さて梅雨もあけていよいよiPadの熱い夏がはじまるね。なにしろ、決戦は夏休み(by @higekuma3)。iPadでなんかしたい皆さんはこの夏に何をどうするかで今後が決まっちゃうよ。焦らなきゃ。
さてiPadについて新しいシリーズを書きはじめるわけだけれども、その前に、いささか情緒的というか酒飲み話みたいなことを書くよ。でもiPadについて考える記事の一環ではあるのだけど。
iPadはどう見てもMacintoshというコンピュータのひとつの進化形だ。で、そもそもMacとは何なのだろう。
ぼくがMacをいじりだしたのは、ちゃんと憶えてはないけどたぶん93年だ。広告代理店を辞めてフリーランス稼業をはじめた。その生活の片手にあったのがMacだった。
その当時はようやく、気の早い広告デザイナーたちが仕事にMacを使いはじめていた。ぼくのMac体験も、あるデザイン事務所でふれたのが最初だった。すでにワープロは使っていたので、すぐになじんだ。これは仕事に必要だねと、秋葉原に買いに行った。Performaという機種だった。初心者向けの、わりと大したことない機種なのだけど、ぼくはすごいものを手に入れたと思ったもんだ。
当時はまだコンピュータはコマンドを入力して使う、シロウトにはわかりにくーい物体だったのが、MacはいわゆるGUIで、思い描いたことを形にできるマシンだった。普通のコンピュータとは発想がまったくちがう。Macを手にした時、ぼくは、さあこれであんたは何をするね、と言われている気がした。さらにモデムを使ってピイーーーーヒョロローーーガーーーーーーッとインターネットにつないでもみた。ちょっとしたWEBページを開くのに何分もかかったけれど、ああこれでぼくたちは世界中とつながるんだと感動した。
Macとは、頭の中にあることを次々に形にできるし、世界中の人ともつながることができる、そんなマシンだった。
創造力と、創意工夫が問われてる気がした。ほら、あんたもこれでいろんなこと、やってみなよ、というメッセージを感じとった。
そしてフリーランスの道を歩みはじめたぼくにとって、Macはひとりで生きていくための強力な武器だと思えた。自分の脳みそとMacがあれば、闘っていける。そんな気分になれた。
スティーブ・ジョブズという人が開発したのだけど、会社を追われていまはまた別のことをしているらしい、ということも知った。ガレージでウォズニアックというもうひとりのスティーブと一緒にはじめたのだという。そんなストーリーが、さらにMac独特の価値を高めた。若さと意欲で、新しい概念を産みだした、その結果がMacなのだと。なんてカッコいいんだ!
ストーンズのStart me upにのってウィンドウズ95が登場してもぼくは目もくれずにMacとともに走っていった。マシンも、PowerMacを数台買い替えたり、PowerBook2400というモバイル機も買ってケータイで通信したり、CPUやHDDの換装なんてことまでやった。クラリスインパクトで企画書を作ったり、ファイルメーカーで自分の利益管理をするフォーマットを作ったり、フリーウェアを落としてみたり、ISDNでネットにつないでその速度に感激したり。自分の仕事のやり方の進化と、Macの進化がシンクロしていた。
やがてスティーブ・ジョブズがAppleに復帰し、iMacを皮切りに次々と新しい施策を打ち出していった。MacOSXが登場して操作感覚がまったく変わった。新しいインターフェイスは未来そのものだと感じた。iTunesが登場したら持ってるCDをどんどんぶちこんで自分で編集したCDを焼いてカーステレオで聴いた。iPodが出たらさっそく買い、Video iPodが出たらまたすぐに買った。U2のVertigoの映像を購入して何度もビデオを見た。
そんな風にAppleと歩いてきた、その流れの中にiPad登場はある。だからそれまでの製品群と同じようにぼくは買ったのだろうか?いや、ちょっとちがうんだ。ちょっとじゃないな、ずいぶんちがう。iPadはMacの延長線上にある製品なのだけど、延長線上にはないとも言える。言ってみれば、突然変異なのだ。ガクンと一段ステージが変わった。そんな製品なのだと思う。
iPad登場を知った時、また徐々にその概要がわかってきた時、そして何より、実際に自分で手に入れてみて、感じとった印象はどこか懐かしいものだった。あ、この感覚は、前にも似たことがあったぞ。
それは、はじめてMacにふれて、Macを手に入れた時。あの時の気分とすごく近い。似ている。ほとんど同じ。
だってiPadはぼくに問いかけてくるのだ。さて、これであんたは何をやってみたい?創造力が問われてる。創意工夫をしたくなる。Macではできないことを、Macよりカンタンな感じで、できそうなんだ。
パーソナルコンピュータとは誰の発明なのか、いろいろ解釈はあるだろう。ぼくはスティーブ・ジョブズが発明者だと受けとめている。その発明品が、Macなのだと。そしていま、スティーブ・ジョブズはもうひとつ、重大な発明をした。iPadという、iPhoneを数倍にしただけのシロモノなのに、まったく新しい概念をまたもや形にしたのだ。
iPadに人びとはどうしてコーフンするのか。それは、問いかけてくるからだ。アプリを作りたい人に、コンテンツの新しい見せ方を考えたい人に、広告の新しい手法を考えたい人に、プラットフォーマーとなって巨大なマーケットと権力を手にしたい人に、さああんたは何をするのかと、問いかけてくる。もちろん、ただ使ってみたい人にも。だから面白いんだよ、これは。B5版程度の薄っぺらな板が、世界中の人の創造性と野心を刺激する。
なんか、不思議な現象だね。でも、この夏、世界中が、熱いよ。iPadで熱くなっちゃうよ・・・
さてiPadについて新しいシリーズを書きはじめるわけだけれども、その前に、いささか情緒的というか酒飲み話みたいなことを書くよ。でもiPadについて考える記事の一環ではあるのだけど。
iPadはどう見てもMacintoshというコンピュータのひとつの進化形だ。で、そもそもMacとは何なのだろう。
ぼくがMacをいじりだしたのは、ちゃんと憶えてはないけどたぶん93年だ。広告代理店を辞めてフリーランス稼業をはじめた。その生活の片手にあったのがMacだった。
その当時はようやく、気の早い広告デザイナーたちが仕事にMacを使いはじめていた。ぼくのMac体験も、あるデザイン事務所でふれたのが最初だった。すでにワープロは使っていたので、すぐになじんだ。これは仕事に必要だねと、秋葉原に買いに行った。Performaという機種だった。初心者向けの、わりと大したことない機種なのだけど、ぼくはすごいものを手に入れたと思ったもんだ。
当時はまだコンピュータはコマンドを入力して使う、シロウトにはわかりにくーい物体だったのが、MacはいわゆるGUIで、思い描いたことを形にできるマシンだった。普通のコンピュータとは発想がまったくちがう。Macを手にした時、ぼくは、さあこれであんたは何をするね、と言われている気がした。さらにモデムを使ってピイーーーーヒョロローーーガーーーーーーッとインターネットにつないでもみた。ちょっとしたWEBページを開くのに何分もかかったけれど、ああこれでぼくたちは世界中とつながるんだと感動した。
Macとは、頭の中にあることを次々に形にできるし、世界中の人ともつながることができる、そんなマシンだった。
創造力と、創意工夫が問われてる気がした。ほら、あんたもこれでいろんなこと、やってみなよ、というメッセージを感じとった。
そしてフリーランスの道を歩みはじめたぼくにとって、Macはひとりで生きていくための強力な武器だと思えた。自分の脳みそとMacがあれば、闘っていける。そんな気分になれた。
スティーブ・ジョブズという人が開発したのだけど、会社を追われていまはまた別のことをしているらしい、ということも知った。ガレージでウォズニアックというもうひとりのスティーブと一緒にはじめたのだという。そんなストーリーが、さらにMac独特の価値を高めた。若さと意欲で、新しい概念を産みだした、その結果がMacなのだと。なんてカッコいいんだ!
ストーンズのStart me upにのってウィンドウズ95が登場してもぼくは目もくれずにMacとともに走っていった。マシンも、PowerMacを数台買い替えたり、PowerBook2400というモバイル機も買ってケータイで通信したり、CPUやHDDの換装なんてことまでやった。クラリスインパクトで企画書を作ったり、ファイルメーカーで自分の利益管理をするフォーマットを作ったり、フリーウェアを落としてみたり、ISDNでネットにつないでその速度に感激したり。自分の仕事のやり方の進化と、Macの進化がシンクロしていた。
やがてスティーブ・ジョブズがAppleに復帰し、iMacを皮切りに次々と新しい施策を打ち出していった。MacOSXが登場して操作感覚がまったく変わった。新しいインターフェイスは未来そのものだと感じた。iTunesが登場したら持ってるCDをどんどんぶちこんで自分で編集したCDを焼いてカーステレオで聴いた。iPodが出たらさっそく買い、Video iPodが出たらまたすぐに買った。U2のVertigoの映像を購入して何度もビデオを見た。
そんな風にAppleと歩いてきた、その流れの中にiPad登場はある。だからそれまでの製品群と同じようにぼくは買ったのだろうか?いや、ちょっとちがうんだ。ちょっとじゃないな、ずいぶんちがう。iPadはMacの延長線上にある製品なのだけど、延長線上にはないとも言える。言ってみれば、突然変異なのだ。ガクンと一段ステージが変わった。そんな製品なのだと思う。
iPad登場を知った時、また徐々にその概要がわかってきた時、そして何より、実際に自分で手に入れてみて、感じとった印象はどこか懐かしいものだった。あ、この感覚は、前にも似たことがあったぞ。
それは、はじめてMacにふれて、Macを手に入れた時。あの時の気分とすごく近い。似ている。ほとんど同じ。
だってiPadはぼくに問いかけてくるのだ。さて、これであんたは何をやってみたい?創造力が問われてる。創意工夫をしたくなる。Macではできないことを、Macよりカンタンな感じで、できそうなんだ。
パーソナルコンピュータとは誰の発明なのか、いろいろ解釈はあるだろう。ぼくはスティーブ・ジョブズが発明者だと受けとめている。その発明品が、Macなのだと。そしていま、スティーブ・ジョブズはもうひとつ、重大な発明をした。iPadという、iPhoneを数倍にしただけのシロモノなのに、まったく新しい概念をまたもや形にしたのだ。
iPadに人びとはどうしてコーフンするのか。それは、問いかけてくるからだ。アプリを作りたい人に、コンテンツの新しい見せ方を考えたい人に、広告の新しい手法を考えたい人に、プラットフォーマーとなって巨大なマーケットと権力を手にしたい人に、さああんたは何をするのかと、問いかけてくる。もちろん、ただ使ってみたい人にも。だから面白いんだよ、これは。B5版程度の薄っぺらな板が、世界中の人の創造性と野心を刺激する。
なんか、不思議な現象だね。でも、この夏、世界中が、熱いよ。iPadで熱くなっちゃうよ・・・
やりたかったけど、
できなくて、
今になったというプラットホームと
理解しています。
時代的には、教育関連の人がプロジェクトに参加してた、
見開きの本の形のモックと、Knowledge Navigatorのビデオが、それを証明しています。
>、プラットフォーマーとなって巨大なマーケットと権力を手にしたい人に、
権利(利権)を入手するのは、努力の結果として「あんたはよぅ頑張った!」と羨望などするのですが、権力までも握ろうとするとしたらそれは看過できません。
自由に表現できる場を創造するものは賞賛され、ある程度の権利と富を握れると思いますが、それが権力にまで伸びようとする時、ストッパーが働くべきだと。
国とか一部機関でなく、僕らにその力が移行していること、それがネットのもたらしてくれた恩恵なんだと思っています。
でもそういう権力欲とはちがう場所になるはずだし、もう"マス"は成立しないだろうし、権力欲で乗り出している人は後悔するんだろうなあ・・・
なくなって、どれだけの人を動員できるかと
いうことなので、人望でしょうね。
敢えてそこを突く視点が読んでて嬉しいです。
同士がどれだけいるのか不安になってばかりですけど、勇気を持てます。
ありがとうございます。