。

東條の妹の渡邉たつ子は、カトリック愛徳会の会誌「いづみ」(1954)のなかで、東條とコッサール神父にかかわる次のようなエピソードを伝えている。

生前、兄はよく次の話をした。ある日、文学をやる友達と一緒に神父様の前で兄はこんなことを言ったそうである。「キリストが十字架に犠牲になろうが、どんな死に方をしようが、私には別にかかわりのないことである。」神父様は呆れて兄をじつとみつめていたが、「あなたの云われることが眞實だったら、私がはるばる日本に宣教師として来ていることは何の意味もないことになるのです。」兄はこのことを述懐するごとに、「俺はあんなおそろしい冒涜の言葉を吐いて、よくこの口がまがらなかったと不思議な位だ」と冷汗三斗の思いのようだった。

東條耿一がキリスト教信仰に復帰したことを示す「訪問者」という詩のなかでとくに印象深いのは、冬の寒い日の戸外で佇んでいた「父なる神」に暖をとってもらうために、自分が安逸を求めて坐っていた椅子と、自分がもっとも重んじていた過去の作品や大切にしていた書物を炉にくべるという箇所であろう。そこには、非キリスト教的な文学と訣別して、信仰の道を一筋に歩もうとする彼のひたむきな決意が認められよう。実際、昭和十六年以降は、東条の作品は山桜の文藝欄ではなく、カトリックの機関誌「聲」に寄稿したもののほうが主体となっている。ただし、晩年の東條は詩作そのものを断念したわけではなく、独自の優れた宗教詩を書き残している。

昭和十七年七月の「山桜」に掲載された「病床閑日」という詩は、遺稿「訪問者」を別にすれば、東條の最後の詩であるといってもよい。この詩の最後に出てくる、「いのちの歌」という言葉こそ、北條民雄が嘗て「いのちの友」と呼んだ東條耿一の晩年の作品の精神をもっともよく表すものではないだろうか。東條はこの詩が発表されてから二ヶ月後に亡くなったが、結核性の腹膜炎を併発し、非常に体調が悪い時期であった。この詩は、そういう苦しい病床の中で、比較的、病が小康状態であったときに詠まれたものである。この詩で、「新しい眼を瞠る」という箇所に注目したい。作者は、もはや「古い眼」で外なる自然を見ているのではない。そこで「私を超え、自然を超えた」声、鳥たちの囀りを聴いていると、それは、もはや「束の間の消えゆくもの」としてではなく、「永遠のいのち」として、そして同時に「私のいのち」として聴かれている。「この草 この緑 この大地」は、この世のものであるが、そこにおいて、「永遠なるもの」が先取されているような、そういう響きがある。

カトリック教会でよく唱えられるアッシジのフランシスの「平和の祈り」には、様々なバージョンがあるが、あるバージョンでは「永遠の生命を得る」ではなく「永遠の生命に目覚める」となっている。眠りから覚めて、新しい眼を瞠るとき、どういう情景が見え、どのような聲がきこえるのか。それは決してまだ訪れない未来のこととしてのみ語られているのではない。そういう未来は、必ず訪れるべきものとして、病床の中にいる東條の「新しい眼」において、直接に経験されている―そういう強い印象をこの詩は読むものに与えるのである。

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