文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

手塚治虫『ロストワールド』の衝撃

2017-11-05 11:48:00 | 序章

赤塚不二夫(本名・藤雄)が漫画家を志す夢を抱くようになったのは、生まれ育った満州より引き揚げた後、母方の実家がある奈良県大和郡山市に移り住み、地元の悪童仲間と腕白な少年時代を過ごしていた小学校六年生の時のことで、たまたま貸本屋に置いてあった手塚治虫の初期の代表作の一つ『ロストワールド』との出会いが、その切っ掛けであった。

後に漫画の神様と呼ばれる手塚治虫は、大阪帝国大学医学専門部の学生だった1946年、『毎日小学生新聞』紙上にて、四コマ漫画『マァチャンの日記帳』でデビュー。翌年の47年、育英出版より『新寶島』(原作/構成・酒井七馬)を刊行し、一躍人気漫画家となる。

『新寶島』は、宍戸左行の『スピード太郎』や大城のぼるの『汽車旅行』という一部の作品に見られた、映画的カメラワークを彷彿させる表現手法を更にステップアップさせた冒険活劇であり、スリルとアクションをふんだんに取り入れたスピーディーなそのストーリー展開は後々に至るまで高く評価され、本作品をもって戦後漫画文化の出発点となった。

藤子・F・不二雄や藤子不二雄Ⓐ、石ノ森章太郎やちばてつや、楳図かずおといった、後に現代漫画の黄金時代を築く巨人達が漫画家を夢見たのも、この作品に触れたからなのだ。

『新寶島』の発表から一年後、その後の手塚ロマネスクのルーツとなるSF超大作『メトロポリス』、『来るべき世界』の第三部作として『ロストワールド』が描かれることになる。

時として、ペシミスティックな結末を迎えつつも、未来への理想とロマンを内包したこれらの空想科学冒険譚は、貧困と荒廃を日常とする苛酷な生活環境を強いられていた終戦間もない頃の子供達を大いに熱狂させた。

我が国の漫画界にSFと呼ばれるジャンルを定着させ、延いては、現在に至るまで連綿と持続してゆく漫画のあらゆる表現スタイルを、手塚治虫はこの三部作で確立し、戦後コミックシーンにおいて、これらの諸作品を『新寶島』をも上回る大きな突出点に押し上げた。

当時『ロストワールド』に出会った衝撃を、赤塚はこう記している。

「それまでの平面的で、のんびりと、家庭的な漫画にならされていたボクらにとって、それはスピーディーであり、構想も雄大で、その躍動は、紙面から、とびだすのではないかと思えるほど、じつに型やぶりだったのだ。

~中略~

いい知れぬ衝動につきうごかされていて、ボクは、やみくもに、漫画がかきたくなった。」

また、『いま来たこの道帰りゃんせ』(東京新聞出版局、86年)では、「いま、読んでみても、戦後直後の時期に、自然の偉大さと、その中の小さな人間、そして、宇宙への人類の果てしない志向を指摘している。

とくに、科学技術の発展の中で、見失われがちな人間の尊さに触れ、その人間が持ち続けている〝罪と罰〟の大いなる苦しみを追求しているのには、心から敬服をせざるをえない。」と、作品の素晴らしさを語っている。

特に、この作品のラストシーンは、小学六年生の藤雄にとって、拭いても、拭いても、涙が止まらないものだったと語ったほか、エッセイ以外の自伝的な漫画作品でも、上京後デビュー前の修練の日々から漫画家として大成するに至るまでの泣き笑いを、ギャグミュージカル仕立てでダイジェストに綴った『これがギャグだ! ギャグミュージカル ギャグほどステキな商売はない』(『別冊少年ジャンプ』73年7月号)や、引き揚げして間もなく、奈良で過ごした悪ガキ時代の胸キュンな想い出を、ほろ苦くも甘酸っぱい筆致により、ノスタルジーいっぱいに回顧した『不二夫のワルワルワールド』(『別冊コロコロコミック』82年8号~83年12号)等で、『ロストワールド』と出会った時の感動と興奮を過不足なく記録しており、いかに『ロストワールド』が、その後の運命を導く引力となる、規格外のイマジネーションと、従来の漫画作品を過去の遺物として淘汰してしまう程の燦然たる輝きを放っていたかが、ストレートに伝わってくる。 

いつか、手塚治虫のような漫画家になりたい!

『ロストワールド』の壮大さに感激し、すっかり手塚作品の虜になった藤雄は、将来、漫画家になることを夢見て、一年後『ダイヤモンド島』なるオール着色による冒険活劇漫画を一本描き上げ、大阪の三春書房、そし て『ロストワールド』の刊行元である不二書房に持ち込んだ。

だが、そう簡単に漫画家としてデビューが出来るわけもなく、結果は不採用となる。

人生で初めての挫折を味わった藤雄は、その後、来る日も来る日もみかん箱を机代わりに漫画の習作を描くことに励んだ。

以来、義務教育を終業するまで、宿題というものを一切やったことがなかったと後に笑う。

因みに、赤塚不二夫というペンネームの由来だが、後に『ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科』(「週刊少年マガジン」74年1号掲載)という特集記事で、「二人といないから〝不二夫〟と名づけた。」、「親がかってにつけた名前だから、かってに変えた。」と煙に巻いた口調で読者を翻弄しているが、その後漫画家仲間として昵懇の間柄となる松本零士(代表作/『銀河鉄道999』、『宇宙戦艦ヤマト』)の証言によれば、赤塚不二夫の「不二」も、藤子不二雄の「不二」も、この不二書房にあやかって付けたペンネームだという。

いつか、憧れの手塚治虫の単行本を多数出版している不二書房で、自らの作品を出版したい。

そんな微笑ましい夢を、無垢なる想いとともに「不二夫」の「不二」の二文字に託していたのかも知れない。