制度改正Watch

自立支援法・後期高齢者医療制度の「廃止」に伴う混乱を防ぐために

「最低限度の生活の基準」をどう考えるか

2009年11月01日 10時05分31秒 | ベーシックインカム
長妻大臣が都内の保育所、特別養護老人ホーム、知的障害者入所更生施設などを視察し、記者団に「憲法の保障する最低限度の生活の基準をどこまで自治体に任せるか、悩んでいる」と語ったとのことである。
いくつかの記事を読み合わせると、保育所の広さなどを規定した権限を国から地方へ移譲することを求めた政府の地方分権改革推進委員会の第3次勧告に対してどのように回答するか、とのやりとりの中で出てきた言葉らしい。

長妻厚労相、都内の保育所など視察
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091101AT3S3101731102009.html

長妻厚労相:福祉現場を視察 地方分権巡り実情を探る
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091101k0000m010066000c.html

ナショナルミニマムは、国がすべての国民に保障すべき最低限度の生活の基準のことである。イギリスのウェッブ夫妻の時代において国が保障すべきことが「最低賃金、最長労働時間、衛生安全、義務教育」だったとすれば、今日の日本において国が保障すべきことは何だろうか。

こども手当や最低保障年金、給付付き税額控除などによって、すべての国民が暮らしていくために必要な所得が保障されるとする。そうなれば、次は、お金を配りさえすれば、憲法第25条1項に定められた「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されるとは限らない。ゆえに、国が保障すべき保育サービスの基準、高齢者や障害者が生活をおくるにあたって必要とするサービスの基準などを含めて、ナショナルミニマムとして定めるべきである、といった議論となる。
国が最低基準を示すと、多くの自治体は、その基準を充たせばよいと考える(財政的にも人材的にも余裕がない自治体が多い)。また、保育所や特養などのサービスを提供する事業者においても、ほとんどがそのように考える。その結果として、多くの場合は「最低基準=最高基準」となる。ゆえに、権限を委譲したり、民間に任せたりするとしても、国として定めるべきことはきちんと定めておく必要があろう。

ベーシックインカム=最低所得の保障が(限定的とはいえ)実現されたとすると、次は「文化的で最低限度の生活」の保障である。
今回の「保育所の広さ」の規定などのサービスの基準に加えて、人間らしい生活に必要な住まいをどう保障するか、社会参加などの生活をおくる権利をどう保障するかなど、国が国民の「生活」にどこまで関わり、保障すべきなのかを議論することから始めることになるだろう。「生活」は捉えどころがないし、何にでもミニマムが設定されるようになると、国による「過度な干渉」とも受けとめられかねない。しかし、自治体や民間に任せておいては、不安が残る(何か事件がおこったあとにマスゴミに叩かれてしまう)。

今国会の所信表明演説の「新しい公共」で、次のように語られている。国として基準を示したほうがよいのか、任せたほうがよいのか。ナショナルとシビル、ミニマムとマキシマムの「落としどころ」を探るのは、とても難しい。

 国民生活の現場において、実は政治の役割は、それほど大きくないのかもしれません。政治ができることは、市民の皆さんやNPOが活発な活動を始めたときに、それを邪魔するような余分な規制、役所の仕事と予算を増やすためだけの規制を取り払うことだけかもしれません。しかし、そうやって市民やNPOの活動を側面から支援していくことこそが、二十一世紀の政治の役割だと私は考えています。
 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものでもありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念を育み発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことができるのです。

第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/26syosin.html