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新潟県 長岡市立科学博物館 越乃雪本舗大和屋 河井継之助記念館 与板歴史民俗資料館 

2024年02月02日 13時59分13秒 | 新潟県

長岡市立科学博物館。新潟県長岡市幸町。

2023年9月27日(水)。

郊外の悠久山公園にある長岡市郷土史料館を見学後、市街地に向かい、10時頃「さいわいプラザ」という複合施設の駐車場に着いた。「さいわいプラザ」1階ロビーの一室に長岡市立科学博物館の展示スペースがある。

長岡の自然史部門のほかに、歴史部門では、長岡市内で発掘された土器・石器・陶磁器類・木製品などを展示、重文・受贈資料展示コーナーもある。

大萱場古墳。長岡市西陵町。

7世紀初頭の円墳。横穴式木芯礫室。金環、ガラス製小玉、水晶製切子玉ほか出土。

新潟市歴史博物館学芸課長 小林隆幸氏 新潟郷土史研究会 平成27年8月

新潟県の古墳を概観すると、まず4世紀に蒲原に古墳が造られる。その後5世紀後半までは古墳は全く見られない。5世紀は雄略天皇の時代で、蒲原との関係は希薄になる。5世紀後半になると魚沼で古墳が造られる。6世紀から7世紀になると頸城に古墳が造られる。宮口・水科は7世紀のもので100基ある。越後の古墳は集中域が移動するという特徴をもつ。畿内の古墳と比較して大きさはとうてい及ばないが、それぞれ個性をもつ古墳である。

蒲原平野の古墳の多くは前期4世紀代の古墳であり、特に角田・弥彦山の東麓にまとまっている。稲葉塚古墳は蒲原で最初の古墳。山谷古墳は全長37メートルで県内最大の前方後方墳。菖蒲塚古墳からはダ龍鏡が出土、県内最大の鏡である。観音山古墳は丘陵上に作られた円墳で、葺石を持つ。同じく葺石を持つ緒立八幡宮古墳(旧黒埼町)は信濃川の河口近くの砂丘上につくられた。

阿賀野川を越えた胎内市の城の山古墳からは靫(ゆき)をはじめ多くの副葬品が出土した(県内最大の前方後円墳とされていたが、最近の調査で円墳と判明)。新津丘陵の古津八幡山古墳は県内最大級の円墳。

後期になると浦田山古墳(村上)保内三王山古墳群(三条)大萱場古墳(長岡)が造られる。浦田山古墳は竪穴系横口式石室を持つ。かつて磐船柵の一部と考えられていた。保内三王山古墳群は4世紀に造られた後、空白期時期があり6世紀に再び造られる。ここでは古墳のすべての基本形がみられる。大萱場古墳は朝鮮半島から伝えられた火葬の風習をとり入れた横穴式木芯礫室を持つ。

越乃雪本舗大和屋。長岡市柳原町。

1778年創業。長岡藩御用菓子司山川(松江)、長生殿(金沢)とともに日本三大銘菓である「越乃雪」は、越後産のもち米から作ったみじん粉に和三盆を合わせ、型に押し固めて四角く整形して作られる。和三盆は少し褐色がかった色を持つが、粉砕した粉砂糖をまぶすことで、見る角度によって雪原のようなきらめきが見える。

安永7年(1778年)、長岡藩9代藩主、牧野忠精公が病に伏された時、近臣が憂い、大和屋庄左衛門(大和屋庄七の祖)に相談した。庄左衛門はこれを受け、寒晒粉に甘みを加えて調理した菓子を作り、献上したところ、忠精公の食欲が進み、ほどなく病が治った。忠精公はたいそう喜ばれ、庄左衛門を召され、『実に天下に比類なき銘菓なり。吾一人の賞味は勿体なし。之を当国の名産として売り拡むべし。』と、この菓子に『越乃雪』の名を賜った。その後この菓子の製造を続け、文化6年(1809年)には藩の贈物用菓子の御用達を命じられた。

その頃はまだ千手町村に店を構えていたが、天保元年(1830年)に長岡藩の鉄物御用を命じられ、現在も店を構える柳原町に移転し、御用菓子屋、御用金物屋を続けた。同年に悠久山御社(蒼紫神社)御用を命じられ、毎月お供え菓子を献上した。この頃には『越乃雪』は藩主や藩士の参勤交代の贈答品として盛んに求められた。

明治11年(1878)9月10日明治天皇北陸巡幸の折には、御在所のお茶菓子として、またお供の岩倉具視、大隈重信たちから土産として買い上げを賜った。随行の官員・警官・人足等を合わせると総勢3000人に上り、菓子が売り切れて3日ほど休業するほど忙しかったという。

リニューアル工事中の仮店舗が臨時休業だったので、サテライト営業しているアピタ長岡店へ与板へ行く途中に立ち寄り、税込1296円の『越乃雪』詰め合わせを購入した。

柳原の舟運集積地・「広渡(こうど)」跡。

2023年9月2日放送のブラタモリ越乃雪本舗大和屋と「広渡(こうど)」跡が紹介された。

長岡は多くの支流を持つ信濃川により北前船の舟運(しゅううん)の集積地として江戸時代から明治時代初期にかけて発展した。川には、船の発着場で荷揚げ場でもある「広渡(こうど)」があり、川沿いの和菓子屋「越乃雪本舗 大和屋」には、原料の和三盆が徳島から「北前船」で新潟まで、新潟から信濃川を経て柿川・「栄川」沿いの店の「広渡」に直接届いていたという。

江戸時代には、川舟は安価かつ大量輸送が可能な効率的な手段であり、信濃川の水を利用し、藩内の共同出資者「株仲間」によって長岡船道(ふなどう)が組織されていた。明治に入ると、川蒸気船(汽船)が登場し、長岡と新潟の間で活躍した。

河井継之助邸跡。長岡市長町。

河井継之助記念館の駐車場横に石碑がある。この石碑の建つ長町は、藩士の家中屋敷があった場所である。庭には河井継之助の号である「蒼竜窟」の由来となったと言われる2本の松があった。河井信堅を初代とする河井家は120石取りで、郡奉行などを代々務めていた。

河井継之助記念館。長岡市長町。

河井継之助邸跡に建てられた。館内は一部を除き写真撮影禁止である。

河井継之助の父・代右衛門が使用した茶釜。

このあと、山本五十六記念館を見学したが、館内写真撮影禁止であった。

与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)。直江兼続像。長岡市与板町与板。

館の前に、右手に巻物、左手に刀を携えた上杉家の知将・直江兼続の銅像が建つ。

資料館は館内写真撮影禁止である。展示は、与板城主であった直江兼続の生涯、妻のお船(せん)と与板衆に関する資料、ビール王・中川清兵衛の生涯など。

直江兼続(かねつぐ、1560~1620年)は、越後の戦国大名および米沢藩主・上杉景勝の家老で。兜の立物は「愛字に端雲の立物」である。旧名は樋口兼続

天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となった

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。

与板藩は、1634年(寛永11年)、越後長岡藩初代藩主・牧野忠成の次男康成が1万石を分与され、長岡藩の支藩として立藩した。上杉家の家老・直江兼続の居城として知られ、廃城となった与板城址の麓に与板陣屋を置いて、与板近辺を支配した。1702年(元禄15年)、牧野家は信濃小諸藩1万5千石に転封された。

その後幕領を経て1705年(宝永2年)井伊直矩が遠江国掛川藩より2万石で封じられた。1804年(文化元年)、6代直朗は若年寄としての功績により城主格となり、それを機に与板城の建設が行われ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。

慶応4年(1868年)戊辰戦争の時、井伊家宗家の彦根藩が新政府側に藩論を転向させたことから与板藩もそれに従った。近隣の諸藩は会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となった。

1868年5月19日早朝、新政府軍は信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。奥羽越列藩同盟軍は与板城を攻撃するために、会津藩・桑名藩・上山藩兵で組織された軍を地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由で与板へ進めた。与板藩家老も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。一斉射撃を掛けるが、会津藩兵の応戦に遭い退却した。5月28日早朝には援軍が到着したが、同盟軍の勢いは強く、驚いた新政府軍は与板城に火を付けて退却し、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いた。

与板城大手門。

資料館と敷地を同じくする浄土真宗西本願寺派新潟別院に明治維新後、移築されている。

 

このあと、燕市産業史料館へ向かった。

新潟県 長岡市郷土史料館 蒼柴神社 忠犬しろ神社