死刑は司法に対する復讐の勝利を意味し、人間の第一の権利である生命権を侵すものである。
極刑が犯罪を防止したことはないのである。
(中略)
死刑を行う社会は、象徴的に、暴力を奨励している。
(2001年ストラスブールで行われた第一回死刑廃止世界会議の最終宣言から)
冒頭、いきないストラスブール宣言である。つまり、このエントリは死刑の問題を扱う。
(憂鬱な話題だな、相変わらず…)
この宣言への共感で特に強調しておきたいことは、「死刑は暴力を奨励する」ということだ。
暴力を根絶しうるのであれば、それは死刑の廃止に行きつく。
このことは、絶対に譲り渡せない。
本題に入ろう。
日弁連が、現在確定死刑囚となっている袴田巌氏の処遇について、以下のような勧告を法相に行った。
【時事通信の配信記事】
静岡県清水市(現静岡市)で1966年、みそ製造会社専務一家4人が殺害された「袴田事件」で、強盗殺人罪などで死刑が確定した元プロボクサー袴田巌死刑囚(74)について、日弁連は27日、弁護人の人権救済申し立てに基づき、江田五月法相に刑の執行停止を勧告した。
日弁連は、昨年1月に新たに行った医師との面談結果などから、袴田死刑囚は妄想性障害で病状も深刻だと指摘。刑の執行停止が認められる心神喪失状態にあり、適切な治療を受けるため、収容先の東京拘置所から医療刑務所に移す必要があるとしている。
このニュースを、まず休憩中に携帯のニュースサイトで知った。
そして、このニュースのコメント欄には、案の定以下のようなコメントが記載されていた。
早く執行して楽にしてやれ。
死刑になる人間に治療なんか必要なのか?
日弁連を東京拘置所に入れろetc
まず言っておきたいことは、この袴田事件は極めて冤罪の疑いが濃い事件なのだ。
かなり早い段階から、冤罪の可能性が議論されている。
そして支援者の尽力によって、冤罪の可能性を示す証拠を多数出てきている。
それにもかかわらず、再審請求等が拒み続けられている。
まずそれが問題のなのだ。
ただ、この冤罪可能性からこの問題を取り上げたいのではない。
僕が取り上げたいのは、この国の大衆の善意の醜さなのだ。
このブログの過去の記事をみて頂けると分かると思うが、僕は極めて強烈な原理主義的な死刑廃止論者である(ガキの頃から)。
これらのコメントに深い怒りを抱いたのは言うまでもない。
しかし、僕はこのコメントを容易に想像していた。これは絶望的なことなのだ。
インターネットは、人権侵害の言説、ヘイトスピーチ、差別言語が氾濫している場所であるとはいえ、こんな醜い言葉が容易にはかれてしまうこと。それは極めて絶望的であるし、そのことに僕自身がさして驚いていないことがまた絶望的なのだ。
死刑の執行。それは人を殺すこと。
人を殺すことに対して、容易に賛同の意を示すコメントが書かれるということ。それが善意によって述べられた言葉であること。
この国の大衆の間には、暴力がこれでもかと蔓延している問うことなのだ。同時に、その大衆は僕自身でもある。
このブログでは、新自由主義政策や戦争、暴力的諸制度について常々異を唱えてきた。
しかし闘うべき相手は、強大な力を持った支配者階級、国家制度、経済制度、特権者だけではない。
この国大衆に対しても(自分自身)、闘わなければならないのだ。それは絶望的なことだろう。
大衆から孤立してしまうこと、それが多くの恐怖を僕に与えるからだ。
最も強大な暴力と権力を握っているのは、この日本では世間という大衆なのだから。
しかし、この時事通信の記事にも怒りがある。袴田氏を容易に、「袴田死刑囚」としかも「確定死刑囚」と表現するのだから。
マスメディアの批判機能など、もうほとんどあり得ないのかもしれない。
袴田氏の名誉のために、もう一度言う。
この袴田事件は、冤罪の疑いが非常に濃い事件なのだ。
そして最後に
暴力を根絶し、奨励したくないのであれば、死刑の廃止は絶対条件である。
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新自由主義は社会破綻をもたらすので、法による統治を徹底させ、そこに人びとを参画させようとするのが司法制度改革、というのが、わたしの理解です。
新自由主義の貫徹と、司法制度改革や厳罰主義の流布というのは、裏表の関係で、一体となって、大衆同意を求めていて、大衆はまんまとその策略に乗っかっているということでしょうか。
ごめんなさい、今日は、自分でコメントを書きながら、自分の頭の整理をしている感じです。
江田は死刑制度廃止論者だと自らいってましたが、それを貫いてほしいものですね。
コメントありがとうございます。
司法制度改革についてのご意見ですが、おおむねMさんと同じ意見だとおもいます。
ただ改革推進の経緯は、そこまで社会統制を意図していたかは不明かもしれません。
以前、何度か死刑廃止の市民の勉強会に行ったことがあるのですが、そこで長年活動されている方に司法制度改革の経緯を聞きました。
やはり財界の要望が強かったようです。M&Aなどの経済法務案件を扱える弁護士を大量生産したいという財界と司法当局の意図がまずあった。
この弁護士の大量生産には日弁連の協力が必要(日弁連は弁護士の数を増やすのには消極的)。
そこで日弁連は、司法の市民参加を取引材料として吹っ掛けた。意外なことに、この取引に当局側が乗ってきた。
と言うことが、その活動家の方のご意見でした。
この取引のため、裁判員裁判は陪審制度でもない中途半端なものとなる。そしてその他の司法に関する人権問題は進まないということのようです。
その活動家の方はジャーナリストの大谷昭宏氏を「ものが分かっていない人」と喝破していました。
大谷氏は「日弁連は裁判員裁判を人質にとり、取り調べの全面可視化を要求すべきだ」と言っていたようですが、ナンセンスだと。
日弁連側が要求が通ってしまったのですから。司法当局に借りを作っているのだから、日弁連は強くでれないと。
ただ法務省も「現在の裁判制度で何の問題もない。しかし、より市民の参加を進めるため改革を行う」という理由にもならない理由を述べていて、本当は裁判員裁判も行いたくないのが(勉強会参加時の)当局の本音だと思います。
その後マスコミ等を通じて、厳罰意識が以上に膨れ上がって、司法・警察・検察当局はこれを利用しようと目論んでいるかもしれません。
ただ、司法制度改革が持ち上がった当時はそれほど意図的ではなかったようです。
江田法相に関してですが、死刑廃止論者がしっかりと批判的な眼を向けないと千葉元法相のときの二の舞になるでしょう。
早々に「死刑制度は欠陥のある制度」という発言を訂正していますから…
このお話は、わたしにとって、とても貴重です。
『季論』の2010秋号は戦後史の特集なのですが、ここで中西新太郎氏が2003年が契機で、ここから子どもが治安・取り締まりの対象となった、というようなことを述べているのですね。
統制化は一直線に進むのではなく、段階があるような気がしてきました。
フットチーネさんのお話と、中西の2003年という契機が一致するのかどうか。
わたしも時系列で追ってみたいと思います。
また御教示くださいませ。