文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

アンティークな鏡台から木彫りの手鏡 そして魔法のコンパクトへ

2020-04-26 07:23:03 | 第3章

『ひみつのアッコちゃん』といえば、アニメ化(第一期)の際、玩具メーカー・中嶋製作所が大々的に売り出し、爆発的なヒットアイテムとなった魔法のコンパクトが有名だが、当初はコンパクトではなく、前述したようにアンティークな鏡台だった。

アンティークな鏡台は、前述の「われた鏡とお正月」で、不慮の事故から割られてしまい、元に戻れず、途方に暮れるアッコの前に、再び黒服にサングラスを纏った鏡の国の使者が現れ、鏡台の代わりに、持ち運びしやすく、いつでもどこでも変身可能なコンパクトサイズの木彫りの手鏡が手渡されるというプロットが、既に原作内で描かれていたが、東映動画の池田宏(後に、テレビアニメ版『ひみつのアッコちゃん』の演出を担当)は、アニメ化の構想案がプレゼンテーションされた極めて初期のステップから、マーチャンダイジング戦略の一環として、この木彫りの手鏡をグッズ化しやすく、また女の子の憧れの定番アイテムであるコンパクトへと変更する改善提案を強固に主張したという。

その結果、魔法のコンパクトは、コモディフィケーションにおいて、目論み通り、お洒落に目覚めた少女達の需要を喚起する超ロングセラーとして、玩具市場を席巻することになり、メーカー側に莫大な利益をもたらす結果となった。

アッコが様々なものに変身する際の「テクマク・マヤコン、テクマク・マヤコン、◯◯になあれ~」(テクニカル・マジック・マイ・コンパクトの略)や、元に戻る際に唱える「ラミパス・ラミパス・ルルルルル~」(スーパー・ミラーの逆さ読み)といった、今尚広く知られるこれらのフレーズは、第一期テレビアニメ化(69年1月6日~70年10月26日放映)に際し、初回のシナリオを担当した雪室俊一が発案した造語であり、テレビとのタイアップで、原作も前作同様「りぼん」(68年11月号~69年12月号)でリバイバル連載された際、東映動画のイメージ戦略にレスポンドし、魔法の手鏡はコンパクトに、変身の呪文は逆さ言葉から「テクマク・マヤコン」へと変換され、ここで漸く、原作版『アッコちゃん』も、現在のパブリックイメージへと定着してゆく。

また、第二期原作に当たる1968年版の第一回目作品「ふしぎなコンパクト」(68年11月号)では、大切な鏡を割ってしまったアッコが、魔法のコンパクトを件の黒服にサングラスの青年ではなく、夢の中で鏡の精から受け取るという、旧原作とは全く異なるエピソードが描かれ、歴代のテレビアニメ版の初回放送では、アッコが魔法のコンパクトを手に入れる経緯として、毎回このシチュエーションを踏襲して使われることとなった。


揺れ動く恋心をしっとりと綴った「おにいさんがほしい」

2020-04-25 20:40:44 | 第3章

アッコの人間的な更なる成長を、恋に恋する淡い異性への憧憬を横軸にハートフルな視点で描いた「おにいさんがほしい」(64年4月号)も、読者 の心を引き付ける印象深い一編である。

ある日、アッコは、友人のケイ子がお兄さんと仲睦まじくしているのを見て、自分にも素敵なお兄さんがいたらいいのに、と漠然と思っていた。

そんな時、アッコの家の二階部屋に小林という大学生が下宿することになる。

ハンサムで優しい小林青年は、まさにアッコが想い描いた理想のお兄さんで、アッコはそんな小林青年にほのかな恋心を抱く。

アッコは、小林青年に遊んでもらいたい一心で、彼に自分を何処かに遊びに連れて行ってくれたら、ママが今月の家賃を千円負けると言っていたと、つい嘘を附いてしまう。

小林青年は、喜んでその申し出を快諾し、アッコと、途中でバッタリ会ったカン吉を連れて、三人で遊園地に遊びに行くが、小林青年に嘘を附いてしまった良心の呵責から、アッコの気持ちは全く踊らない。

家路に就いた時、アッコは、小林青年に嫌われることを覚悟で、遂に、本当のことを話す。

アッコの嘘などとっくに見抜いていた小林青年は、部屋代を既にママに払っており、自らのポケットマネーで、アッコ達を遊びに連れて行ってくれたのだという。

小林青年は、嘘を附いていたことを正直に語ったアッコを、寛容な眼差しで慈しみ許す。

そして、二人は本当の兄弟のように絆を深めるとともに、アッコは小林青年に一層憧れを強めてゆく……。

普遍的な初恋における、初期衝動的な熱情を描いたものではないが、異性への憧れに目覚めたアッコの心の奥底で揺れ動く緩やかな心情の変化が微温的に描出され、アッコの小林青年に対する純粋な慕心そのものが、後期幼少期から思春期へと至る成長の過程を直截的に表すなど、恋と呼ぶには、まだ幼くこの小さなロマンスをしっとりとした趣で綴った本作は、今一歩、アッコを新たに大人の階段へと導く貴重なエピソードに成り得ている。

このように『アッコちゃん』には、ハートフルなメルヘン風ファンタジーの衣を纏った世界観を創出しつつも、原作版においては、アッコの姿や行動にローティーンを迎える直前の女の子が必然的に直面するであろう重要な人生の課題が、取り分け強く写し出された回もあり、そうした等身大のヒロイン像そのものが、少女読者のインタレストを呼び起こすと同時に、その琴線に並々ならぬシンパシーを響かせる促進因子となったことに疑いの余地はないだろう。

そして、一切の混じり気のない純真で正しきを尊ぶ想いから、献身的で、ややもすれば自己犠牲的な慈愛を貫き通し、大きな危険や困難と対峙しながらも、人を守り、助け、時には生きる勇気を促すといった、より次元の高い解決を得ることにより、アッコもまた、心的発達を遂げ、自我を確立してゆく。

そう、『ひみつのアッコちゃん』は、一人の前思春期の少女の成長を丹念に綴った一種のビルドゥングスロマンであり、自らの幸せよりも常に他人の幸せを最優先する、アッコのその天使のような澄みきったハートの清らかさと、欲心をコントロールした悟りの美徳観こそが、読む者に爽やかな感動と穏やかな安らぎにも似た幸福感を解き放つのだ。


人間同士の繋がり、家族の在り方を問う「ひいきはやめて」

2020-04-23 23:20:07 | 第3章

『アッコちゃん』の総体的なワールドビューは、明るく朗らかで、夢いっぱいの楽しさに包まれた超ファンシーなテイストを漂わせたエンターテイメントと言えようが、連載後期を迎えると、アッコと同世代の少女達が、成長幼少期であるが故の未熟さから、共通して抱く苦悩や、情緒的に強く色付けされたメランコリックな意識体験といった現実の生活の中で実感する行き場のないエモーションを作品のテーマに掲げることにより、読者の内生的な倫理観や、感情領域における情操を育んで確実なメッセージを共存させたエピソードもまた、顕著に描かれるようになった。

「ひいきはやめて」(64年11月号)は、裕福な家庭環境に恵まれながらも、母親から相反する扱いを受けている二人の姉と弟の感情の相克をテーマにしたエピソードで、姉であり、アッコとモコの同級生でもあるマリとその弟のケイ坊との間に横たわる確執や、母親のマリに対する溺愛ぶりや狭量さなど、一家族の屈折した現実生活の有り様や、人間観における様々な矛盾と心理的葛藤が、幾分シリアスな風合いを伴って表出され、人と人との繋がりにおける価値基準、延いては、本当の家族の在り方とは何かを問い掛けた意欲的な一本である。

その成績優秀ぶりや容姿端麗さから母親の寵愛を受ける中、次第に自尊心が芽生え出し、ついついケイ坊に対し、不遜な態度を取ってしまうマリの慢心ぶりと、逆に母親に愛情を注いでもらえない疎外感から、誰からも心を閉ざし、ネガティブな感情でしか、他者とコミュニケート出来ないケイ坊の痛切なる悲哀を浮き彫りにしながら、アッコ達がその崩れかかった家族関係を修復してゆくヒントを伝えるという、子供寄りの視点に沿って展開するハートウォーミングなストーリーで、家族同士における心遣いや節度の重要さ、別け隔てない愛情を保ちつつも、自己本位に傾き易い頑な心を和らげ、我が子に自立心、他者の心を慮る心情を涵養し得る適切な距離感を留め置くことの大切さが、押し付けがましくなく、しかし厳粛に描かれているあたりには、感服せざるを得ない。

姉と弟、母親と弟が互いの感情を、身近なところで、手に取るように斟酌し合う希望に満ちたラストもまた、素朴な次元で描かれていながらも、情味のこもった深みと繊細を帯びており、赤塚のコンシャンスが心に染み入る手堅いワンシーンだ。


読む者のモラリティーを喚起する「スターになあれ!」

2020-04-23 08:16:03 | 第3章

「スターになあれ!」(64年5月号)は、知り合った女の子に、自らが人気歌手と親戚であることを自慢されたアッコが、その嫉妬心から、当時、日活映画の青春純愛路線で一躍ブレイクを果たし、人気アイドル女優として、少女達にとっても、雲の上の存在だった吉永小百合に変身し、自分は彼女と大親友という虚構のシチュエーションで、その女の子に対抗するといった、アッコの短絡的で自己愛的な虚栄心が、本来の自分から独立した一個の人格としてのアッコ版吉永小百合の存在を肥大化させ、遂には、本物の吉永小百合と対面してしまう混乱とトラブルをドタバタテイストたっぷりに綴った失敗譚だ。

読者にとって、アッコ版吉永小百合は、心象世界で現実に生きた憧れの人物の代理的な役割をバーチャルに果たしてくれる、ささやかな依存対象であったと言えなくもないだろうが、このドラマのラストシーンは、自分本位の主観的行動により、ロケーションを中止させてしまうという多大な迷惑を与えてしまった本物の吉永小百合に、遠巻きから謝罪の意を見せるアッコの姿で締め括られる。

反省したアッコのいじらしい表情も印象的で、虚栄心によって、我欲を幾ら満たしたところで、結果として得るものは、虚しさと気まずさだけだという一つの真理を明瞭に示した、地味ながらも、充実したワンシーンであり、登場人物が背負っているそれぞれの性格と状況に応じつつ、読む者のモラリティーの発動を喚起するその措定作用も含め、如何に赤塚が細心の配慮のもと、テーマを絞っていたかが、見て取れるかのようだ。

こうした、斬新ではあるものの、作劇上、自縄自縛の袋小路に陥りやすい変身というワンアイデアと、手の届く日常生活で起こり得るちょっぴり不思議な夢の冒険譚、これらの限られたエッセンスを発想の緩急や強弱をフレキシブルに使い分けて飛翔させ、読み手のカタルシスを呼び起こして十二分なエピソードに膨らませる筆力は、豊穣なイマジネーションの結晶の成せる業であり、ストーリーテラーとしての赤塚の対象領域の広さに、改めて喫驚させられる。


スマートな遊び心が行き届いた「小さな世界の冒険」

2020-04-21 19:34:51 | 第3章

さて、本稿ではこれまで『ひみつのアッコちゃん』のアウトラインとキャラクタリスティックを簡潔に整理しつつ、作品が持つ本質的意義とは無関係な誇張を避け、その魅力を余すところなく分析、理論化し、新たな知見を加えて言語化してきたが、ここで一旦趣向を変え、異色作と見なされながらも、『アッコちゃん』を語る上で欠かすことの出来ない、趣の深いエピソードも纏めて紹介しておきたい。

筆者が愛着を寄せる一編にして、作中、アッコが姿かたちの異なるものへ一切変身することなく、ドラマが進行してゆく異端作「小さな世界の冒険」(「りぼん 夏休み大増刊号」64年8月15日発行)をまず挙げてみることにしよう。

この物語は、鏡を使って、人形と同様のサイズにミクロ化したアッコが、冒険心に駆られ、小さな身体のまま街へ飛び出したことで、猫に追い掛け廻されたり、カラスにさらわれたりと、災難に次ぐ災難に晒されるという、フライシャー・スタジオ制作による傑作アニメ『バッタ君 町に行く』をしのばせる冒険ファンタジーである。

単純明快なシークエンスをベースとしながらも、要所要所に笑いとなるポイントをしっかりと押さえ、中弛みが一切ないテンポの良いコマ運びは勿論、アッコが命綱代わりに使う糸巻きや、足を痛めて松葉杖の代用品にするマッチ棒、道端で見付けたマンホール並みに重たい旧一〇〇円銀貨など、身の回りにある物体の特徴を、リアル過ぎず、しかし質感たっぷりに丁寧に捉えた描写力の秀逸さが、殊更際立つほか、小さくなったアッコが、食べ切れない大きなケーキに舌鼓を打ったり、人形の洋服に着替え、お洒落を楽しむ一連のシーンなどは、概して小さな女の子の憧れをそのままダイレクトに画稿に描き起こした『アッコちゃん』屈指の名場面と言えるだろう。

『アッコちゃん』のオフィシャルな路線から若干軸移動しつつも、スマートな遊び心がコマの隅々まで行き届いており、まさしく隠れた名作と範疇化されて相応しいエピソードの一本だ。

また、本エピソードで見せるアッコの感情やモーションが、他のエピソードで見せるそれらよりも、実に生き生きと洗練されており、アッコの一挙一動そのものが、ドラマに躍動を刻む大きな魅力を湛えていることにも注目されたい。