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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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岩手県陸前高田市 奇跡の一本松 陸前高田市立博物館①津波記念碑  

2023年12月23日 15時58分11秒 | 岩手県

高田松原津波復興祈念公園。海を望む場。岩手県陸前高田市気仙町字土手影。

2023年6月13日(火)。

大船渡市立博物館を見学後、市街地方面へ戻って、商業施設の「キャッセン大船渡」に立ち寄った。復興状況視察のため天皇陛下夫妻が立ち寄ったニュースを見たため見学しようと思った。10時30分ごろで、飲食店は準備中が多かったので、鮮魚店でイカ焼きを買って車の中で食べた。このあと、高田松原津波復興祈念公園にある陸前高田市の道の駅「高田松原」へ向かい、11時頃に着いた。東日本大震災津波伝承館を見学してから、海岸方向へ歩いた。

震災前の高田松原は、太平洋につながる広田湾に面して、350年にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂り、陸中海岸国立公園(現三陸復興国立公園)や日本百景にも指定されていた景勝地であったが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波の直撃を受け、ほとんどの松の木がなぎ倒されて壊滅した。

高田松原津波復興祈念公園は東日本大震災の震災復興公園であり、国営追悼・祈念施設、東日本大震災津波伝承館と共に道の駅が整備され、2019年9月から部分的に開業し、2021年12月に全面開業した。

追悼の広場

震災遺構。奇跡の一本松。

防潮堤と奇跡の一本松。

海を望む場から追悼広場・道の駅方向。

震災遺構。奇跡の一本松と陸前高田ユースホステル。

奇跡の一本松は、アイグロマツ(アカマツとクロマツの交雑種)で、かつて高田松原にあった約7万本の松林のなかで、東日本大震災の津波に耐えて奇跡的に残り、大津波に耐えたその姿から、復興への「希望の象徴」となった。

樹齢173年、高さ27.5mもある奇跡の一本松は、残念ながら2012年5月に枯死が確認されたが、復興のシンボルとして後世に受け継ぐために幹を防腐処理し心棒を入れて補強したり枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存整備を行い、現在はモニュメントとして昔と同じ場所に立っている。

一本松が立っているのは、松原の西に位置する陸前高田ユースホステルの敷地内であった。2011年3月11日の14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震は大規模な津波を引き起こし、東日本の太平洋沿岸部を襲った。津波の第1波は松原付近に15時23分 - 24分頃に到達し、最大17メートルの高さをもって松原の木をほぼ全てなぎ倒した。一本松から40メートルほどの場所にあった陸前高田ユースホステルも全壊した。しかし、一本松は10メートル程度の高さまで波をかぶったものの、倒れずに津波に耐え、枝も幹も無事な状態で残った。

松原の7万本の木の中で一本松だけがほぼ唯一生き残った理由は、一本松と海との間にユースホステルが建っていたため、建物が防波堤となって津波の直撃を防いだ形となったこと、押し寄せた津波が引いていく際、一本松から見て陸側にある高架道路(国道45号陸前高田バイパス)が堤防の役目を果たし引き潮の衝撃を弱めたこと、一本松自体が他の松に比べて背が高く、さらに過去の津波でもぎ取られていて波の高さに枝がなかったため、流されてきた瓦礫が引っかかることなくすり抜けていったこと、加えて幹も他の松より太かったことなどが作用したためと推測されている。

2012年9月から「奇跡の一本松保存プロジェクト」と題された保存作業が開始され2013年6月に保存工事が完了した。その内容は、「幹を5分割し、中心部をくり抜いた上で内側と外側から防腐処理し、金属製の心棒を通して元の場所に再設置する。枝葉部分は現物を保存することが難しいため複製を作る。根の部分は切除して別に保存する。雷対策として避雷針を設置する。」ことであった。

 

このあと、北西近くにある陸前高田市立博物館へ向かった。

 

陸前高田市立博物館。岩手県陸前高田市高田町字並杉。

博物館屋上の展望デッキより。太平洋や防潮堤などが見渡せる。

博物館屋上の展望デッキより。北隣の商業施設「アバッセたかた」。

展示コーナー。宿命とともに生きる。

明治三陸大津波、昭和三陸大津波、チリ地震津波から学ぶ。

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