大和ミュージアム(広島県呉市)
先の大戦を美化するわけではないが、大和という巨大戦艦建造から
見えてくるものを見てみようと思いました。
ここに来て驚いたのは年輩者が多いと思いきや、若い人たちも多く見学されていた事です。
大和といえば、宇宙戦艦ヤマトを連想させますが、実在した巨大戦艦。
建造には当時の国家予算の3%をつぎ込んだそうです。
日米開戦直後の1941年12月16日に竣工し、連合艦隊の旗艦となります。
館内に入ると目につくのが10分の1 戦艦「大和」
本物は全長26.3メートル、排水量72,800トン 模型でもとにかくデカイく、
真横は写真に収めるのが至難の技(魚眼でもなければ...)
戦艦「大和」は、1941年12月、呉海軍工廠で、最先端技術を集め極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。
*タイトル写真は5枚の写真をステッチ機能でつなぎ合わせています。
バルバス・バウ
船の造波抵抗を打ち消すための船首に設けた球状の突起
この曲線が美しい。
大和は戦う兵器だけでなく、注排水システムをはじめとした浮沈艦としての最新技術が生かされています。
艦尾 零式観測機が艦載されています。
4基のスクリューと2段の舵で、高速戦艦なみの速度と旋回性能を持っていたそうです。
艦首前方
艦尾後方
米国の艦船に比べるとずんぐりむっくりしていますが、46cm砲といった巨大な大砲を乗せるにはこの形になるのでしょう。
この模型は設計図や写真、潜水調査水中映像などを基にして、詳細に再現したものとのことです。
主砲
45口径46cm3連装砲塔を艦橋の前に2基、後ろに1基の計3基9門
大和艦橋付近。
艦橋の高さはビル13階に匹敵するそうです。
高角砲と対空機銃が所狭しと装備されています。
モデラーとしても見るべきところは沢山あります。
この巨大戦艦 ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻とわずか4回の出撃しかしていません。
大和ミュージアムには伊藤整一中将(第二艦隊司令長官)妻、ちとせ宛て書簡や乗組員の遺留品が残されております。
伊藤整一は、若い時代から常に正道を歩き、筋を通すことで知られていました。
的確な状況把握、均衡のとれた判断には定評があり、知性派の代表格でした。
一方的に自説を主張するのではなく、部下、同僚に存分に発言させ、納得できるまで聞く。
よく考え、考えぬいてから発言し行動する人物だったそうです。
天一号作戦に先がけ、伊藤中将は、
沖縄の制空権と制海権は完全に敵の手に落ち、大和が沖縄に到達できる可能性は万にひとつも無いということから
作戦に対して断固反対をしていたが、最終的には大本営から特攻命令を受諾しました。
出撃の前日、乗艦予定だった少尉候補生は全員退艦させ将来性のある若者は残そうという配慮をされています。
1945年4月6日、大和は巡洋艦1隻、駆逐艦8隻というわずかな手勢を従え沖縄への水上特攻
坊ノ岬沖で12時30分頃、約400機もの米軍航空隊から攻撃を受け、大和は大破、戦闘続行は不可能となった状況下、
大本営からの命令でなく、自ら「作戦中止。残存艦船は内地に帰れ」と強く命令、
この決断によって大和のわずかな乗組員は命が助かることになりました。
そして大和長官室に入り船とともにしたそうです。
そこには真のリーダ像が見えます。
現代ではトップダウンで命令することでは、部下が100%のポテンシャルを発揮できる時代ではありません。
真のリーダー像は素質ではなく、態度です。
①チームメンバーのサポートをできる人物
②チームで起こる問題は、すべて自分の責任であると考えられる人物
③重要な態度は、まず自分が率先してやってみせること。
そして、誤りを止める事のできる人物。
CANON G1X 2015.09.17
本日もご覧頂きありがとうございます。
ごきげんよう さようなら
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先の大戦を美化するわけではないが、大和という巨大戦艦建造から
見えてくるものを見てみようと思いました。
ここに来て驚いたのは年輩者が多いと思いきや、若い人たちも多く見学されていた事です。
大和といえば、宇宙戦艦ヤマトを連想させますが、実在した巨大戦艦。
建造には当時の国家予算の3%をつぎ込んだそうです。
日米開戦直後の1941年12月16日に竣工し、連合艦隊の旗艦となります。
館内に入ると目につくのが10分の1 戦艦「大和」
本物は全長26.3メートル、排水量72,800トン 模型でもとにかくデカイく、
真横は写真に収めるのが至難の技(魚眼でもなければ...)
戦艦「大和」は、1941年12月、呉海軍工廠で、最先端技術を集め極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。
*タイトル写真は5枚の写真をステッチ機能でつなぎ合わせています。
バルバス・バウ
船の造波抵抗を打ち消すための船首に設けた球状の突起
この曲線が美しい。
大和は戦う兵器だけでなく、注排水システムをはじめとした浮沈艦としての最新技術が生かされています。
艦尾 零式観測機が艦載されています。
4基のスクリューと2段の舵で、高速戦艦なみの速度と旋回性能を持っていたそうです。
艦首前方
艦尾後方
米国の艦船に比べるとずんぐりむっくりしていますが、46cm砲といった巨大な大砲を乗せるにはこの形になるのでしょう。
この模型は設計図や写真、潜水調査水中映像などを基にして、詳細に再現したものとのことです。
主砲
45口径46cm3連装砲塔を艦橋の前に2基、後ろに1基の計3基9門
大和艦橋付近。
艦橋の高さはビル13階に匹敵するそうです。
高角砲と対空機銃が所狭しと装備されています。
モデラーとしても見るべきところは沢山あります。
この巨大戦艦 ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄特攻とわずか4回の出撃しかしていません。
大和ミュージアムには伊藤整一中将(第二艦隊司令長官)妻、ちとせ宛て書簡や乗組員の遺留品が残されております。
伊藤整一は、若い時代から常に正道を歩き、筋を通すことで知られていました。
的確な状況把握、均衡のとれた判断には定評があり、知性派の代表格でした。
一方的に自説を主張するのではなく、部下、同僚に存分に発言させ、納得できるまで聞く。
よく考え、考えぬいてから発言し行動する人物だったそうです。
天一号作戦に先がけ、伊藤中将は、
沖縄の制空権と制海権は完全に敵の手に落ち、大和が沖縄に到達できる可能性は万にひとつも無いということから
作戦に対して断固反対をしていたが、最終的には大本営から特攻命令を受諾しました。
出撃の前日、乗艦予定だった少尉候補生は全員退艦させ将来性のある若者は残そうという配慮をされています。
1945年4月6日、大和は巡洋艦1隻、駆逐艦8隻というわずかな手勢を従え沖縄への水上特攻
坊ノ岬沖で12時30分頃、約400機もの米軍航空隊から攻撃を受け、大和は大破、戦闘続行は不可能となった状況下、
大本営からの命令でなく、自ら「作戦中止。残存艦船は内地に帰れ」と強く命令、
この決断によって大和のわずかな乗組員は命が助かることになりました。
そして大和長官室に入り船とともにしたそうです。
そこには真のリーダ像が見えます。
現代ではトップダウンで命令することでは、部下が100%のポテンシャルを発揮できる時代ではありません。
真のリーダー像は素質ではなく、態度です。
①チームメンバーのサポートをできる人物
②チームで起こる問題は、すべて自分の責任であると考えられる人物
③重要な態度は、まず自分が率先してやってみせること。
そして、誤りを止める事のできる人物。
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