いまどきの横柄
shiroさんは、今の日本人は「へりくだりの精神」を忘れており、「横柄型システム」によって社会はまわっている、これを反省しろと批判する。(この記事はCHU CHO--!!!へのトラックバックです。ちょっと長くなりますが、どうして日本人が傲慢になったのか、それもアメリカ型の傲慢ではなく、もっと情けない無自覚・無責任タイプの傲慢となったのかについての試論です。)
本当にもっともだ。
特にここ10年ほどの変化として、アメリカ型の能力をアピールする習慣が広まった。それも、自分の実際の能力よりも数割くらいは過大評価して自己申告しなければならない。会社での習慣と価値観は、やがて日常世界をも侵食した。
また、やはりここ十年、「自己責任」または「リスクをとれ」という言葉が、マスコミ等を通じて喧伝され、人口に膾炙した。あたかも人の口が会社になったかのようだった。
それは、個人を過大評価する価値観の押し売りだったのではないだろうか? これらの言葉は、必要な相互扶助を否定し、互いが複雑に係わり合いつながっている世界の現実を単純化してみせる。ネイティブ・アメリカの格言・「ミタケ・オアシン(すべてはつながっている)」といった発想は、「何でも人のせいにするなよ!」という勇ましいセリフとともにかき消された。
(なお、これらの言葉は、ネオリベを推進する勢力が、意図的に集中的に流した可能性も考えられる。)
長期にわたる抵抗は苦手だと言われる日本人のこと、ほとんど反抗しないまま、内申書の点数を稼ぐ感覚で「責任をとれ!」と、失敗の理由を語る個人に攻撃をしかける。半分は点数稼ぎ、あと半分は嗜虐的な快楽によって、すさまじい表情や口調や目つきで精神的な攻撃が加えられる。
犠牲になるのは、社会的な弱者だ。母子家庭出身者、障害者、フリーターやNEET、はては奨学金利用者にいたるまで、攻撃がしかけられる。
近代の傲慢?
西洋近代文明は、個人の自我の確立をうながす。それは時に自信過剰・自意識過剰・傲慢といった害悪を生む。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。自我を持つのは大切なことだ。だが、やりすぎには気をつけよう。自我過剰は自我がないのと同じかそれ以上に始末が悪い。
本来、このことは、自我を形成する十代半ばごろに、自我の大切さとともに伝えられなければならない人類の文化遺産だ。
だが、たいていの中学校や高等学校では、こういったことを教えない。塾でも家でもそうだ。
たまたま私の場合は登校拒否をした。親の縛りがきつかったため、行動の自由はなかったが、思考の自由はあった。本を読むことは比較的自由にやらせてもらった。
図書館で、イリイチの脱学校論やフーコーの監獄批判、それにアリエスの子どもや死の歴史といった近代批判を入り口に、ニーチェやドストエフスキーを読むこともできた。(といっても全部日本語だったから、大したことはないのだけれど。とりあえず目を通したということで。)
だが、「学校と家と塾のトライアングル(中森明夫)」に囲い込まれた(1)登校受容の人たちにはーーつまり大多数の日本人、なおかつ日本人らしい日本人ーーには、こういった示唆はない。
建前では「自我の確立」が大切で、行き過ぎには注意しないと大変なことになるぞ、という警告を聞いたことがないのだ。それは何も偉そうに説教をするということではない。「こんな風に傲慢なことでは困る」「自分にとっても他人にとってもマイナスだ」といった会話や議論をすること自体がむつかしい。また、内なる声とでもいうのか、自分自身で気づく・悟る・勘づく機会もない。
わたしはどうしてできるのか
アジアは西洋に対する東洋として他者に規定されることによって自己を形成してきた。なので当然、西洋の個人的自我主義とは距離を置いている。
ヨーロッパは、Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)に象徴される自我主義の発祥の地だ。しかし、だからこそ、自我主義の行き過ぎへの気づきのうながしがある。また、自我主義に対する解毒剤を用意してきた。ひとつは厚い歴史と伝統によって。もうひとつは近代が徹底するがために、近代批判を許容できるふところの深さによって。
アメリカは悲惨だ。アジアの決して近代ヨーロッパに包摂されない独自性はなく、ヨーロッパのもつ反省や歴史の厚みがない。あるのはカネ。軍事力。MTVに代表される味気なさと安っぽさ、ハリウッド映画に見る単純さと善悪二元論。民主主義の堕落した形態としての反理性主義。どこにも自意識過剰を悲しんだり裁いたりできる余地はない。
そして、アメリカの衛星国のような今の日本はさらに悲惨だ。以前はーー記憶をたどると80年代全般まではーー北東アジア文化圏としての美徳があった。今に比べれば、謙遜とか遠慮とか奥ゆかしさといった美徳があった。相手の遠慮や謙虚さが分からないと「人の気持ちが分からない(なんてダメだね。)」「そういうニュアンスで言っているのじゃないやろ。」と注意する人もいた。それが分からないのは「マヌケ」だったり「鈍感」だったりした。
ところが、今は違う。特にいい学校や会社に在籍している「勝ち組」の人たちには、そういった謙遜の美徳は通用しない。そういった言葉や身振りを真に受けて「ヤル気も能力もないのか」「あなたは、今の状況が分かっていない! 努力する気もないんですか!」とハイになって絶叫する(実際、ある会社とNPOで、謙遜をしていた人への侮辱のセリフとして聞いた)。
アメリカ以上にアメリカ的になってしまった悲しい日本人。しかも、アメリカ型の試行錯誤をうながす教育と文化のシステムの中で育っていない。なので、真の自我の確立さえも怪しい。
小さいころから、目先の点数稼ぎだけではなく、人と交わったり、直接世界と触れたりすることは、収容所閉じ込め型の日本の教育・文化環境においては難しい。いろんな人種や国籍や階級の人間との、出会いと別れを経験しながら育つ。そんな当たり前のことさえ、日本では「受験に役に立たない」のである。奇妙にもそれは通常「勉強」とも「教育」とも呼ばれない。奇妙なことに、幼いころより一貫のよい幼稚園か小学校から始まってずっとよいコースの教育を受けたとか、遅れても中高一貫、または高大一貫といった環境にいたもの、あるいは引越し・転校を経験しないもの、一人暮らしの経験がないもの……要するに、純粋培養度が高くなればなるほど、自我とか人格といったものができていない傾向がある。
そのかわり、宮台真司も言うように、プライドが肥大している。具体的な根拠もなく「自分(たち)は生まれつき優秀だ」「自分(たち)ほど優れた個人(グループ)はこの世にいない」と思い込んでいる。
少しでもその観念が揺るがされるシチュエーションにおかれるとパニック状態になってしまう。怒鳴る、叫ぶ、被害者意識でいっぱいになっておおげさに騒ぎ立てる、人を中傷しワナにかけ、周囲を抱き込んで孤立させて、相手がつぶれるか、その集団への参加を一切断念するまで執拗に攻撃する、などなど。とりわけ、自意識過剰を指摘されたときのすさまじいキレ方は筆舌に尽くしがたい。
わたし自身は体験をしたことがないのだが、その中ではプライドの万能をあおる人格改造セミナーのような環境にあるのだろうか? (このへんの事情をご存知の方は、ぜひTB・コメントしていただきたい。)
日本における「文化的にレベルが高いこと」
おかしなことに、その名門幼稚園~小学校の文化、あるいは中高一貫または高大一貫の文化が、日本においては大きく価値付けられている。そして、その他のタイプの学校の人間も、知らず知らずのうちに影響を受ける。あるいは、文化レベルをあげることによって上流・上層に食い込もうとする者は、積極的に模倣する。そのハビトゥス(ブルデュー)を嫌えば不利になる。批判すればルサンチマンだと揶揄される。そのような環境のなかでは、当然の流れだ。
その結果、アメリカよりも薄っぺらな傲慢がまかり通るようになったのが、現在の日本社会ではないだろうか。アメリカは、よくも悪くも個人を肯定する。コギト・エルゴ・スムをベタでやっている。
一方、日本ではどうだろうか。ちゃんと個人の自我を育てられない。掛け声とはうらはらに、個性や自我を罪悪視してつぶしたりゆがめたりしてばかりいる。つぶされれば一人前、歪められたら
大人っぽい、と条件付で「承認」される世界だ。
そこで、近年の流行だからとアメリカ流を演じる。ハリウッド映画などを見て表面だけを芝居する。これでは、自由な自我にともなう責任感は育まれない。互いのエゴの調整方法も洗練されない。エゴの暴走を防ぐための諸装置ーー謙遜の美徳、自意識過剰批判、自分たちで適当な規則や作法をつくることーーなども機能しない。
日本のなかのアメリカ流傲慢主義
共同体主義が実際の共同体よりも共同体らしく振舞おうとするためにわけのわからない暴走をするように、アメリカ流個人自我主義者は、実際のアメリカ人よりも傲慢に振舞う。それがshiroさんのいう「横柄型システム」を生み出す。
そこでは、ホームレスへの喜捨さえも、人を甘やかしてスポイルする悪徳となる。
さらにやっかいなことに、アメリカ流の個人自我主義者は、共同体主義者でもある。だから、自分たちへの異論や反論に耳を貸さない。「みなと違って自立できないフリーターなんて、オレが村のメンバーじゃない。だったら、どんなにひどいことをしても許される」という共同体的慣習に走る。だから、正社員がフリーターを責めるときには、情け容赦ない。「お互い大変なんだから」「この人が半失業していてくれるおかげで今日の自分の地位があるのかもしれない」「相手は自分の予想以上の苦労をしているのだろう」といった「武士の情け」はどこにもない。
「あなたは自分を磨く努力をしていない」「ロクに働いていないくせに」「フリーターの人って勉強する気も仕事やる気もないんでしょう」「お前ら、会社に遊びに来ているんだろう」「(半ば嫉妬するかのように)何でフリーターなんてやっているんだ! いろいろな会社を見てみたいってか!(軽蔑感いっぱいにはき捨てるように)」
上記はすべて、職場で正社員から言われた侮蔑のセリフである。
脱米入欧・脱米入亜
この醜く困難な状態を脱却するには、
Ⅰ.きちんと自我を作る
Ⅱ.そのうえで、自意識過剰に気をつける
この2プロセスが必要だ。
まず、好きなことを精一杯やって自我とか自意識を育てること。個性・オリジナリティ・ユニークであることをそれ自体悪徳視したり、嫉妬で足を引っ張ってつぶしたりしないこと。
それから、自意識過剰の危なさを認識し、注意すること。もしすでに自意識過剰になっていた場合、それを収めること。
繰り返しになるが、日本の場合はⅠもできていない人たち、一度Ⅰが形成されても十代半ば以降メチャクチャに崩されてしまった人たちが大多数を占めている。そうでない人は統計的に誤差の範囲でしか存在できないようだ(今の日本の消費税率みたいなもの)。
そういう人たちにⅡを説いてた場合、ますます無責任になったり腑抜けになったりするリスクもあるので注意が必要だ。
しかし、ⅠとⅡをクリアできれば、というよりも、クリアすることを妨げない環境ができれば、ahiroさんの言う「横柄型システム」に歯止めがかかるのではないだろうか?
実際、ヨーロッパではアメリカー日本型の横柄型システムに歯止めをかけようとしている。国際政治・経済・軍事の力関係という面も関連してくるのだが、やはり当地の文化的な洗練がその基礎を提供しているのではないだろうか。
日本は、単純化され中途半端化されたヨーロッパの亜種としてのアメリカ文化の亜流をやめるべきだ。安っぽい薄っぺらい傲慢をやめたほうがいい。そのためには、何でもアメリカ流に流されない自我構築と、自我過剰への警戒の両面が必要だ。したがって、先にあげたⅠとⅡを保障する教育と文化の環境が必要なのである。そうすれば、単に惰性や奴隷根性ではない、より上質の謙遜の美徳が手に入るだろう。その文化は、近隣アジア諸国との連携を深める際、触媒となるだろう。
註
(1)登校拒否が子ども時代における国家総動員への拒否だとすれば、学校に行く子どもやその状態は、国家総動員への受容、つまり登校受容である。
なお、登校拒否という語を否定的にのみとらえる立場もある。わたしは、それを肯定的な意味に読み直す立場を支持している。古くは黒人公民権運動の「ブラック・イズ・ビューティフル」、ウーマンリブの「女は強い」に見出せる発想である。
なお、ブラック・ワールド今日の出来事において、reservationistとrevisionistとの区別が紹介されている。ニガーという語は、必ずしも侮蔑語ではなく、ヒップ・ポップにおいてはブラック・コミュニテイの連帯を示しているとの指摘である。
>ある文化史家は、わけてもニガーということばの使用に関し、その使用を止めることで差別を是正>しようとする行為をreservationistと呼び、意味を変えて使うことで侮蔑的意味合いを内から穿と>うとする行為をrevisionistと呼ぶ。
この区別に従えば、わたしは登校拒否という語の否定的意味合いを内側から変えていこうとするrevisionistということになる。
shiroさんは、今の日本人は「へりくだりの精神」を忘れており、「横柄型システム」によって社会はまわっている、これを反省しろと批判する。(この記事はCHU CHO--!!!へのトラックバックです。ちょっと長くなりますが、どうして日本人が傲慢になったのか、それもアメリカ型の傲慢ではなく、もっと情けない無自覚・無責任タイプの傲慢となったのかについての試論です。)
本当にもっともだ。
特にここ10年ほどの変化として、アメリカ型の能力をアピールする習慣が広まった。それも、自分の実際の能力よりも数割くらいは過大評価して自己申告しなければならない。会社での習慣と価値観は、やがて日常世界をも侵食した。
また、やはりここ十年、「自己責任」または「リスクをとれ」という言葉が、マスコミ等を通じて喧伝され、人口に膾炙した。あたかも人の口が会社になったかのようだった。
それは、個人を過大評価する価値観の押し売りだったのではないだろうか? これらの言葉は、必要な相互扶助を否定し、互いが複雑に係わり合いつながっている世界の現実を単純化してみせる。ネイティブ・アメリカの格言・「ミタケ・オアシン(すべてはつながっている)」といった発想は、「何でも人のせいにするなよ!」という勇ましいセリフとともにかき消された。
(なお、これらの言葉は、ネオリベを推進する勢力が、意図的に集中的に流した可能性も考えられる。)
長期にわたる抵抗は苦手だと言われる日本人のこと、ほとんど反抗しないまま、内申書の点数を稼ぐ感覚で「責任をとれ!」と、失敗の理由を語る個人に攻撃をしかける。半分は点数稼ぎ、あと半分は嗜虐的な快楽によって、すさまじい表情や口調や目つきで精神的な攻撃が加えられる。
犠牲になるのは、社会的な弱者だ。母子家庭出身者、障害者、フリーターやNEET、はては奨学金利用者にいたるまで、攻撃がしかけられる。
近代の傲慢?
西洋近代文明は、個人の自我の確立をうながす。それは時に自信過剰・自意識過剰・傲慢といった害悪を生む。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。自我を持つのは大切なことだ。だが、やりすぎには気をつけよう。自我過剰は自我がないのと同じかそれ以上に始末が悪い。
本来、このことは、自我を形成する十代半ばごろに、自我の大切さとともに伝えられなければならない人類の文化遺産だ。
だが、たいていの中学校や高等学校では、こういったことを教えない。塾でも家でもそうだ。
たまたま私の場合は登校拒否をした。親の縛りがきつかったため、行動の自由はなかったが、思考の自由はあった。本を読むことは比較的自由にやらせてもらった。
図書館で、イリイチの脱学校論やフーコーの監獄批判、それにアリエスの子どもや死の歴史といった近代批判を入り口に、ニーチェやドストエフスキーを読むこともできた。(といっても全部日本語だったから、大したことはないのだけれど。とりあえず目を通したということで。)
だが、「学校と家と塾のトライアングル(中森明夫)」に囲い込まれた(1)登校受容の人たちにはーーつまり大多数の日本人、なおかつ日本人らしい日本人ーーには、こういった示唆はない。
建前では「自我の確立」が大切で、行き過ぎには注意しないと大変なことになるぞ、という警告を聞いたことがないのだ。それは何も偉そうに説教をするということではない。「こんな風に傲慢なことでは困る」「自分にとっても他人にとってもマイナスだ」といった会話や議論をすること自体がむつかしい。また、内なる声とでもいうのか、自分自身で気づく・悟る・勘づく機会もない。
わたしはどうしてできるのか
アジアは西洋に対する東洋として他者に規定されることによって自己を形成してきた。なので当然、西洋の個人的自我主義とは距離を置いている。
ヨーロッパは、Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)に象徴される自我主義の発祥の地だ。しかし、だからこそ、自我主義の行き過ぎへの気づきのうながしがある。また、自我主義に対する解毒剤を用意してきた。ひとつは厚い歴史と伝統によって。もうひとつは近代が徹底するがために、近代批判を許容できるふところの深さによって。
アメリカは悲惨だ。アジアの決して近代ヨーロッパに包摂されない独自性はなく、ヨーロッパのもつ反省や歴史の厚みがない。あるのはカネ。軍事力。MTVに代表される味気なさと安っぽさ、ハリウッド映画に見る単純さと善悪二元論。民主主義の堕落した形態としての反理性主義。どこにも自意識過剰を悲しんだり裁いたりできる余地はない。
そして、アメリカの衛星国のような今の日本はさらに悲惨だ。以前はーー記憶をたどると80年代全般まではーー北東アジア文化圏としての美徳があった。今に比べれば、謙遜とか遠慮とか奥ゆかしさといった美徳があった。相手の遠慮や謙虚さが分からないと「人の気持ちが分からない(なんてダメだね。)」「そういうニュアンスで言っているのじゃないやろ。」と注意する人もいた。それが分からないのは「マヌケ」だったり「鈍感」だったりした。
ところが、今は違う。特にいい学校や会社に在籍している「勝ち組」の人たちには、そういった謙遜の美徳は通用しない。そういった言葉や身振りを真に受けて「ヤル気も能力もないのか」「あなたは、今の状況が分かっていない! 努力する気もないんですか!」とハイになって絶叫する(実際、ある会社とNPOで、謙遜をしていた人への侮辱のセリフとして聞いた)。
アメリカ以上にアメリカ的になってしまった悲しい日本人。しかも、アメリカ型の試行錯誤をうながす教育と文化のシステムの中で育っていない。なので、真の自我の確立さえも怪しい。
小さいころから、目先の点数稼ぎだけではなく、人と交わったり、直接世界と触れたりすることは、収容所閉じ込め型の日本の教育・文化環境においては難しい。いろんな人種や国籍や階級の人間との、出会いと別れを経験しながら育つ。そんな当たり前のことさえ、日本では「受験に役に立たない」のである。奇妙にもそれは通常「勉強」とも「教育」とも呼ばれない。奇妙なことに、幼いころより一貫のよい幼稚園か小学校から始まってずっとよいコースの教育を受けたとか、遅れても中高一貫、または高大一貫といった環境にいたもの、あるいは引越し・転校を経験しないもの、一人暮らしの経験がないもの……要するに、純粋培養度が高くなればなるほど、自我とか人格といったものができていない傾向がある。
そのかわり、宮台真司も言うように、プライドが肥大している。具体的な根拠もなく「自分(たち)は生まれつき優秀だ」「自分(たち)ほど優れた個人(グループ)はこの世にいない」と思い込んでいる。
少しでもその観念が揺るがされるシチュエーションにおかれるとパニック状態になってしまう。怒鳴る、叫ぶ、被害者意識でいっぱいになっておおげさに騒ぎ立てる、人を中傷しワナにかけ、周囲を抱き込んで孤立させて、相手がつぶれるか、その集団への参加を一切断念するまで執拗に攻撃する、などなど。とりわけ、自意識過剰を指摘されたときのすさまじいキレ方は筆舌に尽くしがたい。
わたし自身は体験をしたことがないのだが、その中ではプライドの万能をあおる人格改造セミナーのような環境にあるのだろうか? (このへんの事情をご存知の方は、ぜひTB・コメントしていただきたい。)
日本における「文化的にレベルが高いこと」
おかしなことに、その名門幼稚園~小学校の文化、あるいは中高一貫または高大一貫の文化が、日本においては大きく価値付けられている。そして、その他のタイプの学校の人間も、知らず知らずのうちに影響を受ける。あるいは、文化レベルをあげることによって上流・上層に食い込もうとする者は、積極的に模倣する。そのハビトゥス(ブルデュー)を嫌えば不利になる。批判すればルサンチマンだと揶揄される。そのような環境のなかでは、当然の流れだ。
その結果、アメリカよりも薄っぺらな傲慢がまかり通るようになったのが、現在の日本社会ではないだろうか。アメリカは、よくも悪くも個人を肯定する。コギト・エルゴ・スムをベタでやっている。
一方、日本ではどうだろうか。ちゃんと個人の自我を育てられない。掛け声とはうらはらに、個性や自我を罪悪視してつぶしたりゆがめたりしてばかりいる。つぶされれば一人前、歪められたら
大人っぽい、と条件付で「承認」される世界だ。
そこで、近年の流行だからとアメリカ流を演じる。ハリウッド映画などを見て表面だけを芝居する。これでは、自由な自我にともなう責任感は育まれない。互いのエゴの調整方法も洗練されない。エゴの暴走を防ぐための諸装置ーー謙遜の美徳、自意識過剰批判、自分たちで適当な規則や作法をつくることーーなども機能しない。
日本のなかのアメリカ流傲慢主義
共同体主義が実際の共同体よりも共同体らしく振舞おうとするためにわけのわからない暴走をするように、アメリカ流個人自我主義者は、実際のアメリカ人よりも傲慢に振舞う。それがshiroさんのいう「横柄型システム」を生み出す。
そこでは、ホームレスへの喜捨さえも、人を甘やかしてスポイルする悪徳となる。
さらにやっかいなことに、アメリカ流の個人自我主義者は、共同体主義者でもある。だから、自分たちへの異論や反論に耳を貸さない。「みなと違って自立できないフリーターなんて、オレが村のメンバーじゃない。だったら、どんなにひどいことをしても許される」という共同体的慣習に走る。だから、正社員がフリーターを責めるときには、情け容赦ない。「お互い大変なんだから」「この人が半失業していてくれるおかげで今日の自分の地位があるのかもしれない」「相手は自分の予想以上の苦労をしているのだろう」といった「武士の情け」はどこにもない。
「あなたは自分を磨く努力をしていない」「ロクに働いていないくせに」「フリーターの人って勉強する気も仕事やる気もないんでしょう」「お前ら、会社に遊びに来ているんだろう」「(半ば嫉妬するかのように)何でフリーターなんてやっているんだ! いろいろな会社を見てみたいってか!(軽蔑感いっぱいにはき捨てるように)」
上記はすべて、職場で正社員から言われた侮蔑のセリフである。
脱米入欧・脱米入亜
この醜く困難な状態を脱却するには、
Ⅰ.きちんと自我を作る
Ⅱ.そのうえで、自意識過剰に気をつける
この2プロセスが必要だ。
まず、好きなことを精一杯やって自我とか自意識を育てること。個性・オリジナリティ・ユニークであることをそれ自体悪徳視したり、嫉妬で足を引っ張ってつぶしたりしないこと。
それから、自意識過剰の危なさを認識し、注意すること。もしすでに自意識過剰になっていた場合、それを収めること。
繰り返しになるが、日本の場合はⅠもできていない人たち、一度Ⅰが形成されても十代半ば以降メチャクチャに崩されてしまった人たちが大多数を占めている。そうでない人は統計的に誤差の範囲でしか存在できないようだ(今の日本の消費税率みたいなもの)。
そういう人たちにⅡを説いてた場合、ますます無責任になったり腑抜けになったりするリスクもあるので注意が必要だ。
しかし、ⅠとⅡをクリアできれば、というよりも、クリアすることを妨げない環境ができれば、ahiroさんの言う「横柄型システム」に歯止めがかかるのではないだろうか?
実際、ヨーロッパではアメリカー日本型の横柄型システムに歯止めをかけようとしている。国際政治・経済・軍事の力関係という面も関連してくるのだが、やはり当地の文化的な洗練がその基礎を提供しているのではないだろうか。
日本は、単純化され中途半端化されたヨーロッパの亜種としてのアメリカ文化の亜流をやめるべきだ。安っぽい薄っぺらい傲慢をやめたほうがいい。そのためには、何でもアメリカ流に流されない自我構築と、自我過剰への警戒の両面が必要だ。したがって、先にあげたⅠとⅡを保障する教育と文化の環境が必要なのである。そうすれば、単に惰性や奴隷根性ではない、より上質の謙遜の美徳が手に入るだろう。その文化は、近隣アジア諸国との連携を深める際、触媒となるだろう。
註
(1)登校拒否が子ども時代における国家総動員への拒否だとすれば、学校に行く子どもやその状態は、国家総動員への受容、つまり登校受容である。
なお、登校拒否という語を否定的にのみとらえる立場もある。わたしは、それを肯定的な意味に読み直す立場を支持している。古くは黒人公民権運動の「ブラック・イズ・ビューティフル」、ウーマンリブの「女は強い」に見出せる発想である。
なお、ブラック・ワールド今日の出来事において、reservationistとrevisionistとの区別が紹介されている。ニガーという語は、必ずしも侮蔑語ではなく、ヒップ・ポップにおいてはブラック・コミュニテイの連帯を示しているとの指摘である。
>ある文化史家は、わけてもニガーということばの使用に関し、その使用を止めることで差別を是正>しようとする行為をreservationistと呼び、意味を変えて使うことで侮蔑的意味合いを内から穿と>うとする行為をrevisionistと呼ぶ。
この区別に従えば、わたしは登校拒否という語の否定的意味合いを内側から変えていこうとするrevisionistということになる。
http://www.katotaka.com/