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新潟県村上市 国史跡・平林城跡 上杉家重臣・色部氏の故城

2024年02月18日 13時06分39秒 | 新潟県

国史跡・平林城跡。新潟県村上市葛篭山。

2023年9月30日(土)。

村上市神林の道の駅から平林城跡へ向かい、8時前に田園地帯の山裾にある駐車場に着いたが、車が1台もいないことに驚いた。村上城跡に早朝登る市民が多かったので、当然この手頃な山城も多いはずだと思っていたからだ。その理由は、駐車場に設置されたガイダンス施設のドアに貼られた掲示により登山道崩壊と分かった。麓の館城跡は見学可能だが、県内ではクマに遭遇する事件が頻発していたので、熊鈴を鳴らしながら歩いていくことにした。

平林城は、中世、北越後の小泉庄加納を領した国人領主色部氏累代の居館及び山城である。これらの遺構は、極めて良好に保存されており、鎌倉時代の地頭の居館を起源とする城館遺跡として中世史を理解する上に好個の資料を提供する。

小泉庄は、越後国北端の岩船郡中央部を占める広大な庄園で、平安時代中頃に藤原氏中御門家を領家として立券され、平安時代末頃には、庄域は本庄及び加納から成っていた。鎌倉幕府成立後は、二分され秩父氏の一族が臥牛山城(村上城)を居城として本庄氏を名乗る一方、その庶家である色部氏は、加納の地頭として色部条、牛屋条及び日本海上の粟島を領した。

色部氏の所領支配は、鎌倉から室町時代を通じて続いた。13世紀後半ごろ、色部為長の子、公長が越後に移ってきたという。色部氏の当初の本拠地は不明だが、その苗字から「小色部」(村上市牧目、まきのめ)付近が比定されている。色部氏が平林城跡に本拠(館)を移した時期は不明だが、南北朝時代に南朝方に付いた平林城主の平林氏を北朝方であった色部氏が攻め滅ぼして本拠地としたという。

戦国時代には国人領主として、北越後に重きをなした。上杉氏による越後一国の領国化が進む過程で服属関係を結ぶが、守護代長尾氏による「下剋上」に当たっては、色部昌長は越後守護上杉房能に従い、守護代長尾為景と対立。永正5年(1508年)5月に為景方の鳥坂城主の中条氏や築地氏らに攻められ落城、降伏して長尾氏に帰属した。

長尾氏が主家上杉氏の名跡を襲った後は、色部氏は上杉家重臣として遇されてきたが、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に転封されるに及んで色部氏も米沢に1万石を与えられ、本領を離れて出羽国金山城(山形県南陽市)に入り、平林城は廃城となった。

平林城の遺構は、標高281mの要害山(古名は加護山)とその西北麓にみられる。

詰城の置かれた要害山は、館跡から山頂まで1.7㎞あり、途中に水場や「物見山」、「のろし山」等の要所がある。山頂は2段に削平され、東側の尾根には2か所の堀切が認められる。

(1)城戸(2)馬洗い場(3)首切り清水(4)のろし山(5)物見山(6) 要害主体部(加護山)(7)館城

廃城前の平林城の姿は、文禄4年(1595年)の上杉景勝の領内検地に基づく、慶長2年(1597年)の「越後国瀬波郡絵図」に描かれている。居館には塀を巡らせ、中央に櫓門や数棟の建物がみられるが、背後の山城は「加護山古城」と記されていることから、すでに山城は廃されていたようである。

館跡は平野に面する西側を大手とし、大別して3郭に分かれる。西南の最も大きな郭は「岩館」と通称され、東西に長い長方形で、北西隅に虎口を開く。その東には「中曲輪」があり、さらに東に「殿堀」と呼ばれる空堀がある。ここに架設されていた木橋を渡った東は館跡の最奥部に当たり、「殿屋敷」とよばれる館の最も主要な郭が存在する。

岩館(1)北虎口(2)城内道(3)井戸跡。中曲輪 弁天虎口。殿屋敷(1) 表虎口(2)表虎口石組排水溝(3)主殿(4)北郭建物跡(5)方形竪穴状遺構(6)東土塁。

岩館北虎口付近の土塁。

岩館の北虎口は北西側に位置する土塁に囲まれた内枡形の出入り口。城外と接する大手の門は見つかっていない。

岩館北虎口付近。

岩館は、居館部最大の曲輪で、その規模は東西約200m、南北約90m。北西、北東、南西にそれぞれ虎口があり、西側および北側と南側の一部に土塁が残る。東側は鉤形の大型土塁と空堀で中曲輪と接している。曲輪の中は雛壇状に大きく3つに区画されている。

岩舘東虎口付近。東下にある弁天虎口方向。

弁天虎口は、中曲輪の北西に位置するS字形に屈曲する桝形の出入り口で、平林城の大手口とされている。

岩舘の東土塁。

中曲輪。

居館部の殿屋敷と岩館に挟まれている東西約80m、南北約100mの方形の曲輪で、北側は殿屋敷と南堀で、岩館とは鉤形土塁と空堀で接している。また、南側は旧崖、東側は山城との間を区切る土塁と空堀で囲まれている。曲輪の中はいくつかの方形の区画割が認められるが、曲輪の性格はわかっていない。また、中曲輪の最高位地点が色部氏の主殿があったと考えられる殿屋敷よりも高所であることなど、なぞの多い曲輪である。

殿屋敷の表虎口と堀。殿屋敷方向。

殿屋敷の表虎口と堀。中曲輪方向。

殿屋敷は居館跡の3つの曲輪の中で一番奥に位置している。小字名にその名を残すことから、城主の屋敷跡と推測されている。曲輪の規模は南北約100m、東西約150mで三角形のような形をしている。北東側と北西側は川と接しており、南と東側は堀と土塁で囲まれている。

色部氏主殿跡と東土塁。

殿屋敷の中心部(主郭)から大型の掘立柱建物跡が見つかっている。規模は東西25.3m、南北26mで推定される床面積は658㎡。出入口は南側の隅に作られ、西側からは建物に囲まれる形で井戸が見つかっている。主郭の中では最も大型の建物であることから、色部氏の主殿と考えられる。

東側の土塁の高さは2m程度である。土塁の東側に作られた東堀は、断面形が薬研堀で、表虎口に面する南堀はのちに作り替えた箱堀である。

主殿跡北の北郭に掘立柱建物跡が2棟見つかっている。1棟は規模が推定13.7×9.8mで床面積は134㎡。一部建物が重複するため、この2棟は同時に建てられたのではなく時間差があることが分かっている。

殿屋敷最北端の城戸虎口付近。

50分ほど見学したのち、胎内市の乙宝寺へ向かった。

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