文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚ギャグの記念碑的作品『天才バカボン』

2021-03-10 09:46:02 | 第5章

「週刊少年サンデー」で爆発的ヒットとなった『おそ松くん』がほぼ絶頂期を越えた1967年、「サンデー」の対抗誌である「週刊少年マガジン」で、赤塚ギャグの記念碑的作品とも言うべき『天才バカボン』の連載が満を持してスタートする。

連載開始への経緯については、前章にて事細かに触れているので、ここでの言及は控えるが、『天才バカボン』は、「マガジン」編集部の期待を上回る歴史的ヒットとなり、連載開始間もなくして、一気に同誌の看板作品としての地位を確立した。

特に、『レッツラゴン』の連載開始と重なる1971年を境にした『バカボン』は、アバンギャルドな展開を盛り込んだ独自の世界構造を開陳し、新たなナンセンスの趨勢を整えるとともに、ドラスティックな笑いがドラマを解体してゆくという、従来のギャグ漫画から超然としたカタルシスを読者に与えることになる。

そのアナーキズムと哲学的含蓄を孕んだナンセンスギャグの切迫は、幅広い世代から熱烈な支持を受け、社会的なブーム現象を巻き起こしたのは、先刻承知の通りである。

そして劇中、バカボンのパパが盛んに発していた「タリラリラーン」、「コニャニャチワ」、「忘れようとしても思い出せない」、「国会で青島幸男が決めたのか?」というフレーズは、単なる漫画流行語の枠を越え、当時の若年層の間で、日常用語の一つとして使われるまでに至った。

余談だが、1971年に人気俳優・峰岸隆之介(後の峰岸徹)を主演に迎え、『タリラリラン高校生』(監督・田中重雄)なる不良映画がダイニチ配映で公開されたことにより、一部のネット民の間で、「タリラリラーン」が、この『タリラリラン高校生』から拝借したフレーズであるかのように語られているが、「タリラリラーン」がバカボンのパパの口から発せられたのは、1967年のことであり、時系列的に見ても、この言説が誤想であることに異論を挟む余地はない。

尚、「日常満たされない生活をするのは、世の中に何かが足りないためであり、自分たちにも何か欠けるものがあるからだ」という鬱屈した想いがこの「タリラリラン」に投影され、若者達の間で流行語の一つになったとの説明が、この映画の作品解説でなされているが、実際、そのような意味合いで浸透した言葉ではなく、あくまでこれは、本編公開にあたりマスコミに向け、ダイニチサイドがプレスリリースにてアピールした後付けに過ぎない。

閑話休題。話を『天才バカボン』に戻そう。

このように、時代を画するエポックメイキングになり得た作品でありながらも、途中、ライバル誌である「週刊少年サンデー」に引き抜かれたり、古巣「少年マガジン」に返り咲いた以降も、再開、終了、再開と幾度となく繰り返していたため、米沢嘉博や高取英、みなもと太郎といった名だたる漫画評論家や研究家、当時アイデアブレーンとして膝を突き合わせていた長谷邦夫ですら、その連載期間に対し、正しい認識をしておらず、彼らの著述による悪影響からか、こうした基本情報でさえ、あらゆる関連書籍において、今尚錯誤誤記が飛び交う、ビッグタイトルらしからぬ扱いを受けているということも、現実として横たわっているのだ。

そこで、本稿に入る前に、まずは『天才バカボン』の正確な掲載リストを纏めた。

 

1967年

「週刊少年マガジン」15号~69年9号(※68年31号~32号は休載)

「別冊少年マガジン」8月号、11月号

1968年

「別冊少年マガジン」1月号、4月号、8月号、9月号、11月号

1969年

「別冊少年マガジン」1月号

「週刊少年サンデー」35号~37号、47号、49号、51号~70年15号

「DELUXE少年サンデー」9月号~70年6月号

1971年

「週刊ぼくらマガジン」20号~23号

「週刊少年マガジン」27号~73年50号

1974年

「週刊少年マガジン」1号~75年2号(※74年44号は休載)

「別冊少年マガジン」8月号~75年5月号(※74年10月号、12月号は休載)

1975年

「週刊少年マガジン」43号~76年49号

「月刊少年マガジン」6月(創刊)号~78年12月号

1978年

「週刊少年マガジン」16号

1987年

「コミックボンボン」10月号~89年12月号

「テレビマガジン」11月号~91年1月号

1988年

「月刊少年マガジン」1月号~89年2月号

1989年

「ヒーローマガジン」10月(創刊)号~91年1月号

「コミックボンボン」1月冬休み増刊号(※タイトルは『平成天才バカボン』)

1990年

「コミックボンボン」1月号~91年10月号(※タイトルは『平成天才バカボン』)

「デラックスボンボン」1(創刊)号(※タイトルは『平成天才バカボン』)

1991年

「デラックスボンボン」11月号~92年12月号(※タイトルは『平成天才バカボン』)

 

また本章では、『天才バカボン』の作風の変遷も兼ねて論証するため、便宜上、次のように連載期間を区分けしておく。

 

第一期

1967年~69年 「週刊少年マガジン」連載開始期 「別冊少年マガジン」掲載期

第二期

1969年~70年 「週刊少年サンデー」「DELUXE少年サンデー」移籍期

第三期

1971年~75年「週刊ぼくらマガジン」「週刊少年マガジン」復帰期    「別冊少年マガジン」連載期

第四期

1975年~78年「週刊少年マガジン」ショートショート連載期 「月刊少年マガジン」連載期

第五期

1987年~92年「コミックボンボン」「テレビマガジン」「月刊少年マガジン」「ヒーローマガジン」「デラックスボンボン」リメイク連載期

 

更に『天才バカボン』には、傍流作品として、次のようなタイトルがあることも、この場を借りて補記しておく。

 

1969年

『天才バカボンのおやじ』 「週刊漫画サンデー」9月3日号(39号)~71年11月27日号(49号)(※不定期連載)

1972年

『天才バカボンのおやじ』 「週刊漫画サンデー」7月1日号(26号)

1973年

『天才バカボンのおやじ』 「週刊漫画サンデー」1月27日号(4号)

『天才バカボンのパパ』 「まんが№1」3月号~4月号

1994年

『天才バカボンのお正月』 「グランドチャンピオン」1号

『帰ってきた天才バカボン』 「週刊プレイボーイ」33・34合併号

 

(『天才バカボン』は、これら以外にも、長谷邦夫が代筆を務め、後に『愛しのボッチャー』を執筆することになる河口仁がアシスタントを担当した第一期「テレビマガジン」版(71年~77年、75年からは『元祖天才バカボン』と改題)もあるが、これらはその稚拙なタッチと作劇による違和感からか、ファンの間でもネガティブな目で見られている黒歴史的なシリーズであり、資料的価値以上のものがないため、本稿では敢えて言述を避けておく。)

このように、赤塚版『バカボン』だけでも、そのエピソード数は天文学的数字を弾き出し、これら全ての連載期間を換算すると、リバイバルを含め、十六年ものロングランを誇り、長期連載という観点から捉えても、赤塚漫画史上最大のヒット作品となった。

1960年代、70年代、80年代、90年代と、人気絶頂期から円熟期、晩年、最晩年に到るまで描き続けた、漫画家・赤塚不二夫にとってライフワークと位置付けて然るべき代表作であり、近年においても、テレビCM、企業広告、パチンコ、パチスロ機の素材等で取り上げられるなど、赤塚漫画をシンボライズする名タイトルと言っても憚らない。

戦後文化史にその名を刻み、今尚、あらゆる世代より根強い人気を誇る『天才バカボン』。

本章では、究極のナンセンスギャグ『天才バカボン』が漫画界にもたらした変革と、本作が有する哲学的概念を紙幅の許す限り、捉え直してゆきたい。