文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

「キェンキャイキャキャキョン」 言語の解体と遊戯化

2021-05-18 14:01:25 | 第5章

エピソード内の全ての台詞をキャ行に変換し、展開してゆく「キェンキャイキャキャキョン」(72年17号)は、言語の解体と遊戯化を融合せしめた数ある『バカボン』ワールドにおいても、ナンセンスに隣接したSF的寓意が、読者の思考の盲点を突く、メタフィジカルなデペイズマン的構造を包含した好事例として、是非とも刮目して欲しい一作だ。

「キャキャキュキャキュキャオ キュキャオキュロ」(赤塚不二夫とフジオ・プロ)と変換された執筆者名からも分かるように、読者が意味を判読し得るギリギリのラインで、キャキャ語へと置き換えられたこの作品は、ある朝、パパが目覚めると、バカボンの左手人差し指が人面疽状になっており、その指が腹話術人形のように、「キュキャヨウ‼」(おはよう‼)と挨拶するところから始まる。

その後も、「キャウハ キェンキ イイキョ」(今日は天気いいよ)と、パパに話し掛けるバカボンだったが、パパはさっぱりその意味が解らない。

外に出ると、レレレのおじさんから「キョレキャケキェスカ?」(おでかけですか?)と挨拶され、目ん玉つながりからは「キュラ‼ キャイホキュルキョ」(こら‼ 逮捕するぞ)と怒鳴られる。

そう、みんな、人面疽を持って、キャキャ語を話すのだ。

商店街に繰り出すと、街中の看板も全てキャキャ語にすり替わっている。

「キャキンコ」(パチンコ)、「キャッポロキャーメン」(サッポロラーメン)、「キャムラキャン」(木村パン)といった具合だ。

また、電話帳を開くと、記載されている電話番号までが、数字ではなく、キャキャ語変換されていたり、テレビを点ければ、落語家のキャツラキャンシ(桂三枝)が、「エー キャイド キャパキャパシイ オキャナシヲ キョーシキャゲキャス」(えー、毎度馬鹿馬鹿しいお話を申し上げます)と前口上を述べていたりと、キャキャ語は、更に大量なウェイトを伴い、あらゆる媒体を通し、パパに迫り来る。

パパは一刻も早くキャキャ語を理解し、その言語世界に同化しようと、人差し指をハンマーで叩き、人面疽を作ろうと試みるが、結局指が膨れ上がっただけだった。

だが、努力の甲斐もあり、いつしか、パパはキャキャ語を喋れるようになる。

「キョレデキャイノダ」(これでいいのだ)と、安心して眠りに付くパパだったが、ドラマは思わぬ急展開によって決着を見る。

流動する秩序に過剰な波動を引き起こす、恐るべき仮構的世界。まさにそこは、精神の原風景にさえ、不合理な非体系化をもたらす無の領域と例えて憚らないだろう。

だが、その超展開的な不条理性感度は、超越論的次元へとループする非現実の合理性がラディカルなまでに、指し示されているが故、発想の初期段階より、ナンセンス漫画固有の虚構的概念が既に覚醒状態にあり、恰もパラノイア的夢想空間に足を踏み入れたかのような、ヘテロドックスなトリップ感覚を読者に植え付けて余りある、強固なファクターになり得ているのだ。

このような誇張を極限までに推し進めた言語遊戯を本作のテーマに据えた赤塚の脳構造は、一体どうなっているのか……。

長谷邦夫は、本作が執筆された背景に、赤塚が古くからの映画マニアであったことを一つの仮説として挙げている。

その上で、自著(『天才バカ本なのだ‼』)の中で、長谷は、本作を描く上でのヒントになった作品こそ、シドニー・ギリアット監督による1950年公開のイギリス映画『絶壁の彼方に』(主演/ダグラス・フェアバンクス・Jr.)ではないかと推論した。

『絶壁の彼方に』は、東西冷戦の真っ只中にあった時代に、西欧諸国が脅威に感じていた架空の東欧小国・ヴォスニアで、それまでの研究成果が高い評価を受け、表彰されることとなったアメリカの天才ドクターが、この地に訪れたことによって巻き込まれるトラブルを、緩急自在の劇構成を基軸にサスペンスフルに切り取った、1950年代のイギリスを代表する活劇映画の一本だ。

この作品、架空の国を舞台設定としているため、そこで使われる言語も、世界中の誰もが聞いたことのないヴォスニア語が考案され、劇中、飛び交うという実に凝った演出が施されているのだ。

何しろ、このヴォスニア語、シドニー・ギリアットのオファーを受けた複数の言語学者によって、チェコスロバキア、エストニア、フィンランド、ハンガリーの各国語をベースに創作されたもので、本編中、バーの看板や切手、新聞から書物に至る全ての小道具においても、使用されるといった徹底ぶりだ。

全く言葉の通じない国に、一人閉ざされた恐怖……。

成る程、言語的寓意を強めた「キェンキャイキャキャキョン」のその世界観とも、軌を一にしていると言えなくもない。

実際、筆者(名和)も名画座巡りを趣味としていた学生時代、この『絶壁の彼方に』をスクリーンで初めて鑑賞し、真っ先に思い浮かんだのが、本作「キェンキャイキャキャキョン」だった。

また、『絶壁の彼方に』の脚本を担当したフランク・ローンダーとシドニー・ギリアットの二人は、本作を発表する以前、アルフレッド・ヒッチコック監督にとってのイギリス時代の代表作『バルカン超特急』(主演/マーガレット・ロックウッド)のシナリオも共同執筆しており、バンドリカという仮想国を舞台にした物語を、この時既に創出していた。

ヒッチコック作品の大ファンであった赤塚が、そうした守備範囲の関係から『絶壁の彼方に』を観て、その特異なシチュエーションに、視覚的なインパクトを受けたであろうことは想像に難くない。

今となっては、状況証拠を元にした検証でしか語ることが出来ないが、そうした赤塚の嗜好を照らし合わせたうえでも、この長谷の推論が的外れであることはなさそうだ。


ドンちゃんとヒロコさんの熱愛スクープ 楽屋ネタに見る読者との新たなコミュニケーション

2021-05-18 11:27:25 | 第5章

さて、本編とは全く関係のない扉ページでは、流石は女性週刊誌のパロディーを標榜しているだけあって、「だれかに愛を感じたら・・・・アホらしさが生きてるあなたの週刊誌」という、俗臭漂うタブロイド誌そのものの正鵠を射たキャッチコピーと一緒に、前述の見出しのほか、和服を着たクラブのマダム風美女(⁉)と気障ったらしいジゴロ風の男が佇むツーショット写真付きで、「話題のふたり あのドンちゃん(31)とヒロ子さん(29)は じつはまたいとこどうしだった‼」と記された、抜き差しならないゴシップが堂々掲載され、読み手の虚を衝く。

ここに書かれているドンちゃんとは、当時『風のカラッペ』や『おれはバカラス』等の赤塚作品の作画を受け持つ傍ら、他の赤塚メインの連載、読み切りでも、アシスタントを兼任していた佐々木ドンを、一方のヒロコさんは、前述のイラストレーター・田村セツコの実妹で、短期間だが、セツコの紹介で、赤塚の秘書を勤めていた田村弘子のことを指している。

ドンちゃんとヒロコさんの交際スキャンダルが公となったのは、毎ページごとに、ヒトコマだけ、ストーリーとは何の脈略もない身辺雑記を「フジオのヤング・レポート」と称し、 インサートした「ドビンとチャビンのクルーソーなのだ」(72年19号)が最初で、その七ページ目に「いま 秘書のヒロコさんが お茶をいれてくれました この人は ドンちゃんとこの秋結婚します おめでたいのです」というセンテンスが、情報として開示されたのだ。

また、二週挟んだ「夢の世界で会いますのだ」(72年22号)では、漫画のコマをテレビの画面に見立て、ニュース速報の如く「この秋 結婚することになっている ドンちゃんとヒロコさんは アメリカへ新婚旅行することに決定しました」と、ご丁寧に同じ一文が二度に渡り、スーパーインポーズされる。

その本編の粗筋とは大きく背き離れたパラレルワールドたる楽屋ネタを、フィクショナルなギャグと絡めて成立させるとともに、ドラマの不条理性を高騰せしめたこれらの作品は、ダブル、トリプルのイメージ構造を喚起させる、現実と非現実における相反概念を見事エピソード内に浸透させ、笑いの裾野を大きく広げていった。

その結果、このマニアックな実話が放つ一種異様な空気感が、更にナンセンス性を帯び、その現実とない交ぜとなった野放図なザッピング感覚をカタルシスにも似た心地好い倒錯へと挿げ替えるのだ。

そして、これらの赤塚周辺に起こり得た実話ネタは、対読者との新たなコミュニケーションの一環として、作中、ふんだんに盛り込まれ、楽屋落ちという赤塚ルーティンギャグの一群として、その後幅を利かすこととなった。

余談だが、前掲の和服美人(⁉)とスタイリッシュな伊達男が身体を寄せ合うスナップは、この作品が発表された時期より遡ること七年前(1965年)に催された、スタジオ・ゼロのクリスマス仮装パーティーで撮られた一枚である。

女性は、登茂子夫人の着物を拝借し、女装メイクをバッチリ施した赤塚、男性は、トキワ荘最後の住民として知られ、赤塚自身、弟のように可愛がっていたという絵本作家の山内ジョージで、実在のドンちゃんとヒロコさんとは何ら関係はない。


低次元なセンセーショナリズムを鋭く諷刺「平凡天才ヤング女性男性バカボン自身」

2021-05-18 09:18:29 | 第5章

「ある夫婦の八年間の記録 わたしは夫がサルとも知らずに結婚した‼」「わあショック! 天才漫画家・水島新司(33)が男ドブスって、ホント⁉」等、扉ページにレイアウトされたタブロイド誌紛いの見出しが強烈なインパクトを放つ「平凡天才ヤング女性男性バカボン自身」(72年28号)は、人気アイドルのプライバシーに異常なまでの興味を示す目ん玉つながりをトリックスターに、東大卒という申し分ない学歴を持ちながらも、軽挙妄動の激しい芸能記者や傲岸不遜なアクションスターの新星など、クセの強い業界人が顔を揃え、浅ましき愚行ぶりを露にするといったストーリーで、芸能マスコミ全般に蔓延る低俗なディスポジションを、奥行きを纏った表出とともに、鋭く戯画化した渾身の力作である。

「俺なんかは、自分がどんなふうに撮られようがかまわないけどさ。     ~中略~

だけど、プライドとか名誉を大切にしている人だったら、〝フォーカス〟されたら腹が立つと思うよ。そんな勝手なことをされるいわれはないもんね。」

(『フォーカス、フライデーの愛読者に贈る本 発言!これでいいのか F・F報道』四海書房、86年)

これは、芸能マスコミ史に多大な衝撃を残すことになる「ビートたけしフライデー襲撃事件」が発生した1986年当時、低次元なセンセーショナリズムに溺没していた「フォーカス」、「フライデー」等の報道姿勢に対し、赤塚が「視覚文化はのぞき文化である」という異議申し立てとともに唱えたマキシムの一つであるが、本作においてもまた、日本のパックジャーナリズムにおける送り手と受け手の共犯関係の縮図が、徹底したアイロニーによって炙り出されており、赤塚らしいコンシャンスが注がれた手堅い諷刺漫画になり得ている。