いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

福島県桑折町 戦国伊達氏の本城 桑折西山城跡

2024年06月24日 15時58分00秒 | 福島県

国史跡・桑折(こおり)西山城跡ガイダンス施設の展示。桑折大かや園。福島県桑折町万正寺字大榧。

2024年5月26日(日)。

14時30分ごろ、国史跡・阿津賀志(あつかし)山防塁「下二重堀地区」の見学を終え、16時に閉まる戦国時代伊達氏の本城であった桑折西山城跡ガイダンス施設(月曜日休み)へ向かい、新幹線ガード下を進んで、14時45分頃桑折町老人福祉センター「大かや園」の天然記念物・「万正寺の大榧(おおかや)」の大樹がある駐車場に着いた。玄関を入った正面の部屋がガイダンス施設になっている。

千田嘉博氏と高橋英樹氏の写真と直筆サインが飾られており、心を和まされた。2021年10月に全国山城サミット桑折大会が開かれたという。桑折西山城跡に関する小冊子・見学マップなどのパンフレットを入手して、展示を見たあと、車まで登城口駐車場のある観音寺まで向かったが1分もかからなかった。車は奥に1台停まっているだけだった。登城口手前には、1週間ほど前に城跡麓にクマが目撃されたという注意看板があったが、登城口の扉を開閉して登城道を登り、いったん町道と合流しながら、大手門跡に着き、本丸跡に登ったのち、往路を戻った。見学時間は40分ほどであった。

桑折西山城は、桑折町の西方標高193m高館山(たかだてやま)を中心に位置している。伝承によれば、1189年(文治5年)の奥州合戦の戦功によって、伊達郡を与えられた常陸入道念西(伊達氏初代伊達朝宗)が居を構えたと言われている。また、応永7年(1400)から9年にかけて鎌倉公方に背いだ9代伊達大膳大夫政宗が立て籠もって上杉禅秀の攻撃をしのいだ赤舘もこの西山城と言われている。

大永2年(1522)奥州守護・奥州探題となった14代伊達稙宗は、1532年(天文元年)に居城を梁川城(福島県伊達市)から桑折西山城に移した。西山城が現在の規模に築城されたのはこの時で、西山城は文字通り陸奥国守護の府城となった。

伊達稙宗は1536年(天文5年)には分国法「塵芥集」も制定しており、桑折西山城の本丸建物で発布されたとされている。その71条には「みちのほとりにて見つけ候ひろいものの事、にし山のはしもとにふたをたて……」とみえており、この西山城とその城下が伊達氏分国の中心であったことをよく示している。

1542年(天文11年)、稙宗の三男・伊達実元の越後上杉氏への入嗣問題を巡り、稙宗の嫡男・15代晴宗が稙宗を西山城へ幽閉するという事件が起きた。この事件を契機に、伊達氏は稙宗方と晴宗方に分かれて内紛状態になり、さらには南東北の諸大名も巻き込んだ大規模な内乱状態となる(天文の乱)。

この内乱は約7年続いたが、この間西山城では何度も両軍の攻防戦が展開された。戦況はしだいに晴宗方が優位となり、1548年(天文17年)に将軍足利義輝の命によって両軍は和睦し、晴宗が伊達氏家督を継いで稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠居した。また、晴宗も居城を米沢城(山形県米沢市)に移し、西山城は破却された。

ただし、城域西側の西館・中館は、廃城になった後、戦国時代末期以降に戦闘用の砦として再構築されている。

桑折西山城は、東側の高舘とよばれた本丸・二の丸と数段の腰曲輪と、鞍部を隔てた西側の中舘・西舘とよばれた主に4つの曲輪を中心とした曲輪によって構成され、東西1km、南北500mの規模をもつ。城の北面から東面へ流れる産ヶ沢川は天然の堀として利用され、城から川にかけては急崖である。比較的、傾斜の緩やかな南側には現在は、観音寺という伊達氏ゆかりの寺が残っている。また、西舘の南には枡形虎口、中館にはカギ型土塁の遺構がみられる。また二の丸の南西には戊辰戦争時の砲台場跡もみられる。

登城口。観音寺駐車場北。

大手門跡。

二の丸南西下。砲台場分岐。

本丸表門への途中から。二の丸跡・奥に中舘跡方向。

本丸表門跡から南方向。

本丸跡。

福島市の信夫山方向。

本丸の東端部から中心部方向。

本丸跡中央部の高館城址碑。

本丸から下る途中。二の丸跡・中舘方向。

 

見学後、福島市の文知摺観音へ向かった。

福島県国見町 国史跡・阿津賀志(あつかし)山防塁 源頼朝・伊達氏



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。