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文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ヘタウマ感覚の妙味を逸早く先駆けた 「説明つき左手漫画なのだ」

2021-12-21 18:51:02 | 第5章

1980年代、蛭子能収(代表作/『わたしはバカになりたい』、『地獄に堕ちた教師ども』)や、特殊漫画家の根本敬(代表作/『怪人無礼講ララバイ』、『タケオの世界』)に代表されるオルタナティブ系作家が、新たな副次文化の担い手として、一部の好事家から熱い注目を集めることになるが、それらのヘタウマ感覚の妙味を逸早く取り入れ、一本の漫画として描き上げた先駆的作品が、次にあげる「説明付き左手漫画なのだ」(73年48号) ではないだろうか。

この作品では、次のような巻頭言で始まり、いきなり読者の虚を衝く。

「アシスタント全員と五十嵐記者は 十月十七日の朝 右手を骨折してしまいました(ほんとはウソ‼)

したがって今回の〝バカボン〟は左手でかいたので絵の表現が思うようにいかず絵に説明をくわえました

けっして 手をぬいたわけではありません‼」

大富豪の金野有助氏の邸宅に遊びに行ったバカボンが、オープンカーをプレゼントされたり、フルコースの料理をご馳走になったりしているうちに、金野氏の養子になりたいと思うようになり、金野氏もまた、バカボンの希望を真に受け、本気で我が子として受け入れようとする。

だが、何でも買ってくれるなら、ワシも養子になりたいとばかりに、パパが乗り込んで来て、事態は更に厄介な方向へと発展してゆく。

そんなエピソードがヨレヨレの描線で描かれ、その拙いタッチを補うべく、細かな心理説明が注釈として加えられる。

例えば、バカボンがご馳走を頬張るシーンでは、金野氏に好かれようと、わざとらしく子供っぽく振る舞うバカボンに対し、「金野氏 急変したバカボンの態度にシラケるが、思わずつられてわらってしまう」と説明が加えられ、パパとバカボンがどちらが金野氏の養子になるか、親子喧嘩を始めた際には、「これこれ、けんかはやめなさい‼」と仲裁するものの、「ほんとはどっちか死ぬまでやればいいのに‼ たいくつしのぎになるのに‼ と思うが紳士のフリをして」と、そのダークな心境を浮かび上がらせている。

また、話の流れを断ち切り、突然、右手に包帯を巻いた赤塚が登場し、「読者のみなさん さぞ読みづらくてお腹立ちのことでしょうね?」と語り掛けるが、「と赤塚 口ではそういいながら「フン‼ また らくにかきとばせるアイデアを思いついてよかったよかった」と心で思ってる」という、エグい心情を吐露した講釈が綴られるなど、明け透けに読者を煙に巻いてゆく。

このように、本来漫画では説明し切れない人間の心の奥底を浮き彫りにし、笑いへと転じるその発想に、赤塚の先鋭的センスの一端を見ることが出来る。

尚、この元祖ヘタウマ漫画は、赤塚も大層気に入ったと見え、次週作品「絵の表現のヘタくそなのだ」(73年49号)でも、このような前書きを寄せ、再度執筆している。

「前の回で「説明いり左手漫画」をかいたら 赤塚不二夫が「これはおもしろい‼ もう一度やるべきだ」といったので 今回もやります

ただし こんどは ぼくとアシスタント全員が 両手を骨折したので(もちろん ウソだが)右足でかきます

足だと絵が思うようにかけないので くどいほど説明がつきます

ではどうぞ‼」

このヘタクソ版『バカボン』は、一つの主題として、微妙なアレンジを加えながら、更なるバリエーションを追及し、楽屋ネタと融合したエピソードをその後次々と生み出してゆく。


幾何学的抽象を極限にまで推し進めたミニマリズムの概念 「□□□」

2021-12-21 18:50:28 | 第5章

「□□□」(絵の為表記不可)は、先程のタイトルの説明からも連想されるように、吹き出しの台詞に絵文字が綴られ、本来絵が入るべきコマの中には、登場人物の行動や背景などが、タイポグラフィーで説明されているという、もはや漫画の領域を完全に踏み越えた本末転倒エピソードだ。

まず、一コマ目は、画面右上のスピーチバルーンの中にバカボンの顔が描かれ、その傍らに「パパ あぐらをかいて ハナクソをほじりながら」とある。

そして、その文字の左横には、「バカボン 小指一本で サカだちしながらハサミで 足のツメをきっている」と、やはり文字だけで書かれ、画面左上のスピーチバルーンには、大きな南の文字とパパの顔が描かれている。

つまり、「バカボン」「なんだいパパ」という、何の変哲もない会話ですら、文字と絵の場所を転換するだけで、このように面倒臭い有り様になるというギャグなのだ。

パパとバカボンが外に出た場面では、背景画の代わりに、街、太陽、交番と太いゴシック体の文字が綴られ、「自転車にのったウマがハンドルをにぎれなくてこまっている」だの、「車にひかれたペタンコのネコが風にヒラヒラとんでいる」だの、街の異様な状況が、小文字で事細かに説明されている。

また、場面転換したラーメン屋のシーンでは、「ハダカの天地真理とハダカの浅田美代子がでてきたところ」と、恐らく、リアルな描線で画稿に起こせば、少年誌ではタブー扱いされるであろう淫靡性を誘発する記述も、臆することなく書かれており、読む者を一瞬ドキリとさせる。

しかし、こうした描くには憚る猥褻なシーンや、絵では具体的に描写し難いシュール光景などを文字に変え、ナンセンスに特化した枠組みを作り上げることにより、本来の心持ち悪い異物挿入感を緩和し、その超越論的世界に対する漫画的イメージを、読者の脳内に不可避的に想起させる働きを放つのだ。

因みに、ラストページで、通常の漫画絵のコマへと戻るこのエピソードは、パパとバカボンが、散歩から戻ってくると、泥棒に入られていたため、部屋の中が殺風景になっているという、何処までも人を喰った落ちが用意されており、手抜き行為そのものをギャグとして完遂しつつも、幾何学的な抽象を極限まで押し進めてゆくミニマリズムと同質の概念を、前述の「これはイケない‼」同様、その根幹に見ることが出来る。


見開きの衝撃を効果的に演出した傑作 「実物大のバカボンなのだ」

2021-12-21 18:49:26 | 第5章

このように、従来の漫画表現における約束事さえぶち破る、手抜きと実験的手法のアンチノミーを備えたエピソードによって、笑いとも興奮ともつかない不可思議なカタルシスを読者に喚起してきた『天才バカボン』だったが、その中でも、今尚、漫画ファンの間で、広く金字塔の如く語られる挿話が、「実物大のバカボンなのだ」(73年24号)、点とサイと逆さに描かれたカバと盆の絵を繋げて「天才バカボン」と読ませる「□□□」(絵の為表記不可)(73年47号)、「説明つき左手漫画なのだ」(73年48号)の三タイトルではないだろうか。

「実物大のバカボンなのだ」は、ページ一杯にパパとバカボンの顔が迫るド迫力漫画であり、この時、ブレーンストーミングに同席していた長谷邦夫は、自著で赤塚が本作を執筆するに至った経緯を、次のように記している。 

「二日で二本のアイデアと下絵を仕上げなければスキーに行けない。せっぱつまった赤塚は、担当の五十嵐記者に、

「実物大で描いちゃおうか」 

と提案した。

「実物大って?」

ぼくは「マガジン」をひろげて、自分の顔を当てがってみた。顔がちょうどかくれる。

「こういう感じかね……」

「うん、デッカイ画面に顔を描けば、仕事がすぐ終わるんじゃないの」

ぼくらは笑った。実物大で描けば見開きに人物の顔ひとつ。これはスゴイ。

「いいでしょう。やってくださいよ、先生。全部実物大でも構いませんよ」

担当記者(名和註・五十嵐記者)は太っ腹だった。

「でもアイデアが面白くないと、編集長と読者が怒ります」

「いや、実物大ってことが面白いんだよ。変なアイデアをくっつける必要はないの」

と赤塚は言う。その通りである。」

(『天才バカ本なのだ‼』)

このエピソードが実物大で描かれたのは、パパとバカボンが「バカボン」「なあに?パパ」と会話を交わす、見開き2ページずつの計4ページのみで、5ページ目と6ページ目の見開きでは、顔を3分の2にカットされたパパとバカボンが片ページずつ登場。「わしは金曜日の三時に死ぬと予言されたのだ」「えっ? それほんと?」と、衝撃的なプロローグをもって、本編へと雪崩れ込んでゆく。

既に、三コマで6ページを使った案配だ。

しかし、この直後、「だめだ‼だめだ‼日本初の「実物大漫画」に挑戦しようと思ってかいてみたが、これじゃ 話がぜんぜんすすまないうちにページがなくなってしまう‼失敗だった‼」と、赤塚のコメントが掲載され、7ページ以降は、通常のコマ割りで、ドラマが展開する。

折角、金を払って占ってもらったのだから、外れたら悔しいと思ったパパが、明日の金曜日に死ぬのなら、それまで何をしても死ぬことはないだろうと考え、わざと車に轢かれようとするが、突然車がエンジンストールを起こし、死を逃れる。

調子に乗ったパパは、今度は石を身体にくくり、池に飛び込む。

だが、この時パパは死んでしまう。

パパの死亡時刻は午後三時。

実は、占い師が、木曜日と金曜日を勘違いしていて、明日ではなく、今日が金曜日だったのだ。

つまり、パパは死に、占いは見事に的中したという、非常に皮肉めいた落ちが付いたエピソードだ。

尚、エピローグは、コマが足りなくなり、コマをどんどん小さくすることで、通常の『バカボン』と同じコマ数を確保するという、荒業を披露している。

このナイスなフォローは、長谷邦夫の提案によって付け加えられたそうだ。

ただ、惜しむらくは、この実物大という斬新なアイデアも、単行本収録されると、絵が縮小されてしまうため、出会い頭のインパクトが損なわれてしまうことだ。

この実物大漫画の面白さを体感するには、掲載誌を読んで頂くほかない。

この見開きの衝撃を効果的に扱ったエピソードの一つに、「恋の季節の写真なのだ」(73年25号)がある。

目ん玉つながりが、カメラ小僧が撮って来た犬の顔のドアップ写真を、グラマラスな女性の裸体と勘違いし、性的な興奮を抑えきれなくなるといった、そこはかとない痛々しさを湛えたエピソードで、他の写真をパズルのように組合わせると、犬の全体像を写したフォトグラフになるという、読む者を驚倒させる、極めてショッキングなトリックが最後に落ちとして用意されている。

この奇想に満ちたアイデアは、本作が発表された時代から遡ること凡そ十八年前、「漫画読本」(56年2月号)に転載された作者不詳のアメリカのナンセンスコミックから拝借したものだ。

1ページ目に、「心やましき者は」というコピーとともに、ページ中央が窓を型どって切り抜かれており、その窓を通すと、3ページ目の絵の一部が女体に見えるという仕掛けが施されている。

そして、ページを捲ると、「この犬を見よ!」と題されたコピーと一緒に、女体に見えた筈のその絵は何と、犬であることが分かるという、騙しのテクニックが見事に決まった傑作だ。

赤塚は、かつてこの作品を見て受けたインパクトを、何とか現代風にアレンジ出来ないものかと、相当頭を捻ったそうな。


多種多様な『バカボン』ワールドを包括的に捉えたショートショート・シリーズ

2021-05-22 21:27:51 | 第5章

 

週刊誌連載では、終焉期を迎えることとなる第四期『バカボン』は、毎週5ページという限られたスペースの中に、ドラマをコンパクトに凝縮したギャグ漫画版ショートショートといった体裁のシリーズであるが、短いページ数ながらも、多種多彩な『バカボン』ワールドの全体像を包括的に捉えた好企画で、赤塚らしい先鋭的表現の領域を歩んだ挿話も少なくない。

パパがたい焼きで巨万の富を得た先輩の大邸宅に遊びに行く「億万長者の家をご訪問なのだ」(76年14号)は、パパが先輩の邸宅の庭番に、「ご主人にバカボンのパパがきたとつたえてください」と伝える、何の変哲もない平凡な導入部から始まる。

だが、庭番が女中に「女中さん バカボンファーザーがきました」と耳打ちしてから一転、女中は女中頭に「バカファーザーがおこしになりました‼」と告げ、ドラマはおかしな流れへと変転してゆく。

女中からその言葉を受けた女中頭は、執事に「バカファーザーがおころしにきました‼」と緊迫した面持ちで報告する。

大慌ての執事は、執事長に「バカファーザーが殺しにきました‼」と伝えるなど、伝言内容は、更にエスカレートし、秘書室長の耳に入った時は、「ゴッドファーザーがご主人を殺しに‼」に変わり、その言葉は夫人を経由し、殺人予告として、先輩の耳に入る。

怒った先輩は、「よーし こっちこそ やつのドテッぱらに風穴をあけてやれ‼」と夫人に伝える。

その言葉は、秘書室長に「ようし こっちこそ風穴をあけてやるのよ‼」と伝言され、今度は「「ようこそ」と風穴をあけるんだ‼」と執事長に伝えられる。

そして、執事長から「ようこそだ‼風穴をとおすんだ‼」と報告を受けた執事は、女中頭に「ようこそきたなと風穴をとおせ‼」と託け、そのメッセージは「ようこそきたなととおすのよ‼」と歪曲され、女中へと取り次がれる。

最後に女中から「ようこそおいでくださいましたとおとおしするのよ」と耳打ちされた庭番が、「ようこそおいでくださいました‼どうぞ‼     ご主人がおまちです」と、より丁寧な言葉をパパに告げ、邸宅へと案内する。

テーマから大きく外れつつも、最後には、再び同一のテーマへと帰納する循環と反復の相互浸透を違和感のない笑いへと置換してゆく作劇上のテクニックが、既成のギャグ漫画の表出水準を上回る精度を殊の外際立たせており、通常の赤塚ナンセンスの発展形としての刻印を明瞭化せしめている。

針小棒大を主題に、現代人の頽落ぶりを炙り出したファルスは数あれど、これほど簡潔で、またアイロニーに満ちた類型提示は見たことがなく、地味ながらも、本作に注がれたそのエスプリットは至りて絶妙だ。

「アレをのみたいのだ」(76年26号)は、アレを飲みたい、飲みたいと渇望するバカ大の後輩に、パパが困惑するエピソードで、結局何が飲みたいのか、分からないまま落ちを迎えるが、その落ちのコマを透かして見た瞬間、後輩の飲みたいものがそこに浮かび上がるという、漫画の方法論の拡大にも繋がる見事なトリックが仕組まれており、これまた、落ちが突発的なファンタジーへと帰結してゆく傑作だ。

書籍媒体ならではの特質をギャグへと組み換えたそのギミック性は、物語の予定調和さえも覆してゆく脱漫画的な浮遊感覚を強く滲ませており、読者に鮮烈な驚倒を指し示すであろうメソッドであることは間違いない。

こうした予期せぬ混乱と驚きを爼上に乗せ、書物という物質そのものの意味作用を弄ぶギャグは、この時既に、多方面に渡り展開していた。

バカボンのパパが、ドラマの本筋とは関係なく、今週限りで死んでしまうという寝耳に水のプロローグから始まる「神様と約束なのだ」(73年11号)は、漫画評論の分野において、語られる頻度こそないに等しいものの、掲載誌「少年マガジン」のカバーからいきなり『バカボン』が始まるといった、ビジュアル的訴求性を最大限に活かしたパフォーマンスを、この時披露しており、ギャグ師・赤塚の武勇伝の一端として、未だコアなファンの間で語り継がれている。


キッチュとアバンギャルドの二律背反 壮大なギャグの実験場となった「10本立て大興行」

2021-05-22 13:55:26 | 第5章

キッチュとアバンギャルドの両概念を、同一の合理性を伴い、融合させたファースの見本市、その名も「10本立て大興行」(72年51号)は、「赤塚不二夫ワンマンショー」と銘打ち企画された、壮大なギャグの実験場としての畏怖さえ感じさせる、空前にして絶後のナンセンス超大作だ。

70ページにも及ぶ十本立てのエピソードの中で、特に異端性を放つのが、「下落合タイムス」や「事実小説 フジオ・プロにタコヤキを見た」といった、本来の漫画とは異なる趣向で読者にアプローチしたユーモアページである。

近隣住民しか知り得ない商店の広告や、地域交流を主眼としたマニアックなトピックが新聞記事に準え、臆面もなく掲載されたり、通常ペラと呼ばれる20行×10行の二〇〇字詰め原稿用紙六枚に渡って、挿し絵付きナンセンス小説がダラダラ書き綴られていたりと、いずれも、非存在の領域から更なる笑いの有効性を模索した、赤塚の創作に対するフロンティア精神の発露となっている。

尚、「フジオ・プロにタコヤキを見た」は、一応ユーモア小説の体を成してはいるが、「五十嵐記者は今朝からユウウツだった。重い百キロぐらいもあろうか、とにかく重いキンタマ、いや頭をゲタで出来た枕から上げたのはちょうど時計の針が7時を指してる午後九時だった。」といった支離滅裂なプロローグが全てを物語るように、内容らしい内容は全くもってない。

とはいえ、漫画や小説本来の物語性からも離反した特異な価値を持つこの抽象領域には、赤塚が求める脱論理性を存立基盤に据えた不条理感覚が、至るところで散見出来るなど、決して軽んじては見れない。

また、同じく「10本立て大興行」に収録されている「フジオ・プロ実験漫画研究会」なる架空の団体が執筆した「これはイケない‼」では、飽きっぽい部員が描いた漫画という設定で、バカボンとその友達の身体の一部や背景がどんどん消えてゆき、最後は二人の目だけが残り、全ての物体が跡形もなく喪失してしまう、ミニマルアートの最終形態とも言うべきフリーダムな奇想がドラマ全般において貫かれており、定型の構成を持たない抽象芸術ならではの視覚的効果を追求した、アーティスティックな破壊的愉悦がそこにある。

このように、原作者自らがトリックスターとなって、読者の想像力に過激な挑発を繰り出してゆくギャグは、作者と読者の気持ちが一体化して初めて成立するものであり、それを翻然として悟った赤塚は、この後更に、漫画を描くという営為そのものを笑いへと変容させてゆく。