「日本の起源」(東島 誠・與那覇潤著 太田出版 2013年9月20日初版発行)という本を読みました。
「本書は、いわゆる通史ではない。問題史の書である。歴史の起源を語るのではなく、起源の歴史を語り続けた。(「あとがき」より)」ものだということでして、また、内容構成も、東島 誠氏と與那覇潤氏との対談という形式になっていて、ちょっと変わった本でした。
それに、非常に難しい本で、私など、少し読んだところで、「もう読むのを止めようか。でも、このような本と巡り合わせたのも何かの縁だから、もう少し読み進めてみようか」と思い直し、読み進めたものでした。
ある程度読み進めたところで、「やはりもう止めようか」と思いましたが、「でも、せっかくここまで読んだのだから、最後まで読んでみよう」と決意し、なんとか読み終えることは読み終えたものです。そんな調子で読んだものですから、内容を殆んど理解できず、また、ほとんど覚えておりません(><)
そんなことで、この本を紹介するのもおこがましい限りではありますが、せっかく、一応、全体を読みましたので、ほんの概要だけでも紹介したいと思います(^^;
ところで、この本の構成ですが、それは次のようになっていました。
まえがき
第1章 古代篇
第2章 中世篇
第3章 近世篇
第4章 近代篇
第5章 戦前篇
第6章 戦後篇
あとがき
私は、まず、「まえがき」を読んだ段階で、この本に魅力を感じました(^-^;
そこには次のように書かれていたからです。次に、その「まえがき」の中の一部を紹介したいと思います。
「しばしば誤解されがちなのですが、歴史研究者とは単に過ぎ去った時代を骨董品のように修復し、愛でていればよいという仕事ではありません。むしろ細くあえかにではあっても、今日のわれわれへと確かに続いている過去からの糸を織り直すことで、<現在>というものの絵柄自体を艶やかに変えてみせることにこそ、その本領がある。本書は、粗っぽい力技で「中国化」なる雑駁な模様を編み出すのが精いっぱいの駆け出し職人である私が、「江湖」というひとすじの糸から数々の繊細なイメージを織り上げてきた東島さんに弟子入りして、いっしょに2000年分の日本史を仕立てなおした過程の記録です。」
そんなことで、この本に魅力を感じ、読み出したのはいいのですが、その内容が難しく、だんだんと読み進むことに苦痛を感じてきたことは前述のとおりです。
そういうわけで、内容をよく理解出来ていないんですが、次に、それぞれの各章に書かれていた事柄の中から、私の独断と偏見で、私の目に留まった、ほんの少しずつを紹介したいと思います。
<「第1章 古代篇」から>
・・・・・しかしながら、今日では、日本が男性中心社会になるのは平安時代中期以降というのが、女性史研究の一般的な見解です。それこそ女性が夫以外の男性と交わることはOKで、そもそも「密通」するという観念自体、それ以前はなかったわけですから。 (P.26)
では国号としての「日本」の誕生はいつか。吉田孝さんは、7世紀の天武天皇のときに、天皇号とセットで誕生したと考えておられますが、すでに述べたように天皇号は日本号より先行するわけで、両者をセットで説明する見解はとりえません。それどころか神野志さんは、公式には701年の大宝律令(公式令詔書式)で、国号が「日本」と定められたと言われています。これは702年の遣唐使とセットで理解しようという考えです。しかし、そこで決まった国号は人々に嫌われて容易に受け容れられず、「日本」という言葉がネガからポジに転じるには、じつに平安中期までかかったわけですね。
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神野志先生の説では元来、「日本」とはおそらく「中国から見て東に日が昇る地だ」という意味の漢語にすぎなかった。それなのに、たまたまこの「日本」という言葉があったせいで、日本人は相当な誤解をしてしまって、「太陽は日本の象徴だから、日の丸がシンボルだ」とか、「天照大神が太陽神だから日本なのだ」とか、そういう議論が出てくる。あとの時代の人間が、本来は中国の目線から与えられた国号に、過剰な意味を読み込んでいったのですね。それこそ母性原理の話と同様で、それだけ古代という起源に仮託したい何かがあったということかもしれません。 (P.37)
<「第2章 中世篇」から>
・・・・・信長が既存の秩序の破壊者だというイメージは誤りで、むしろ既成の権威を「積み上げていく」ことで頂点に立つタイプだったことは、おそらく動かない。
とすると、これは今谷さんが信長をはるかに上回る革命児と見なした、足利義満にもあてはまりそうですね。義満が明から冊封されることで天皇の権威を不要にし、やがては皇位簒奪も目論んでいたという今谷説は旗色がわるくて、橋本雄さんの『中華幻想』が説くように、実際には中華風も天皇風も両方併用するのが、その権威樹立策だった。
義満・信長クラスの専制家でも古代以来の「温泉旅館」の伝統から自由でなかったというか、既存のシステムを踏み台にいろいろ新しいものを足してはいくのだけど、抜本的にアンシャン・レジーム(旧体制)を根こそぎ転換するという発想には思い至らない。逆に言えばだからこそ、天皇というバッファーは最後まで残った。 (P.122~123)
<「第3章 近世篇」から>
こうして織豊政権、とくに秀吉を「消滅する媒介者」として徳川時代に入っていくのですが、そこで中世と近世の画期をどこに見るかという問題が出てきます。日本史教育の現場でも、いちばん曖昧で混乱する部分ですね。中学までだと「近世と言えば江戸時代」なのが、高校では「安土桃山から近世」になって、大学で内藤湖南の「応仁の乱からひと続き=戦国以降が近世」テーゼを習う・・・と、どんどん境界線がぼやけてゆく印象があります。 (P.130)
・・・・・後世の目線から見ると、家康が江戸幕府を開いた時点で、将軍職はイエ制度でまっすぐ承継するのは自明のことだったと考えてしまうが、それは違うということですね。
むしろ東照宮をわざわざ造って家康を神格化したり、こじつけめいた理屈で家綱にもオーラをまとわせようとしたり、相当いろいろな工夫をして継承に正統性を賦与する必要があった。何度も例に出して恐縮ですが、北朝鮮でも代替わりごとにがんばって、「指導者たるにふさわしいエピソード」を創作しないといけないようなものですよね(笑)。 (P.139)
<「第4章 近代篇」から>
対して、幕末の外交は、徳川斉昭近辺で唱えられたいわゆる「ぶらかし」策で、なんとかやりすごせると思っていた節があります。どっちとも態度を決めないで曖昧な態度で適当に対応しておけば時間かせぎができると思っていたわけですね。もちろん、そうでないとわかってからがたいへんで、三谷博さんは「未曽有の国家的危機という意識を全国民が共有した」とまで言われます。しかし白村江や元寇のことを考えると、どうも私には緩慢プレーに見えてしまうんですね。いっぽう、幕府外交を批判するかたちで攘夷運動が出てきますが、こちらもそこまでの危機意識が感じられない。 (P.185~186)
対抗する右翼の側も、「祖国を欧米の植民地にしないために、坂本龍馬たち愛国の志士が立ち上がった」と書いたほうがカッコいいので、危機があったという設定は共有してきたわけですが、これ、真っ赤な嘘ですよね。攘夷運動なんて、「現政権の開国政策では日本が奪われる」と煽ったほうが相手をたたきやすいから、当時の社会にうんざりしてクーデターを目論んでいた下級武士層が口実に使っただけ。つまり、最初から「方便としての危機」だった。 (P.186)
<「第5章 戦前篇」から>
明治維新による国民国家の建設なるものは日本史上、じつはさしたる画期ではないと見てきたのですが、むしろ今日の近現代史で注目を集めているのは大正期なんですね。一般的な歴史像では、いまでも「大正デモクラシーのように評価できる要素もあったけど、しょせん天皇制国家ゆえに民主主義ではなく「民本主義」に留まる中途半端なもので、だから短命に終わった」というイメージでしょう。しかし歴史の画期としても、また今日の起源としても、大正のほうが明治よりはるかに重要かもしれない。
・・・・・端的に言えば、幕末の対外危機が単に「口実としての危機」だったのに対して、第一次大戦が世界初の総力戦となったことを、大正日本の軍人たちは相当真剣に受け止めた。そこから古代の律令制導入以来の、戦争のショックによる「先進国への背伸び」がはじまる。 (P.230)
<「第6章 戦後篇」から>
こうして、おなじみの「天皇制と戦争責任」というテーマとともに、戦後へたどりつきました。当然ながら、この話題を考えることはまさしく、1945年の敗戦を日本史上の画期と見なしてよいのかという問いにつながります。すなわち今日の日本の起源を「戦後」に求める歴史区分──それが戦後民主主義の神話を支えてきたのですが──は、はたしていまも有効かという問題。
総力戦体制論を前提とすると、第一次大戦を契機に構築されたシステムが、第二次大戦後も福祉国家として持続するわけだから、答えは否になる。そしていわゆる「天皇の戦争責任」からのアプローチでも、まったく違った理由で否という、同じ答えが導かれる。 (P.276)
以上、内容が難しく、よく理解できないままに、とにかく、一応、終わりまで読み進んだわけですが、最後の「あとがき」の所にきて、ちょっと感銘を受けた文章がありましたので、次に、その「あとがき」の中のその部分を紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。
「最後に、本書をひもとかれる方のために──。歴史は観点や立場によって描き方が変わる。これは真実です。逆に言えば、不偏不党や中立性を謳う歴史叙述ほど、胡散臭いものはありません。「〇〇の歴史観は偏っている」などという言い方をする人は、その時点で十分に偏った歴史観の持ち主なのです。社会科学の巨人マックス・ヴェーバーは、20世紀初頭に「価値自由」という言葉を提唱しました。しかしそれは、決して中立であれと言っているのではありません。まずは自分の価値観が偏っていることを自覚できて、初めて「自分の価値から自由」な人なのです。そしてその自覚こそが、「他の価値への自由」を認め、他者との対話を可能にする、最低条件となるはずです。本書はそのような意味で、「価値自由」に議論を展開してきました。どうぞみなさまも自由に、否、「価値自由」にご意見をお寄せくださいますよう、お願いいたします。」
個人的には日本国紀などがわかりやすいと思います。まだ読んでいませんが^^;
この手の本は読みずらいですよね(-_-;)
深く研究しようと思うような方には面白いかもしれませんが、一般的には面白くないですね。
数カ月前に「日本国紀」を読みましたが、これは読み易く、面白かったです。
でも、その本は、ちょっと偏っているようにも感じましたけれど、、、。
もっとも、そんなことを言う私は、「その時点で十分に偏った歴史観の持ち主なのです」とこの本の著者に言われそうですね(笑)。
この頃では、雑誌でさえも「真剣」に理解して読もうとすれば時間がかかってしまうのです。(大体は途中で寝ちゃいます)
最近は本を読まない人も多いと聞きますが、漢字を忘れたりする事が多くなったので、たまには本に目を通さないといけないですね。
私もどっさりたまった骨董関係の本を、自分の期限切れまでに、何とか読んでしまうつもりです。
このジャンルなら、価値自由でいけますから(笑)。
ところが、まだその数倍、能関係の本があり、頭をかかえています。
ちょっと難しい本に背伸びしてしまいました(><)
スイスイと読めない本ですと、なんか、時間を損している気持ちになるんですよね(-_-;)
老い先短いので、もっともっと多くの本を読まねばと、焦っているんでしょうか(笑)。
この本も図書館から借りてきたものですが、随分と延長を繰り返しました。
今度は歴史小説を読み出しましたが、私にとっては、歴史に題材をとった歴史小説あたりがちょうどよさそうです(^-^;
歯が立たないと気付いた時点でギブアップすればよかったんですが、妙に変な気を起こし、よく理解出来ないまま最後まで付き合ってしまいました(-_-;)
骨董関係の本が沢山たまっているんですか。
もっとも、それらは、比較的に価値自由に読めそうですから、すいすいと進みそうですね(^-^;
でも、それ以上に能関係の本を抱えているのでは大変ですね。
こちらは、価値自由には読めないんでしょうから、、、?
これは難しい本を読まれましたね。私はあとがきですら。何を言っているのか分かりませんでした(笑)。小学校の歴史の時間に。教師が何か質問ありますか?と言ったので。『日本と呼ばれたのはいつごろからですか』というと。その教師が一瞬沈黙して。私を睨み。そんな質問するなという顔をされ無視されました。それから数十年後ですかね。天武天皇あたりに使われたようだと。テレビか本で知る事になりました。自国の名前も知らずに数十年生きた事になります。おそらくその教師は死ぬまで知らずに歴史を教えていた事になります。私の教師嫌いはこのあたりから始まったのかも知れません(笑)。でもこの本は難しかったと思います。お疲れ様でした。有難うございます。
早々とギブアップすればよいのに、最後まで付き合ってしまいました(><)
日本史ってこんなにも難しいものかと思い知らされました(-_-;)
私にとっては、歴史的事実に題材をとった歴史小説あたりを読んでいるのがちょうどいいようです(^-^;
小学生で『日本と呼ばれたのはいつごろからですか』と質問するとは、これまた、鋭い感性の持ち主ですね!