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大阪府の不登校対策

2005年04月15日 19時07分57秒 | 不登校
メ-ルマガジンの第2号が届きました。以下、転載。

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 大阪府の不登校対策を考える市民連絡会 Mail Magagine
 URL: http://www.geocities.jp/futoko_osaka/
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2005.04.15 Vol.002 ※不定期発行※

※このメールは賛同者の方など、これまで連絡会にご連絡をいただいた方に配信して
います。配信を拒否される場合は、このメールにご返信ください。
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 2月半ばに立ち上げた大阪府の不登校対策を考える市民連絡会ですが、いつのまに
か2カ月も経ち、大阪では桜も散ってしまいました。新年度に入り、府の不登校政策
は具体的に動き出しています……。メールマガジン第2号をお届けします。
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【INDEX】
●府教委との話し合い第2回 4/14
●府知事の動き
●マスコミ報道など
●今後の活動予定
●カンパのお願い
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●府教委との話し合い第2回 4/14
 4月14日、府教委と第2回の話し合いをしてきました。連絡会からは大人9名、子ど
も4名、府教委からは4名(小中学校課、児童生徒支援課)が参加、約2時間にわたっ
て話し合いました。府教委側は4月に機構改変、人事異動があり、今回の参加者のう
ち2名は、新任の方でした。

・半減目標について
 半減目標が当事者に大きな不安を与えたことについては、府教委側は、再度、謝罪
の意を明確にし、「誤解」を解くために府教委の見解を明示するとの話がありまし
た。具体的には、府教委のHP上に見解を掲載する予定とのお話でした。連絡会側か
ら、当事者に見解を届けるためには、記者会見など見解が広く行き渡るような方策を
検討してほしいと要望し、府教委側は「検討する」との回答でした。
 連絡会側からは、半減目標が与えている影響が非常に大きいこと、本当に撤回する
ことはできないのか考えてほしいと、くりかえし伝えました。

・支援協力員制度について
 前回、連絡会は以下9項目にわたる具体的要望を出しました。
(1)協力員の派遣については子どもに決定権があるようにすること。
(2)協力員の言動について、苦情や異議申し立てのできる窓口を設置すること。
(3)制度の目的を学校復帰のみとしないこと。
(4)支援のひとつとして、民間機関の情報を提供すること。
(5)以上の点を盛り込んだ利用手引きを作成し、あらかじめ当該者に渡すこと。
(6)以上の点について市町村、学校、協力員に周知徹底させること
(7)協力員への研修内容や選考基準などを開示すること。
(8)研修プログラムのなかに「当事者の声を聞く」ことを入れること。
(9)当事者からみて信頼できるスーパーバイザーを置くこと。

 このうち、(1)(3)については、前回の話し合いでも「当然のこと」と明言さ
れ、今回も「あくまで子ども・保護者の希望が最優先であることを市町村教委の担当
課には周知徹底している」との回答がありました。また、「人選については慎重を期
し、市町村が責任をもって人選するように指導した」との話がありました。しかし、
その他の点については「検討中」とのことで、現時点で明確な回答はありませんでし
た。連絡会側は、とくに当事者に決定権があることを明示するためには、利用の手引
きや異議申し立ての窓口が必要と、あらためて具体化を求めました。

・個人情報保護の問題について
 府の不登校対策事業では、校内に設置されるケース会議で、不登校児童生徒につい
ての「個人カルテ」が作成されるため、連絡会では個人情報保護の問題を指摘してい
ました。この点について府教委は「保護者・子どもの同意なしに、支援協力員がケー
ス会議に参加することはなく、個人情報を閲覧することもない」との見解を示しまし
た。
 連絡会側からは、そもそも「カルテ」という名称で不登校の子どもについての情報
が書かれること自体に懸念の声もあること、それだけに、その扱いについて不安があ
り、なんらかの明確な規定を設けることを求めました。

・当事者の声は
 府教委からは、前回、子どもたちや親の生の声を聞いて、想像以上に当事者にとっ
て深刻な現実があることを痛感したこと、2週間で112本届いた当事者の声について
は、市町村担当課に話す際にも口頭で引用して伝えたことなど、話がありました。

 府教委側の見解は、前回と大きく変わるものではなく、とくに具体的な要望につい
ては、ほとんど動きはありませんでした。連絡会とは、今後も話し合いを継続してい
きたいとの見解は示しました。
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●府知事の動き
 連絡会では、「不登校半減」を公約に掲げた府知事への面会を要望しております
が、現時点では「教育問題については教育委員会と話し合うべきもの」とのことで、
まったく取り合ってもらえていません。今回の府教委との話し合いでも、なんとか知
事に当事者の生の声を聞いていただきたいと要望しましたが、現在のところ、見通し
は立っていません。今後も、要望は続けていきます。
 また、知事のHPでは、不登校政策について当事者から、たくさんの切実な意見が
あったことを報告していますが、「一人一人異なる事情やご意見を十分に尊重しなが
ら」「さまざまな不登校の原因を取り除き、不登校者数を減らしたいと考えていま
す」との見解を示しています(下記)。
http://www.pref.osaka.jp/j_message/teigen/file/0502.html
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●マスコミ報道など
・4/1発行の『週刊金曜日』「こんなことやってます」のコーナーに掲載されまし
た。
 http://www.kinyobi.co.jp/KTools/konna_pt?d=2005-04-01

・『はらっぱ』(発行:子ども情報研究センター)5月号に掲載されます。
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●今後の活動予定
・知事への面会要求
・府教委との話し合いの継続
・ひきこもり政策について、4月27日に精神保健福祉課と話し合い。
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●カンパのお願い
・カンパをいただいた方、ほんとうにありがとうございます!
 連絡会の活動は収入源がいっさいないなか、印刷費、通信費、交通費などがかかっ
ています。現在、カンパ総額は1万2500円。支出額は3万5000円ほどとなっています。
ぜひカンパをお願いします。

・郵便振替口座 00940-6-297003
・加入者名 不登校市民連絡会

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大阪府の不登校対策を考える市民連絡会
〒537-0025 大阪市東成区中道3-14-15
TEL06-6973-5892/FAX06-6978-6626
e-mail: osaka@futoko.org URL: http://www.geocities.jp/futoko_osaka/
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※配信の停止、アドレス変更などは下記アカウントまで。
mail_magazine@futoko.org

二つのうちの一つ--コミュニティのために

2005年04月15日 01時55分44秒 | 不登校
 近頃時々メ-ルをくださる方がいる。彼は、明治聖上天皇陛下の名のつく組織に勤めながら、なかなかの個人主義者だ。
 彼とのメ-ルのやりとりは、かなり難しい。というのは、その人は旧帝大の出で、わたしは通常の学校や大学を通っていない人だから。

 たとえば、個人主義と共同体主義についての話でのことだ。みっつの例をあげよう。
 その人は、友達とかいったものが大嫌いらしい。それは具体的には学校と大学の友達を指しているとニュアンス・背景から推測できた。
 かたや、わたしにはそうした記憶は薄い。たしか小学校にまだ通っていたころ、そう考える時期もあった。ところが12歳のころにまったく学校に行かなくなってからは無縁の悩みとなったのだった。学校の友達はなぜつきあうのか分からず、誰かの好み・美意識にあわせる行為が骨が折れる。だが、いったん学校の外に出ると、学校の数十分の一程度の協調性・社交性で事は済む。なので、友達がいやでかなわない悩みは、ずいぶんと軽くなっている。(強いてそれに相当するものを挙げるとすれば、家族・親族であり、会社の同僚であろうか。)
 もうひとつ例をあげよう。
 彼は、個人の実存としても、社会政策の観点からも同時に共同体を憎む。けれど、わたしは集団や共同が不必要だとは考えない。個人的にも社会政策面においても、それは必要だとみなしている。もちろん、それが嫌だとか重荷だとか思うこともある。しかし、そこからメリットがひきだしうるのも確かなのだ。
 一例をあげよう。わたしがかつて通っていたフリ-スク-ルは、つぶれる寸前にOB・OGその他の関係者から寄付を集めたり、政府や財団から予算をとったりしようとしなかった。いつ行っても行かなくてもよい、しかし他の学校や塾や親が嫌がるために、ほとんどの子が来たいときに来れない。遠隔地の子はしょっちゅう実家に帰る。あるいは、他のフリ-スク-ルを渡る。そのため、OB・OGどうしの横のつながりはないのだ。それに、主宰者は、リバタニアリズムの影響も取り入れたコミュニタリアンだった。なので、自分の作ったコミュニティ・スク-ルを、つぶすのならすべて彼自身の責任。他の関係者に助けを求めるのは自立をしておらず、論外だ。そういった発想で、周囲に助けを求めず、結局自分のフリ-スク-ルをその人はつぶしてしまったのだった。
 また、わたしはそこでたった一週間とか10日間だけの短期滞在を数度親に許されただけだった。そのときのごくわずかな滞在で得た教えだけで、家でひとりでホ-ムスク-リングをやらなければならなかった。
 とにかく自立、人に頼ってはダメ。だけれども、それは大人中心の発想だ。子どもには変形が必要だ。なのに不器用に、親から一銭ももらわずに動物学の博士号をとろうと決めた。もちろん、政府等に頼ることになるため、奨学金もダメだ。
 あまりに不自由な、まるで社会主義国のような官僚的な教育熱心な家庭から自由になるためにはまずそうしたプロセスは不可欠だった。何しろ、そのころの家族は「教養のない女はこの家から出てゆけ」と毎日のように叫んでいたのだから。よい学校を出た両親、よい学校に在籍中で幼稚園入試のころから成績のよい兄弟。そのなかで、よい幼稚園にも学校にも入っていないわたしは、異文化というよりも異端であった。女性差別の抑圧も加わり、ストレスと絶望しか見出せない家庭。他のフリ-スク-ルの子らがアメリカのフリ-スク-ルを50箇所まわるツア-に参加し、日本のフリ-スペ-ルを30箇所まわっているときに、わたしはそうしたいのにできなかった。家の中に閉じ込められ、看守のような家族に囲まれて、悪魔のような扱いを受けた。まったくの自我破壊工作であった。
 情報はあっても直接の体験や見聞がないのは不自然で耐え難い。それを十代の半ばからかかえていた。だが、その訴えは、オルタナテイブな教育や文化はうちの家族の許認可の範囲ではなかった。
 どれほど訴えても、侮辱され、情報操作され、自分が壊れてゆくのを促進されるばかりだった。望まない孤立と孤独のなか、自分が縮小再生産されてゆくのが分かった。
 その後、しょせん「学校もどき」でしかない塾や予備校から、何とかかんとか抜け出して、アルバイトをいした。しかし半失業では自立などできない。それゆえに、わたしはまだ一箇所もフリ-スク-ルにもコミュニティにも行っていない。
 それゆえに、自分は自分を知らない。だからこそ知らねば、自己を好ましい方向に向けて形成しなおさねば、と考える。
 だが、その人にとってはそれはとんでもないことらしい。彼は、通常の学校や大学を通った人らしく、自分についてちゃんと語れない。いつも他人がテ-マだ。おそらく、あの世にゆくときも「自分の人生は何だったのだろう?」とは問わず、「他人の人生とは何だったのだろう?」と問うてあの世にゆくのだろう。しかし、自分を知らないものがどうして他人を理解できるだろうか? 「汝自身を知れ」という最重要課題から大きく反れるのが、日本の学校と大学における正統な知識・文化だとでもいうのだろうか?
 それなのに、その人は、アメリカ流の極端な個人主義を批判するのも、許容しがたいらしい。わたしは、個人の実存問題として、彼は社会政策や社会分析として語っているというテ-マの違いはある。それでも、彼にはわたしの語ることの背景やニュアンスはかなり歪めて取り違えられる。多分、その逆もあてはまるのだろう。

 かつての帝大を出られた聖上天皇陛下の大学の人がなんと言おうと、わたしは、わたしとして、極端な個人主義には反対だ。コミュニティも必要だと考える。すべてを市場主義にゆだねるのも、
国に頼ることも不健全だからだ。
 どうやらその方の頭にあるのは、以前その方が十代の半ばをすごされた愛知県立東郷高校とその所在町がモデルとなっているようだ。片やわたしの場合は、十代の半ばをすごした地球学校というコミュニティ・スク-ルが基本となっている。そこは、おかしなボス支配もあったが、同時に心の平安の場でもあった。
 わたしはそこではじめてゆっくりと寝たり、ご飯を食べたり、夜に外出をしたりできたのだ。そこではじめて同世代の学校嫌いの子らと交流し、同じ音楽を好きな子と出会い、自分らしい言葉で他人と会話し議論できたのだ。同じように登校拒否だからといって世間からつまはじきにされる苦悩を分かちあえる友達に出会えたのもそのコミュニテイにおいてだった。主宰者はTVは見ないほうがいいと言う。その同じ部屋で彼の奥さんと子どもはTVを見ている。そんなふうな個人を尊重することを知っている、それこそが自分が第一に思い浮かべるコミュニティなのだ。
 わたしにとって、学校や家や地域などコミュニティでも何でもない。崩れコミュニチィ、コミュニティでもないくせに共同体のフリをしている市民社会でしかない。そこに貧乏人や、職人・音楽家・道化など遍歴の渡る人たちの居場所もない。
 たとえば町内会って何か? いっしょにどぶさらいもしない。近所の里山のゴミ拾いもやらない。地域の祭りはすたれており、復活しようという話もない。文化財の保護をやるわけでもない。屋根のかやぶき等による労働交換もない。冠婚葬祭は業者にやってもらう。ニュ-タウンなど、老人ホ-ムの立地への反対運動が盛んだったりする。車に道路は占拠され、近所のお年寄りが語らう場所としてのストリ-トは、近所の病院の中に移動している。これのどこかコミュニティなのか?
 コミュニテイは、個人と集団のバランスがとれていないといけない。個人を粗末にしてばかりなようではまともなコミュニティとはいえまい。ラテン語でcomは「いっしょに、ともに」、unは「ひとつの」の意である。
 聖上天皇の名のつく大学のお方が否定しても、自分にとっての真実は変わらない。その人は、とにかく共同体を廃止して、市民社会を作れと宣伝している。だが彼自身は天皇陛下ではない。それに人であって神ではない。なので従う義務はない。
 
 ところで、共同体をめぐって彼とわたしのふたつの見方を並べることができるということは、はラテン語で言うalterだ。つまり、ふたつのうちの一つを指す。なんともオルタナティブのブログにふさわしい話題だったと思う。