Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「継ぐ者」

2024年10月08日 18時17分12秒 | 読書

 「継ぐ者」(上田秀人著 角川書店 2022年12月16日 初版発行)を読みました。

 

 

 

 その内容は、徳川家康とその嫡男徳川信康についての物語でした。

 徳川家康が今川家に人質となった頃から、その嫡男徳川信康が家康の命で自害させられるに至った時までを扱ったものでした。

 一般には、信康が自害させられるに至った理由としては、信康の生母の瀬名(築山殿)(今川義元の養女、今川義元の姪)と信康が武田側に通じていたことが織田信長の耳にまで達したため、信長の命で家康が信康を自害させたということになっていると思います。

 ところが、この本では、ちょと違っていました。

 信康は、生母瀬名(築山殿)の画策もあって、側室を迎えますが、信康は、だんだんとその側室を愛するようになります。ところが、その側室は一向宗の門徒でしたので、信康も次第に一向宗の影響を受けるようになっていきました。

 それを知った信康の正室の五徳姫(織田信長の娘)は、信康の側室に対する嫉妬も手伝い、それを一向宗嫌いの信長に通報します。

 それを知った信長は、信康の処分を「よきにはからえ」と、家康に委ねます。信長の真意を「信康に自害させろ」という意味であろうととった家康は、信康に自害するように命じたということでした。

 なお、信康の生母瀬名(築山殿)は、岡崎城から追放され、自害することを求められましたが、それを拒否したため、斬首となったとのことです。

 ところで、この処分に関し、筆者は、次のように記しています。

 

「以降、家康は織田信長に従って武田家を滅ぼし、その褒美として駿河一国を与えられた。

 織田家の家臣として生きていく決意をした家康だったが、信長が天正十年(1582)六月二日、明智光秀によって害されたことで大きく状況は変化した。

 織田信長というくびきをなくしたことで、家康はふたたび独立の機を得、やがて天下人へと駆けのぼっていく。

 嫡男信康を犠牲にするという判断が正しかったのか、まちがいだったのか、それをわかるのは一人家康だけであった。

 ただ徳川家の天下は二百六十年余り続き、その子孫は今も名家として続いている。  (p.402~403) 」