いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

北海道北見市 北海道遺産・ピアソン記念館①宣教師ピアソン夫妻 坂本龍馬の甥・坂本直寛 最北のヴォーリズ建築

2024年08月05日 12時27分05秒 | 北海道

北海道遺産・ピアソン記念館。北見市幸町。

2022年6月16日(木)。

道の駅「網走」で起床。天気予報の都合により、6月16日夜に稚内港着・17日早朝礼文島行きフェリー乗車で日帰りという行程に変更したので、網走市内の前に北見市のピアソン記念館を見学することにした。9時30分開館だが、イオン北見店で食糧の補充をしたので到着は9時50分になった。

ヴォーリズ合名会社時代の設計によるスイスの山小屋を思わせる住宅。

ピアソン宣教師夫妻は家のまわりを囲む三本の柏の木にちなんでこの高台を「Three Oaks(みかしわの森)」とよび、今もその一本が寄り添うように立っている。

ピアソン記念館は、北見開拓創成期の精神文化に大きな役割を果たしたピアソン宣教師夫妻の伝道拠点であった私邸を、1970(昭和45)年に記念館として復元したものである。

1969(昭和44)年にピアソン氏の生まれ故郷アメリカのエリザベス市と姉妹都市となったこともあり、『ピアソン夫妻の北見での業績を末永く語り継ぐ拠点として「記念館」を設置しては』との、多くの市民の声を反映したものである。

このピアソン邸は、山小屋風の西洋館として1914(大正3)年に建築されたが、ごく最近まで、ピアソン宣教師自身が設計・監督して建築したものと考えられていた。しかし、1995(平成7)年に、大阪芸術大学の山形政昭氏(当時助教授)の研究により、日本の建築史の中でも有名なウイリアム・メレル・ヴォーリズの設計であることが判明し、設計図の原本も発見された。ヴォーリズは全国で約1600の作品を生涯で残しているが、それらの中で日本最北の地に、それもごく初期の作品が現存しているなどとは、関係者にとっても予想もしなかったことであった。

ピアソン邸には、ピアソン夫妻はアメリカへ帰国する1928(昭和3)年5月まで住んでいた。その後、北見教会員神原信一氏が管理人を務め保存、1935(昭和10)年、ツルーメン宣教師が一時的に居住する。1939(昭和14)年から、北見教会長老の唐笠(とうがさ)学(まなぶ)医師が住宅として使用する。1952(昭和27)年から1963(昭和38)年まで、北海道立北見児童相談所として使用する。その後YMCAが一時期使用するが、1969(昭和44)年、北見市教育委員会が文化財として復元保存を決定し、1971(昭和46)年5月31日にピアソン記念館として開館した。

ピアソン氏夫妻の資料館として、二人が愛用した机やアンティークのシンガーミシン、1878年メイソン・アンド・ハムリン社製のオルガンなど、多くの貴重な調度品も見ることも出来る。

現在は北見市の指定を受け、NPO法人ピアソン会が管理運営を行っている。

50歳を越した身長180cm豊かなアメリカ人宣教師とその夫人が伝道活動の拠点を求め、遠軽に居を定めるか野付牛(北見市)にするか思案に暮れながら、この高台を散歩していた。見ると西の山に大きな太陽が燃えながら没してゆく。その美しい光景に魅せられて、ピアソン夫妻の迷いは醒め、この高台に住むことに即決した。

2年がかりで、故郷エリザベス市の自然に似た美しい高台に、ピアソン夫妻の好む、スイス風山小屋を思わせる家が建てられた。当時人々は、この森の中の西洋館を大変珍しがり、夫妻の献身的な人柄を慕い、ここを訪れる人々は絶えなかった。

1888年(明治21年)に来日、40年間の本邦生活のうち35年間は北海道を、函館・室蘭・小樽・札幌・旭川・北見へと、南から北へ都会から農村へと開拓者たちの心に忍耐と勇気と夢の灯をともしながら伝道をつづけた。小樽と札幌では、本道初期の女子教育に貢献し、札幌農学校の学生を教えたこともある。旭川では、軍人伝道・廃娼運動・監獄伝道・アイヌ伝道・学校教育の振興に尽くした。

北見では、略註付旧・新約聖書出版の偉業を成し遂げ、遊郭設置阻止に成功し、多くの婦女子を救った。

二人は、この高台を「みかしわの森」(三本の柏の木のある森)と呼び、この高台とこの町をこよなく愛した。ここからは遠く北光社の開拓地が見え、足もとには町の灯りがともった。ここは、開拓者と町民のための祈りの家となり、聖書を説く神の家ともなった。ピアソン夫妻が15年間住みなれたこの「みかしわの森」に涙の別れを告げ、ポプラ並木のピアソン通りを去って、故国アメリカに帰ったのは1928年(昭和3年)の春のことである。

北見市が、遊郭を設置せずに公許遊郭の無い市という歴史を持つのは、北海道庁が明治40年以降に活発化した廃娼運動に影響で遊郭設置を認めない方針をとったことに加え、ピアソン夫妻と矯風会の反対運動の力も大きかったものと見られている。

無教会主義を唱えたキリスト教指導者の内村鑑三は、宣教師をひどく忌み嫌うことで知られたが、自分に親切にしてくれたピアソン夫妻には感服し、牧師の田村直臣に「田村君、宣教師でもあんな宣教師がいるよ」と語ったという。

ピアソンによる『略註旧新約聖書』の編纂は、膨大で長期間を要する事業であり、ピアソンのような忍耐深い、献身的な宣教師だからこそ可能だったことであり、後にも先にもこの種の仕事は類例を見ないとの声もある。

北見市の開基は、1896年(明治29年)高知出身で坂本龍馬の甥にあたる坂本直寛らがクンネップ原野を調査して「北光社」を設立し、1897年(明治30年)に北光社移民団112戸が北見に入植し、北光社農場開設、屯田兵597戸が端野・野付牛・相内・湧別に入植したことが礎とされる。「野付牛」はもともと北見盆地で最初に開拓がはじまった端野地区のアイヌ語名「ヌㇷ゚ケㇱ(nup-kes)」(野の・末端、地の果て)に字を当てたことに由来する。

坂本直寛が率いた開拓移民団「北光社」はキリスト教を精神的支柱として、のちに日本基督教会野付牛教会(現北見教会)を設立し、ピアソン夫妻と交流することになった。

ピアソン夫妻。ジョージ・ペック・ピアソン(George Peck Pierson、1861年- 1939年)とアイダ・ゲップ・ピアソン(Ida Goepp Pierson、1862年 - 1937年)は、アメリカ出身の宣教師夫妻である。

明治後期から昭和初期にかけての日本で、北海道内を中心として農村でのキリスト教の福音伝道に尽くした。夫のジョージは『ピアソン聖書』とよばれる聖書『略註旧新約聖書』の編纂妻のアイダは旭川や北見の廃娼運動で実績を残した。

ジョージ・ピアソンは、ニュージャージー州エリザベス市で牧師の子として生まれた。ジョージは家庭でも大学教授である祖父から学者の資質、牧師である父から指導者及び伝道者としての心を受け継ぎ、幼少時より熱心なキリスト教徒であった。

1882年にプリンストン大学を卒業後、教育に関心を抱き、教員を4年間勤めた。後に牧師への道を選択し、1885年にプリンストン神学校に入学した。

神学校で学び始めた頃、ドイツ人宣教師が日本語に翻訳した聖書を、父から譲り受けた。ジョージは、仏教が主流のはずの日本のために聖書があることに感嘆し、その日本でのキリスト教布教を夢見るようになった。

1888年に神学校を卒業し、牧師となった。同年、宣教師として日本へ渡る。同年より、明治学院中学校に英語の教員として勤めると共に、神学部で新約聖書釈義と教会暦学を教えた。自身も日本語を学び、優れた語学力を身につけ、皇室の通訳に要請されるほどであったが、伝道が日本語習得の目的であったため要請を断った。

しかし1890年、ジョージは同学院を退職した。明治学院がミッションスクールであり、国家主義的色彩が強まる日本国内においてキリスト教が迫害され、その影響で生徒数が激減したことなどが理由という。1890年より、千葉県の中学校に英語の教員として勤め、千葉の農村を回り、地方へ赴く重要さを感じた。

ジョージは東北での伝道の中、多くの者が開拓のために北海道にわたっていることを知り、新たに拓かれる土地こそ信仰の必要な地と考えた。1892年(明治25年)に視察のために初めて北海道を訪れた。1893年に函館に転居し、小樽や札幌でも伝道活動を行なった。

アイダ・ピアソンは、ペンシルベニア州フィラデルフィアで弁護士の子として生まれた。モラヴィア派の家庭の生まれであり、伝統的に教育と伝道に熱心な家であった。幼少時はニューヨークの聖公会とメソジスト教会の日曜学校で過ごした。7歳のときに母を失い、伯母の住むドイツのシュトゥットガルトで高等学校まで過ごした。その後にアメリカに戻り、ニューヨーク市立大学ハンター校を卒業した。自分の進路として宣教活動を選び、んだ。1890年(明治23年)米国聖公会宣教教師として来日、セント・マーガレット・女学校(現立教女学院)で5年間教員を勤めた。

二人の出逢いについては、来日当時の東京では一般の外国人は築地の居留地での生活が義務づけられており、その築地にあった『一致教会で出逢った』とピアソンは記録している。1895(明治28)年6月、東京で結婚式を挙げたと記録されている。その頃は、ピアソンは北海道の小樽を拠点とした宣教師として伝道局より派遣されており、アイダは福島の教会へ派遣されていたとの記録がある。

結婚後の夫は、小樽に住み、札幌と小樽を活動の拠点とした。2人は、小樽初の女学校といわれるクララ・ロースの静修女学校の設立にも携わった

1897(明治30)年頃より札幌へ活動拠点を移し、全道の教会支援などの活動をす。アイダはドイツの在住経験があることから、札幌農学校(現北海道大学)でドイツ語を教えたともいい、有島武郎もアイダからドイツ語を教わったともいわれる。

1901(明治34)年、活動拠点を旭川へ移し、夫妻は、旭川中学校で英語や聖書を教える傍ら、坂本直寛牧師らと協力し、遊郭設置反対運動、監獄伝道、アイヌの父と呼ばれるジョン・バチェラーと共にアイヌ民族への人権活動、婦人の人権活動等を精力的に実践する。

夫妻が当時、派遣元のアメリカのキリスト教伝道局に宛てた書簡には、アイヌ女性の金成マツ、知里幸恵らと共に撮った写真が同封されていた。

昭和時代のアイヌ文化伝承者である砂沢クラは自著『ク スクップ オルシペ―私の一代の話』において、幼少時に日曜学校やクリスマス会でピアソン夫妻に可愛がられたこと、医者からも見放されるほどの重病に冒されたときに夫妻に手厚く看病されたことなどを語っている。

1911(明治44)年、共に活動していた坂本直寛が胃ガンで召天する。その坂本直寛が開拓団を率いて来た野付牛村(のちの北見市)をピアソン夫妻は日本での最後の伝道地として選択する。

夫妻は、1910年(明治43年)に野付牛を訪れた際にその自然の美しさに魅せられたこと、および鉄道の開通もあって発展性が注目されたこと、キリスト教徒を幹部とする高知県の移民団体である北光社がこの地を開拓していたことなどを理由として野付牛を選び、この地を道北一帯への伝道における基盤と考え、都会となりつつある旭川よりも、未開で自然の多い北見の方が伝道の意義があるとも考えたようである。

1914(大正3)年、夫妻は丘の上に住処を決め、木造の2階建の洋館を建設した。このとき地主は、外国人には正当な価値はわかるまいと、土地に時価10倍の値をつけたが、ジョージは掛け値というものも値切ることも知らず、人に騙されることはあっても騙すことは決してしない人物であったため、言われるがままの価格で土地を購入した。館を建てた後も、外国人を物珍しく見る住民たちの手で、植木が抜かれたり、ガス灯を割られたりと悪戯に遭った。しかし夫妻の熱心さの末に、住民たちは次第に心を開き、多くの人々が館を訪れた。

この地での夫妻は、北光社、学田(遠軽)、佐呂間の3つの教会の援助に最も力を注ぎ、廃娼運動、道東各地の伝道などで活動した。また遠方から野付牛中学校北斗高校(後の北海道北見北斗高等学校)に入学して通学の困難な学生のために、私費で学生寮「ピアソン寮」を建てて彼らを援助した。

当時は日本人にとって難解かつ高価であった聖書を、日本人に親しんでもらおうと、独自の解釈による『略註旧新約聖書』の編纂を行なった。この聖書は人々に『ピアソン聖書』の名で人々に親しまれた。この功績により、母校のプリンストン大学から名誉神学博士号を与えられた。

1916年(大正5年)野付牛を訪れた北海道長官へ町の有志から遊郭設置の陳情書が提出されるや、アイダは当地の女性たちと共に遊郭建設阻止に動きだすことを決心し、アイダが中心となって野付牛婦人矯風会が設立された。アイダは会員たちと共に地元民たち300名以上の署名を得て、長官と当時の内務大臣後藤新平宛てに提出した。翌1917年(大正6年)には矯風会で、遊郭建設の防止、公娼全廃のための運動開始などの決議がされた。逃亡してきた女性を夫妻が自宅にかくまい、教会員と結婚させたこともあった。

こうした反対運動に際し、夫妻は業者からの暴力を頻繁に受けた。娼妓の女性がピアソン館に助けを求めに訪れ、ジョージが話を聞いていたところ、暗闇から突然殴りつけられ、ジョージがその場に倒れたことがあった。アイダもまた、料理屋で女性を救うために交渉しているところ、怒った店主に太い棒で殴られたことがあり、後も長期にわたって、その傷跡の痛みを訴えており、生涯にわたって傷跡が消えることは無かった。

一方では酌婦の女性を、アイダが私財を投じて身代金を払って救出して親元に帰したものの、親が業主と結託して娘をまた売り払い、アイダを落胆させることもあった。暴力や裏切りと多くの困難に遭いながらも、夫妻は強い信仰のもとに救済活動を続けた。アイダの廃娼運動はこうして、旭川での挫折を経て、北見で成功に至った。戦前の北海道内の中核都市の内、遊郭が無いのは北見だけであった

1928年(昭和3年)、夫妻は帰国のために北見を発った。駅には大勢の人々が見送りに詰めかけ、讃美歌『また会う日まで』を合唱し、誰もが涙を流して別れを惜しんでいた。夫妻が15年間暮らした野付牛の開町30周年には、夫妻は開拓功労者としての表彰を受けた。

アメリカへ帰国後の夫妻は、アイダの生地であるフィラデルフィアで過ごした。ジョージは研究を続け、辞典の編纂、伝道論、神学研究、自伝など、多くの著作を出版した。日本での伝道で多くの迫害や困難に遭ったにも関らず、夫妻の思い出は日本人たちとの楽しい思い出ばかりであった。後の夫婦の共著による『楽しかった日本の四十年』は、北海道での伝道を主とした書であり、苦しみよりも喜びや楽しさが多く語られている。

アイダは晩年、肺炎による高熱に冒されて脳を病み、正常心を失い、生涯最期の1年はほとんど何もわからない状態であった。ジョージはそんな妻を最後までいたわり、看護した。

1937年3月13日、アイダがジョージに看取られながら、満75歳で死去した。その2年後の1939年7月31日、ジョージはアイダを追うように、糖尿病により満78歳で死去した。

北海道小清水町 小清水原生花園



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。