街の公園で見掛けた樹木 名前は分からない
手洗い鉢を手捻りで 凸凹が面白いのです
頂きましたマーガレット?
この時期が来ると無性に読みたくなる読まなくてはいけない本があります。
辺見庸の「眼の海」と「瓦礫の中から言葉を」です。
今私は自身を甘やかしては居ないだろうかと確認するするためにも
3.11の二年前変わらない故郷への思いと人生の区切りを付けるために
同窓会に出席 白河の地を訪れました。
黙し難き思いに後押しされて遙か東方河北の玄関口に
降り立った**さん 日本で一番白河を愛おしく思っ
てくれたいた**さん 少女の時アジャンタの壁画の
ようにいつもアルカイックに微笑んでいた貴女が半世
紀の時を超え遠く西方の海の向こうから参加してくれ
たので僕らの同窓会は遂に有終となることが出来まし
た。友が遠方から来た!これだけで何と楽しいことで
しょうか それでは又会う日まで!ということに致し
ます。
同じ生徒会で集った仲間からです。
多くの友人は大丈夫なのだろうかと 繰り返し流されるTVの画面に
言葉を失っていました。
震災の恐ろしさ原発の悍ましさを遠くの地で何も出来ずにいることが
歯がゆく悶々とした消化不良の日が続きました。
根底から覆されただ泣き喚き黙るしか無かったあの日
友人の安否が少しずつ確認され哀しみと安堵の入り混じった3.11でした。
暫くして手にしたのが二冊の本で読み返すことであの日を忘れまいと
思っているのです。
そちらは未だ冬籠もりですか雪の中なのでしょうか。
当地は今日桜が10輪開花して開花宣言がなされました。5輪なら昨日にもと悔しがっております。
山桜は四方八方満開です。出来ることなら春のお裾分けをしてあげたいところです。
3.11yuhkoさんは東京におられたのですか。恐ろしかったでしょう大変な経験をされたのですね
当時東京迄放射能で汚染されるとかで外国の大使館員が国外に避難した話を思い出しました。
世界の潮流は脱原発に舵を切っているのに
いまだ原発から離れられないでいるのは何故なのかと言いたくなります。
恐らく大きな利権が絡んでいるとしか思えません
対等の立場で判断すべき原子力規制委員会が重大事故に対する備えを棚上げにして
原発会社に取り込まれて居るのではと思ってしまいます。
汚染水を薄めて海に大気中にと耳にしますが核のゴミを出し続ける原発の存続は無理なのではと言いたいです。
責任を負う事も無く次々に税金で処理負担されている現実
あの人達は痛くもかゆくも無いのでしょうね。
お元気でいてくださいね。
祈るしかないのかな~…デス。
彼女は丁度銀座に買い物に出ていて、そこから大田区の家まで3時間近くかけて歩いて帰ったこと、私はやはり東京の自宅の庭にいて、家の中に駆け戻り二階の母の部屋に上ろうとしたけれど、揺れが激しくてうまくいかず、怒鳴っていたことなどです。
個人的につらかったことや苦しかった思いというのはそれなりにありましたけれど、ああいう恐怖は初めてのことでした。
離れた土地ですらあれだけの恐怖に襲われたのに、現地の方々は…と思うと今でも身がすくむ思いが致します。
あれからの数か月間の恐怖というのか絶望感は10年たっても胸を締め付けるのに…
あの時にテレビから流れて来た怖ろしい映像の合間に「ご心配なさることはないんですよ」と無知の民をけむに巻いていた原子力の専門家たちの笑い顔と国民を安心させるよりもまず己の立場を有利に…としか考えていないのだろうと思われたトップへの怒りは忘れようもないし、今も解決の道が開けていません。あの方々には振り返るという言葉すらないはずです。
日本も終わりかなと思ったけれど、続いてはいます。どうなるの ? ええいっ ! もう知らん ! と逃げる私です。
同じ場所で同じ体験をして出来ることなら手助けしたいと思われたのでしょう。
あの光景はどの様な言葉を並べても薄っぺらでしかなく辺見庸は3.11はなぜか風景から色を奪ったと書いていました。
心に傷を抱え込んだ人がひょんな事から堰を切ったように話される言葉には
胸を締め付けられる思いがします。
時が経っても忘れては為らない事と思っています。
有難うございました。
思い出せば涙が溢れて辛い気持ちになるのです
その日は地元にはいなかったのですが
いなかった事に後ろめたさを覚え一刻も早く帰りたかった
その日がもうすぐそこまで来ているのです。