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北海道 標津町歴史民俗資料館②伊茶仁カリカリウス遺跡 トビニタイ文化 竪穴住居

2024年08月02日 10時37分30秒 | 北海道

標津町歴史民俗資料館・ポー川史跡自然公園ビジターセンター。標津(しべつ)町伊茶仁(いちゃに)。

2022年6月15日(水)。

伊茶仁カリカリウス遺跡は、ポー川と伊茶仁川に挟まれた標高20mの台地に位置する。1200あまりの竪穴住居跡が台地縁辺部で観察され、縄文時代・オホーツク文化末期・トビニタイ文化・擦文文化の竪穴住居の構造が明らかにされている。

伊茶仁カリカリウス遺跡は、特にトビニタイ文化の遺跡があることが特徴である。オホーツク文化の人びとが内陸部への移動の第一歩を印した遺跡である。かれらは道東根室海峡側で、サケ・マス漁を主体とするトビニタイ文化を起こした先駆者であった。

竪穴住居は、新石器時代を代表する住居形式で、地面を掘り窪めて上に屋根をかけた半地下式の構造をしている。気密性と断熱性に優れた住まいとして長期間、選択されてきた。

擦文文化の竪穴は隅丸方形で、南東側の壁にカマドを設置し、中央部に地床炉をもつのが基本である。大きさは一辺が4〜10m位である。これに対して、オホーツク文化の竪穴は五角形ないし六角形で、コの字形の粘土貼り床をもち、石組み炉を有するのが基本である。大きさは長軸が10〜15mに及ぶ大型のものである。これらに対して、トビニタイ文化の竪穴は擦文文化の隅丸方形を踏襲し、オホーツク文化の石組み炉をもち、カマドや粘土貼り床は用いられないのが基本となっており、両者の融合がここに見られる。

標津遺跡群周辺には、80ヵ所に及ぶ湧き水の泉が存在する。地熱の影響を受けている湧き水は真冬でも決して凍ることがないため、人々はこの水を求め、竪穴住居を泉の近くに築いた

泉は動物たちにとっても貴重な場所で、特にサケの仲間にとっては、産卵床として重要である。大昔の人々は、この泉から水だけでなく、越冬の保存食として貴重なサケも手に入れることができたのである。「伊茶仁」は、アイヌ語で「サケが産卵するところ」を意味し、アイヌの人々も、 ここが多くのサケが集まる場所と認識していたことがわかる。

遺跡を発掘調査すると、あらゆる時代の竪穴住居跡から多量のサケ科魚類の骨がみつかる。しかしサケだけでは一年を通した暮らしは 支えきれない。遺跡を残した人々は、普段は根室海峡沿岸各所の様々な場所で、その土地の資源を手に入れて暮らし、秋サケ漁の時期になると、 沿岸一帯から標津遺跡群に集まり、皆でサケを獲って共同生活していたと考えられている。

ポー川史跡自然公園ビジターセンターの中にある標津町歴史民俗資料館を見学後、伊茶仁カリカリウス遺跡の見学に出かけた。センターの受付で熊鈴を借り、センター前にある自転車を無料で使用してください、と言われ、園内マップを貰い、自転車使用時の崖部迂回ルートも教えられた。自転車に乗ったが、遺跡入口までに前輪がふらついて3回転倒したので、あきらめて入口付近に置いて徒歩で向かうことにした。何故転倒したのか分からず、後日、焼尻島で自転車を借りたとき不安になったが、問題なく使えたので不思議だ。

伊茶仁カリカリウス遺跡入口。マップ①地点。

ポー川に架かる橋を渡るとカリカリウス遺跡のある台地に近づく。

崖を登って台地上に。

伊茶仁カリカリウス遺跡。

標津丘陵地の縁辺には、伊茶仁カリカリウス遺跡と総称される擦文時代・トビニタイ文化を中心とする集落跡が群在する。まず、ポー川に沿う丘陵の東縁には、南のポー川支流南側の侵蝕谷の左右に2群、同支流北側の奥寄りの侵蝕谷上に1群、同支流とポー川の合流点に面した丘陵端におそらく3群が混在したかと思われる1群、その北方の直線的な丘陵縁に見られる侵蝕谷の左右奥方に3群、ポー川ぞいの丘陵北端部の侵蝕谷の左右に2群があり、常に侵蝕谷の左右、時には奥をも含め一種の対ともいうべき定まった構造で集落が営まれ、5谷11群、589の住居跡の存在がたしかめられている。

次に、伊茶仁川に沿う丘陵の北縁には3侵蝕谷が見られるが、東とは異なり、侵蝕谷の左右に群在する傾向は見られるもののその群界は明確ではなく652の住居跡が確認されている。本遺跡はオホーツク海に面する擦文時代を中心とする時期の集落としては規模も大きく稠密な在り方を示すものとして重要である。

北海道 標津町歴史民俗資料館①伊茶仁カリカリウス遺跡 古代北方文化 トビニタイ文化



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