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文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ゲームブック的手法を試験的に取り入れた先駆作 「イライラヒリヒリごくろうさまなのだ」

2021-12-21 18:55:10 | 第5章

さて、「下品で読みやすい漫画なのだ」に話を戻すが、本作で、ナシとだけ書かれたコマは、全十九コマ。但し書きの文字ゴマも含めれば、そのパディングスペースは、凡そ3ページ分に該当する。

赤塚は、何故このような、ただひたすらナシと綴っただけのコマを幾つも羅列したのだろうか。

その答えは、本作が発表される前号に掲載された「イライラヒリヒリごくろうさまなのだ」(73年30号)に隠されている。

1980年代後半、パラグラフを読者が選択し、サイコロ等の乱数を使って、複数のドラマや結末を追ってゆくゲームブックが、小中学生の間で大人気を博したことがあったが、この「イライラヒリヒリごくろうさま」は、そうしたゲームブックの手法を他に先駆け、試験的に取り入れた画期的な一編だ。

ストーリーは、指名手配中の時計泥棒・針野チックタック(60年代に活躍した若手漫才コンビ・晴乃チックタックのもじり)が、目ん玉つながりに電話で自首し、からかっては翻弄するといったもので、然程入り組んだ内容ではない。

だが、コマにはアルファベットがマークされている以外にも、ページごとに、〇〇ページのA、〇〇ページのBと指定の順番が振られており、読み進めるうちに、ページを行き来しなければ、ストーリーを追えないという、実に練りに練った趣向が凝らされているのだ。

流石に短いページ数では、ストーリーや結末に分岐性を持たせることは無理にしても、読者をまごつかせるには、充分なアイデアだ。

そうした読み難いエピソードを描いたことへのお詫びとして、大義名分的なギャグを込め、殊更読みやすさを強調した手抜き漫画を執筆したのだろう。

尚、ゲームブック人気真っ只中の1988年、『赤塚不二夫劇場』(アドベンチャーノベルス、原作/喰始・絵/赤塚不二夫)なる便乗本が、JICC出版局よりリリースされたことも、この場にて追記しておきたい。


盲目的な信仰意識に見る教育の歪みを戯画化 「「たたえよ鉄カブト」」

2021-12-21 18:54:20 | 第5章

「「たたえよ鉄カブト」」(74年40号)では、鉄カブトに常軌を逸した傾倒を示す軍事オタク少年が登場。

バカボンの同級生である熊田少年は、授業中、先生の問い掛けに対し、全て「たたえよ鉄カブト‼」、もしくは「イギリス軍の鋼鉄製鉄カブト‼」「ドイツ軍パラシュート部隊用鉄カブト‼」と、鉄カブトの種類を連呼したり、放課後、バカボンが、家に遊びに来るよう誘っても、「第二次世界大戦中のイタリア軍鉄カブトは イタリア軍の士気をたかめるためには スマートな装備をとかんがえたムッソリーニのアイディアでつくられたが ねらいはあたったようだ‼」と、全く噛み合わない返答をし出す始末なのだ。

バカボンが、熊田少年をパパに引き合わせても、その暴走ぶりは続き、遂には、流石のパパまでもが熊田少年に辟易してしまう。

その夜、熊田家では、父親が、我が子がこのような軍事オタクになってしまったのも、その昔「野口英世」の伝記を買い与えたら、中身が鉄カブトの専門書だったことを反芻し嘆き出す。

その頃、某鉄カブト研究所では、一人の研究員が「わたしは野口英世のようなりっぱな医学者になります‼」といい、所長らしき人物が「鉄カブトの専門書の中身が野口英世だったからって なにもそこまで・・・・」と、研究員をたしなめるところで、ドラマの幕は閉じる。

野口英世とは、苦学者にして博愛に生きる、戦後民主主義の教育理念を一身に体現した存在であり、鉄カブトという、戦前の軍国主義を象徴するキーワードとは、表層的には相反する概念を持つ筈であるが、その定義が、定型的、画一的であるほど、二律背反的な意味合いを示唆するといった正鵠を、この作品で赤塚は射ているのだ。

つまり、客観性なき、盲目的な信仰意識を拠り所とするなら、戦後民主主義教育も、自己が意識するに先立つ本来の人間教育においては、戦前の軍国主義教育と同一視して然るべき歪みを包含しているという一つの警鐘だ。

余談だが、この熊田くんにはモデルがいて、当時、赤塚番を担当していた某漫画雑誌の記者にそのヒントを得たキャラクターだと言われている。

その記者は、フジオ・プロに訪れる都度、第二次世界大戦当時にナチス親衛隊が使用していたサイドカー付きバイク(BMW―R71)に乗って来ていたというのだから、赤塚の食指が動いたのも、さもありなんといったところだろう。

このように、赤塚漫画には、一見突拍子もない特性を湛えたものでありながらも、自らの周辺に蠢く有象無象の人物を戯画化したキャラクターが多く登場する。


諧謔的観点よりウーマン・リブ運動を一笑に伏した 「ウーマン・リブのでかい原点なのだ」

2021-12-21 18:53:11 | 第5章

「我々は この一編をもって 戦闘的日常生活への招待状へと考え 段階的高揚と一点突破の全面展開において マヌーバー方式とマヌーケー方式で 大衆次元への埋没をはかりたい」と、扉ページに書かれたアジ演説風の激文が多大な印象を残す「ウーマン・リブのでかい原点なのだ」(72年29号)は、当時、日本でも大いに幅を効かせつつあったウーマン・リブ運動に対し、諧謔的観点より一笑に付した一作だ。

1960年代後半、女性が置かれている社会的差別の撤廃を訴えたウーマン・リブの波は、ベトナム反戦や安保闘争等、スチューデント・パワーが衰退してゆく中、やがて日本でも定着し、美容整形や中絶ピルの解禁等も、女性解放運動におけるある種の造反有理として、一部の間で捉えられていたが、我が国に根付いたウーマン・リブの現実は、女性への不当な社会的束縛や、男性社会における隷属的地位からの解放という、フェミニズム運動本来の目的から乖離した御粗末極まりないものだった。

そこで、赤塚はそうした似非ウーマン・リブをシンボライズするキャラクターとして、バカ大二年生のミヨちゃんを本エピソードに登場させ、自尊感情と垂直思考に囚われた彼女達の現実の闘争を笑い飛ばした。

何しろ、このミヨちゃん、ケーキよりもラーメンを食べたいと言うべきことを「ナンセーンス‼」「ケーキは独占資本主義のあまい幻想だ‼」「むしろレーニンにかえれ‼」「ラーメンにかえれ‼」と言って退ける愚蒙ぶりなのだ。

だが、ドラマ終盤では、シルクハットと黒マントに身を包んだ男が現れ、マントを広げると、男性シンボルが露となり、それを見たミヨちゃんが、途端女になってしまうといった落ちが付く。

ジーンズ姿で、高踏的な言葉を吐き散らし、胡座をかいて男と渡り合うことが、ウーマン・レボリューションであると錯覚しているという、イロニー渦巻くギャグだ。

この作品のラストには、「ウーマン・リブのみなさまへ‼ 抗議先はフジオ・プロまで」という一文と一緒に、当時の代表住所とテレホンナンバーまでご丁寧に明記されており、この掲載号が発売されるやいなや、予測通り、フジオ・プロの電話は一晩中鳴り響くことになる。

しかし赤塚は、そんな抗議の電話に対し、生来の好奇心の強さから、面白がって応答しつつも、「ぼくは、アメリカのリーダーを知っているが、そんなんじゃない」、「こんなぼくの作品を読んで笑い捨てることが出来ない位、ウーマン・リブ運動はチャチなものなんですか?」と、自身の真摯且つ忌憚のない所感を、電話越しから彼女達に伝えたという。

進歩的と自ら誇りながらも、笑いのルールには感応出来ない。

その程度の頭脳集団で、日本のウーマン・リブ運動が成長し、根を下ろしてゆくとは、到底考えられなかったというのが、この時抱いた率直な感想だったと、赤塚自身、後に述懐している。


虚構の中の超現実を臨界点に据えたメタフィクション エスタブリッシュメントへのクリティシズム  

2021-12-21 18:52:26 | 第5章

「夏はやせるのだ」(73年34号)は、真夏日が続く中、パパとバカボンがどんどん夏痩せしてゆき、最後には、顔も含め、身体全体が棒状の姿となり、誰が誰だかわからなくなるという、虚構の中の超現実を臨界点に据えた究極のメタフィクション。

喧嘩したパパとバカボンの身体が、凧糸のように縺れ合ったり、夏痩せした動物達もまた、簡略画の奇々怪々たる趣きで描かれていたりする、お約束の手抜きギャグを披露しつつも、ラストでは、夏太りに悩む赤塚が汗だくになりながら、「夏やせしたいよう‼」と気を滅入らせている、現実の中での憫笑を湛えた落ちによって、ドラマの虚構性を転覆させるという、極めて高度なギャグを局在化せしめている。

「下品で読みやすい漫画なのだ」(73年31号)は、コマにひたすらナシと書き、ページ数を水増しするという、ゲリラ的ギャグ精神の発露というよりも、ただ単に、公然と手抜きをやって退けただけといった風合いが頗る強く、長い『バカボン』史においても、陥没点的な印象を拭えない作品だ。

さて、そんな本作のストーリーであるが、慶應の幼稚舎から、江上トミ料理学校、ケンブリッジ大学を経て、王室の侍従長を務めたという華麗な経歴を持つ元エリートの男が、それまでの上品な生活に嫌気がさし、下品な人間になろうと、卑猥語を口にし、鼻クソをほじったり、放屁を繰り返したりと、形だけの下品を模倣しては、パパやバカボンを困惑させるという、停滞型のドラマ構造を基盤とした極めてシンプルなものだ。

それ故、パパと元エリートのやり取りもまた、実に要領を得ないチャイルディシュなもので、その語り口に、まだ品位が垣間見れるといった話から、元エリートは、「上品はいやだ‼」と怒鳴り喚き、パパに自らの中にある品性を追い出すよう、頭を思いっ切り殴らせる。

パパ(殴る)「どうだ?」

元エリート「朝日ジャーナル」

パパ(殴る)「どうだ?」

元エリート「シャンゼリゼ」

以降、パパが殴り付ける都度、元エリートは、「少年サンデー」、「少年マガジン」、「少年ジャンプ」、「アサヒ芸能」、「週刊大衆」、「土曜漫画」、「まんが№1」と雑誌名を羅列し、「そこまでおちなくてもいいのだ」と、パパにたしなめられる。

そこに、心配したバカボンが目ん玉つながりを連れてくるが、状況を飲み込めていない目ん玉つながりは、「イッパイなぐったので ワレタかもしれないといってるのだ」というパパの言葉に、「ナヌ⁉オッパイ? ワレメ?」と反応し、「ちがう‼ケガしたらしいのだ‼」と説明するパパに、「ナヌ⁉ワレメに毛がでた⁉」と、淫猥な言葉と聞き間違え、激昂する。

そして、ラストのコマでは、目ん玉つながりが「いやらしいやつらめ‼タイホする‼」と、拳銃を乱射し、パパ、バカボン、元エリートが、「あの人が下品の王さまなのだ‼」と言いながら、逃げてゆく。

このように、徹頭徹尾ドタバタに終始しているため、一見、真の下品とは何かという明瞭な答えを呈示していない、イマイチな出来栄えの作品と思われがちだが、実は、ラストでも名指しされているように、何よりの下品は、吐き捨てられた言葉を全て淫靡なものに履き違える目ん玉つながりであり、あまねく官能表現を、猥褻として定義付け、法に裁きを委ねようとする国家権力の恣意性にこそあるという、赤塚らしい反骨に満ちた見解が、それとなくオブラートに包まれているのだ。

この作品が描かれた1973年、その前年より、日活配給のロマン・ポルノ映画の諸作品や、「月刊面白半分」に掲載された永井荷風の戯作『四畳半襖の下張』が、性的道義観念に反し、刑法175条を触法するものとして摘発を受け、刑事裁判へと発展する事件が起こっていた、まさにその渦中にあった。

つまり、赤塚はこのエピソードを通し、官憲の性表現に対する独善ぶりを思いっ切り皮肉って見せたのだ。

『天才バカボン』は、大学生は勿論、中堅サラリーマンや、文化人等の知的階級層の間でも、市民権を得た作品であったため、このように、脱力感に満ちた笑いに軸足を置きながらも、同時期の『ギャグゲリラ』とも歩幅を合わせ、社会的事柄やエスタブリッシュメントへのクリティシズムをそれとなく唱えた作品も少なくない。


三次元との並列世界 劇中劇としての『天才バカボン』

2021-12-21 18:51:43 | 第5章

「まじめにやるんだ近藤さん」(74年6・7号)は、アシスタントの近藤(洋助)くんが描く背景の絵に難癖を付ける怪盗・パンパンを狂言廻しに、ヘタウマ絵の味わい深さを貪欲に取り入れたギャグとノーマルな赤塚タッチを、総体的な画調として溶け合わせた傑作の一本である。

怪盗・パンパンは、金庫破りに向かう途中、夜空の星の描き方に文句を呟いたり、侵入するビルのデザインに満足したりと、アシスタントにしたら、煩わしさこの上ないキャラクターとして登場する。

何しろ、褒めたビルのドアの鍵穴が、自分が用意した鍵には全く合わず、近藤くんに、鍵穴の絵を描き直すよう要求しだす始末なのだ。

その後も、金庫室の〝庫〟の文字が間違っていることを指摘されたり、面倒なことばかり言われているうちに、遂に、近藤くんは嫌気が差してしまい、金庫室から逃げられないよう、ドアを小さく描き換えたりと、パンパンを当惑させる背景ばかりを描いてしまう。

仕方なく、パンパンはビルの窓から逃走を図るが、今度は、一階だった筈の金庫室が、いつの間にか二〇階になっている。

全ては、近藤くん個人の感情の縺れによるものだ。

盗んだ大金を二〇階下に落としてしまったパンパンは、遂にぶちギレ、近藤くんに解雇処分を言い渡す。

そして、田舎に帰った近藤くんに代わり、次のコマから、アシスタント見習いが、後釜として背景を担当する。

だが、見習いだけにまともな絵が描けず、それどころか、遠近法もろくに知らないため、二〇階下の大金入りの風呂敷が手を伸ばして拾えるという乱筆ぶりなのだ。

落ちは、パンパンが盗んだ金を使って、買い物をしようとするが、出したお札が完全に落書きの絵で描かれたものであるため、店主から「こんなへたなお札は たとえ漫画の中でもつかえませんよ」と言われ、ガックリくるというもので、全編に渡り、劇中劇の如くドラマが展開してゆく。

このような漫画という二次元の枠組みを、恰も三次元との並列世界のように見立て、登場人物達が暴走してゆく物語構造は、「天才ハカホン」(73年26号)でも活用されている。

このエピソードは、『バカボン』世界の住民が全員役者というスタンスで、物語が進行する異色譚で、今回、初めて警官役で漫画に出演する、若い〝漫画俳優〟を主役としてフィーチャーしている。

この新米警官役の俳優、極度に緊張する余り、スピーチバルーンも、コマの真ん中という酷く調子の外れた場所に吹き出す始末で、「は は はじ はじ はじめて漫画に出演したもんで・・・・」と震えながら、汗だくで喋る大根ぶりなのだ。

おまけに、立ち位置まで把握しておらず、前に出過ぎて、絵面が顔面ドアップになってしまい、「カメラのすぐまえにたつやつがあるか‼」と、目ん玉つながりに首根っこを掴まれてしまう。

彼は、通行人役のエキストラに道案内をするという、取るに足りないアクトですら、オーバーアクションで演じてしまい、これにはバカボンや目ん玉つながりも大爆笑。役者として身を立ててゆく自信を失った彼は、「ぼく・・・・この役をおろさせていただきます・・・・」と言い残し、故郷に戻ろうとするが、その時突然、泥棒に入られたとの通報を受ける。

逃走中の泥棒を無我夢中で追跡した彼は、格闘の末、泥棒を見事に逮捕。カメラを意識しない自然体のまま、演技をすればいいということに気付き、俄然自信を付け出す。

だが、その過剰な自信が慢心へと変わり、すっかりスター気取りとなった彼は、「このつぎは ちばてつやの新連載漫画に出演してみたいなあ‼」などと、舐めた口を聞き出し、揚げ句の果てには、チョイ役は嫌だから、自分を主役にさせ、『バカボン』のタイトルの変更や、ギャランティのアップを要求し、翌日から『バカボン』の出演をボイコットする。

「まったく 近ごろの若いやつはすぐのぼせやがって‼」

「漫画をいったいなんだと思ってやがるのだ‼」

「ねえ‼ぼくたちだって長い下づみがあってこそ スターになれんだよね‼」と、怒り心頭の目ん玉つながり、パパ、バカボンの会話によって締め括られる。

現実世界でも蔓延る勘違い人間の如何ともし難い増長ぶりを揶揄した落ちも痛烈で、ファルスの定型を踏まえたドラマトゥルギーも心憎い。

因みに、「説明付き左手漫画なのだ」に端を発したヘタ絵漫画の系譜は、「まじめにやるんだ近藤さん」以降、読者から募集した似顔絵に台詞を加え、そのまま一本のエピソードとして仕立てた「読者諸君のにがお絵でつくったバカボンなのだ‼」(76年5・6号)や、同様に、複数の赤塚番記者に描かせた絵で、丸一本の漫画にでっち上げた『天才ヘタボン』(「ビックリハウスSUPER」77年1月10日創刊号)といった作品へとリンクする。

これらもまた、赤塚なりの新たな笑いのエレメントを追及した実験的エピソードの一つに数えられるが、いずれも、プロが描いた絵とは異なるため、ヘタウマならぬヘタヘタ漫画と形容すべき下手物であり、記録的価値を越えたプラスアルファがあるとは言い難いのが残念なところだ。

このように、前衛と称し、可変性に富んだシュールな表現手法を類型化する中、これまで取り上げたどの作品よりも、大胆に、それも作為的に手抜きをやって退けた、狼藉の如しエピソードもあった。