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AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

Passionについて語る、そしてCompassion

2022年10月17日 | 生きていると
皆様、ごきげんよう!
前回のアップからまたもや結構な日々が過ぎてしまいました。
いやいや、大丈夫、元気でございます。
先々週に誕生日を迎え、その数日後に満月を迎え、
誕生日前から何やらかんやら、
当日はとても嬉しいことがあったり、
自身の中での「リニューアル」とか(主に化粧品、笑、いや、大事よ)
何だか頭がやたら忙しい日々が過ぎて、
そこに先週英語の歌詞を書かせていただくお仕事が舞い込んできて、
作詞だけでなく、それに合わせて「一人でゴスペルの多重録音」という
仮歌(仮として歌を入れる)の宅録をして・・・

現在に至っておりますです。


そんな、誕生日と満月を超えてのお話でも、と思ったのですが、
実は書きかけのブログがありまして、
それが今回の「Passionについて語る」、です。

厳密に申しますと、
書きかけじゃないのよ。
全部書き終えていたのに、
こちらの痛恨のミスにより、
途中から最後まで全部


消しちまった・・・


しばらくそこから立ち直れなくてですね、
一旦「Let Go」したわけです。
そう、アナ雪のエルサのように


レリゴーーーーーよ。



で、本日ブログを久々に書こうと思った時に、
「やはりアレをちゃんと完成させたい」という、
それこそPassionが湧いてきたので、
湧いているうちに書く。

消えてなくなった後半を、
今の私の言葉で書いてやるんだいっ!



ということで。


AYUKO、今回はPassionについて語る。
語りたいのです。


厳密に言いますと、PassionとCompassionについて語りたいのです。
Compassionについてはもうちょっと後でね。



Passionとは、日本語では『情熱』。


そして私は自分のことを「情熱の人」と思っている。

人生を振り返れば、これまで私を突き動かしてきたものは情熱であったと思います。
何かに対してエンジンがブオン!とかかる。
そのブオン!が私の情熱で、一旦エンジンがかかれば突き進みます。


情熱とは私にとっては
車が進むためにガソリンが燃える、燃え続ける、
それがないと前に進めない、
そんなようなものでして、


情熱がなければ私は動かない。
先の「何かに対してエンジンがブオン!とかかる」の
「何か」がなければ、基本的に私は動かない。


駐車場に停まったまま
車の中で日々を過ごす。


・・・そんな感じです。(え。どんな感じかいな。)



情熱というのは不思議なもので、
自分の意思でどうこうできるものではなくて、
それこそ自然と「湧いてくる」もののように思います。
「突き動かされる」というのはまさに
自分の頭の意思と関係ない、そんな感じです。


私にとって、音楽・歌とはPassion,情熱です。


でも情熱がいつも湧いてくるとは限らない。
駐車場で死んだようになっている時もあります。
それでも再びPassionが湧いてきて、
エンジンがブオン!とかかり、
私(車)は前に進み始めます。


そんなことの繰り返しです。
そして、今も私は歌う。


これもまた不思議で
情熱とは意思とは関係なく湧くけれど、
湧いてない時は「無いのか。消えてしまったのか。」と言ったら多分違うのです。


きっとずっと奥の方に存在するのです。
息を潜める時はあっても、決してなくならない。

時が来れば、
また私を突き動かす。


絶え間なく燃え続けるものが
私の中にずっと存在している。
時には激しく、時には静かに。


消えることがない炎が・・・ある。



そんなPassionの人である私ですが、


今の私のテーマは実は「Compassion」の方なのです。

Compassionとは、直訳すれば慈悲。

しかし「慈悲」と言われても何のことやら。
ちょっと難しいような、高尚な響きと言いますか。

私はCompassionを
人の苦しみや悲しみを共に感じることであり、
人が体験するそれらを思いやれる心・・・
と訳すことにしました。


Compassionという言葉を調べると、
この言葉は「Com」と「Passion」に分かれ、
「Co」とか「Com」「Con」というのは
「共に、一緒に」という意味がある。
(例えば、「Co-operate」→共に操作する→協力する。と言った感じです。)


Compassionの「Com」についてはわかった。
だが、じゃあ、なぜ、Passionが付くのだ?
だって、Passionって情熱でしょ?
どうして、それが慈悲とか、人と共に苦しみや悲しみを感じる、になるのだ?


そこで、私は今度は「Passion」を調べました。
そして驚くべき事実が!!!

以下、調べた結果。

passionはラテン語やギリシア語のsufferingの意の語に由来します。
したがって「苦しむ、被る」というイメージが根幹にあります。
ここから、「被る」→「強い感情にとらわれる」→「情熱」というように
意味がつながっているわけです。



PassionとはSuffering(苦しむ)が語源とな?!


となると、先の「Compassion」についてはよく分かる。
共に苦しむ、悲しむ、という意味で。

がしかし、単体の「Passion」については、
情熱という意味づけをするにはちょっと、なんか・・・


他にあるんじゃないの?と言いたくなる。
何も「苦しみ」が語源というのはどうなのよ。

そしてこれにも納得いかない。
非常に短絡的な解釈だと思っている。
例えそれがとんでもなくお偉い言語学者の先生であっても!


ここから、「被る」→「強い感情にとらわれる」→「情熱」というように
意味がつながっているわけです。



被る?
囚われる?
は???
(断固として学者先生に歯向かう覚悟)


なので、私は自分なりに
Passionの意味に納得するために考えた。
必ずPassionとCompassionは繋がるはずだ。
(なぜなら私はPassionの人であり、
いつも苦しんでいると思われたらたまらんからだ。
違う。そういうんじゃない。
そしてCompassionは今の私のテーマだからだ。)


Passion...


Suffering...


Passion...


Suffering...



Passionは深いところから湧き上がるもの。
そして自分を突き動かすもの。


私はそれは魂から出てくるものだと思っている。


何のために、何に向かって、自分を突き動かすのか。
頭の中の思考なんかを軽々と超え、
「その先へ」と私を動かす。


何に対しての情熱かというのは、人それぞれ。
人それぞれの魂が決める。


でも共通するのは、
情熱を注ぐことによって、
必ず自分は「変容させられる。」
変容せざるを得ない。
いつまでも同じ自分のままではいられないのだ。


情熱という炎が
古い自分を焼き尽くす。
古い自分が焼き尽くされると、
新たな自分が誕生する。

逆説的に言えば、
古い自分が焼き尽くされないと
新たな自分は誕生しない。

そう、不死鳥のように。


その古い自分が焼かれてゆく、
それがSufferingなのではないかと思うのです。
生まれ変わるための苦しみ。

そして、Passionは自分を決して諦めない。
例え、自分の方がPassionを諦めても。

Passionには使命があるのだから。
その使命を果たすまでは消えない。
それこそ、私(車)が「駐車場でじっとしている」時があっても
Passionは常に次にブオン!とエンジンをかける
タイミングを待っている。



Passionとは
自分が変容するための炎であり、
古い自分を焼き尽くすところからくる苦しみ。


「産みの苦しみ」。



私はそんな風に解釈することにしました。



そして、私が解釈するPassionを
Compassionに当てはめると・・・



「人の苦しみや悲しみを共に感じる。」
という時の苦しみや悲しみ・・・
それは生きていると、必ず、必ず、
誰しにもある。


そして私が思う、その生きている中での苦しみや悲しみ・・・

それは人を高みへと変容させるものなのだ。
そこには、その苦しみや悲しみと向き合い、
焼き尽くされた後に残る、
新たなあなたがいる。。。

もうあなたはそれまでのあなたとは違う。


Compassion...
人の苦しみや悲しみを共に感じる、というのは、
その人が通っている変容のプロセスを、
「自分だってそうである」と
心で寄り添うことであろうと思うのです。
その相手がとんでもなく嫌な人間で、
自分に酷いことをしたような人でも、

その人自身も、その人の今いる場所で
変容の道を歩いている。

自分だってそうである。

CompassionというのはForgiveness(許すこと)とも
似ていることです。


Forgivenessというのは、
誰かがあなたにした酷いことを
「いいよ。」と言って認めることでは決してないのです。
その過去にされた「酷いこと」に
もうしがみつかずに、「あなたをそこから自由にすること」です。


そこで初めて
あなたはその人に対してCompassionを持てる、
そのように思います。



さて、私はPassionの人であるが、
今のテーマはCompassionである、と先に書きましたが、


それはズバリ、
私がまず自分自身に対してCompassionを持てるか、ということです。
決して完璧になることのない、不完全な人間である私に対して、
その魂の変容の道、苦しみや悲しみの炎を通る自分、
時にはみっともない姿で泣きながら前に進もうとする自分に対して、
「それでいいんだよ。十分にやっているよ、あなたは。」と
心から言ってあげられるか、です。


みっともないんじゃない、
それも立派なあなただ、と言ってあげられるか。



それを学んだ時、
私の世界はどう変わるだろう。
私はどんな気持ちで歌うだろう。
私はどんな歌を歌うのだろう。




PassionとCompassion...

そんな風に私の中で繋げました。




今度こそ消去しないぞ、笑。






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新月を越えて 新しいPCと共に!

2022年09月28日 | 生きていると
今日のブログは
三日前に(不可避的に)清水の舞台から飛び降りて購入しました


My New MacBookAirから初投稿!
おめでとちゃ〜〜ん!!!(→私)



いかにしてPCのリニューアルが不可避となったかご興味のある方は
こちらのブログにてどうぞ。



コンピューターのこととなると
一人で勝手にいじり出すと遭難する私は
購入前に頼もしき友人に相談しまして、
その友人に「買いました!」と報告をしたところ、
あちらから「明日あゆちゃんちに行って一緒にやってあげる!」という
神のお言葉をいただきましてね、


でも内心、


え?え?もう開けるの?!
もう始めなきゃいけないの?!明日?!
(つまり買った次の日。つまり、それは昨日)



コンピューター博士、いや、オタクのKちゃんは、いや、K先生は、
新しいMacを開けたくてしょうがないわけ。
もう自分が購入したかのようにワクワク興奮しているわけ。


一方私はというと、
そもそも『遭難』してしまうタイプだし、
過去にも何度も『遭難』しているので、


購入した時点で第一ミッション・コンプリート、
まずはしばらく休もう。




・・・となるところを強制的に阻止したのが、神、Kちゃんよ。


私の購入時の状態を例えて言うなれば、
期末試験があるのは分かっている。
どこかの時点で試験勉強を始めないといけないことも分かっている。
はい、教科書も、ノートもあります。
でも、


ギリまでやんない。
ギリまで教科書開けない。
ギリまで机に向かわない。



コンピューターとは。

Kちゃんにとっては縦横無尽に遊べるパラダイス。

私にとっては遭難してついには息を引き取るかもしれないラビリンス。


そんなビビりまくる私を
買って一日の猶予もなく強引にその新たなPCの旅へと引き摺り込んだ(いや、引き摺り込んでくださった)のが
我が友、我が師、Kちゃんでありました。


(ちなみにKちゃんは長年の歌手友達で、
CMクイーンとして名をとどらかせていらっしゃる。
彼女の声をTVで聞いたことがない人はいない。)


Kちゃんに乗せられて(?)
一緒に開封式をした動画と、

いよいよPCの電源を入れ、ジャ〜〜ンっていう音が鳴って、
いきなりスクリーンに「こんにちは」とかって出て感動したはいいが、
そこから世界の国々の言語によるコンニチハが展開し始め、
一体いつまでそれにお付き合いすれば良いのか戸惑ったシーンがこれ↓







とまあ、儀式は終わり、
そこからいよいよ初期設定。
インターネットへの接続。
iCloudの使い方、などなど。


K先生がいなければ、確実に遭難していたよ。マジで。


先生は(もちろん)ご自分のMacBookAir(私が今回買ったのと同じもの)を持っていらしていて、
途中、「あれ?」ということがあると、
もう速攻ググって、正解を叩き出すというね。


もう、凄すぎ。


ググりのエキスパート。



ああ、そこなんだなって思った。
「調べる力・速さ」よ。


いくらオタクでも全て知ってるわけじゃない。
困る時もある。
そこで、私のような凡人はオロオロするわけですが、
オタクはかくも冷静にGoogleへと向かう。


そんな彼女は神々しく、
私なんかはもう憧れの眼差しよ。


すごーい!すごーい!
すご〜〜〜〜〜〜い!!!の連発でして。


彼女からしたら
「いや、そこを褒められても、汗」だったろうけど、
私はたくさん学ばせていただいた。



お陰で、
今私はこの真新しいパソコンで、
古いのと比べたら、
もう素晴らしい画質と、広いスクリーンと、
キーを打つ時のなんとも言えない心地よさで
(他にもいっぱいある!)


ブログを打っています。


改めてKちゃんに心から感謝いたします。
ありがとう!


26日に新月とおニューのPCを迎え、
昨日27日にPCが開通し、
ここからは来週の我がバースデーへと向かいます。


私にとってNEWが続くこの期間はなんだか特別です。
特に今年は。振り返るとね。
決して気負ってる訳ではないの。
ただこの前、自分へのお誕生日の願い事をして、
その願いが叶うといいなあ!と思ってるところです。

モノ、ではなくて、
自分の在り方のようなものでしょうか。


So be it!



ではでは
新しいPCと私(←hopefully)からみなさんへ、
ここからまたどうぞよろしくね!


Love, AYUKO



Harvest Time! 収穫の時!







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Wish Upon A Star ~星に願いを~

2022年09月20日 | 生きていると
『妄想する』という言葉は、
本来は精神科医療用語で一つの病なのですが
(ごめん、ウンチク↑)
もうここ何年も「非現実的な想像に浸る」という意味で、
一般的に使われていますわね?

(あ、因みに前回のブログを読んでくださった方、
まだ新しいPC買ってないのです。
だから例のめんどくさいやり方でやってます。
25日が新月を迎えるので26日に買おうかなあ!と
私らしく、スピらしい計画を立てています。)

で、話を戻しますと。

何か願いごとをする時というのは、
私たちは『想像』します。


大切な人の病気が早く治りますように。
お友達と仲直りができますように。
あの人ときっと素敵な再会ができますように。
試験に受かりますように。
このプロジェクトが成功しますように。
あの仕事に就くことができますように。

ほんの例えですけれど。


『妄想』というのはある種の願いではあるのですが、
それは「願いごとをするために想像する」のとは随分違うのだな、
と最近分かりました。

妄想、をする時というのは、
そこに「心」がないような気がするのです。
頭の中で自分勝手にドラマを作り上げる。
自分が浸れるような。
第三者がいる場合、一人でも、複数でも、
その人たちを「駒」にして、
自分の好きなように動かして。


だから妄想はダメ、じゃなくて、
誰しも「夢のような映画」を自分の頭の中で作る時はあって、
でも、やはりそれは「非現実的な想像に浸る」という行為。
妄想タイムが終わったら、それで終わり。
そう、映画館から出て、現実に戻る、そんな感じだと思います。


妄想もそこにある種の「願い」があるけれど、
願いごと・・・、それはある意味「祈り」に近いと思うのですが、
その時の想像というのは、


先ほども書いたように、
「心の中」で起きるような気がするのです。

心の中の想像です。頭ではなくて。


今、私の大切な友人が大きな病を宣告され、
これから闘おうとしているのですが、
私の願い、祈りというのは、


本気の願いだもの、
彼女が再び元気に、豪快に笑ってるのを、
何が何でも私は想像する。
非現実的な「妄想」などにはしない。
心の中で彼女の笑顔を想像する。
そして、私ができることはやりたい、と思っている。
「現実的に」私ができることは。


全ての具現化(現実に作り出すこと)というのは
まず「想像」、Imaginationから始まる。
想像できなかったら形にもできないじゃない?


心の中で想像する。
鮮やかに想像する。
はっきりと想像する。

自分が「叶えたい」と願っていることを。

そして、それを維持する。


維持することによって
「それを生きる」ということになるのだと思います。
ここが、妄想のように終わったら映画館を出る、のとは違うところ。


星に願いを。
心の中で鮮やかに。


願いをかけたら、
その想像を常に心の中に置いておきながら、
それを生き始める。


それを生きる、というのは、
いつ、どうやって、どこで、という未来に
常にフォーカスして心配しながら生きるのではなく、
逆にそれは「よろしくね~~!」と宇宙に投げて、

自分は今目の前のことに集中して生きる。
それに向かっている自分として生きる。

想像した願いが創造されるまでのプロセスに参加する。


「今」自分は何をするのか。


ひたすらに「今」の連続を生きる。
自分の鮮やかな想像に導かれていることを信じて。


願いごとが自分のことであれ、誰かに対してであれ、
誰かと、であれ、
喜びがそこにあるのなら、
今からその喜びを「感じて」生きてみる。
そこまでどうやって行くの?は心配しない。
流れを信じること。今を生きれ。
鮮やかに想像して、維持する、というのはそういうこと。


『妄想』が頭の中の自作自演の映画だとしたら、
『星への願い』とは心の想像を実際に「今、生きる」。


今朝、「そうか!」と思ったのです。




What is your wish, my dear ones?


ね?心の中で想像するの。











PCの死と、私の再生

2022年09月19日 | 生きていると

なんのことかと言いますと。
私はPC(MacBookAir)が
半年くらい前から「ん?」なことが起きるようになり、
疎い私は「ん?」のまましばらくPCをそのまま使っていまして。
なんだか普通にリンクをクリックしても、
リンク先に直接飛ばないで、いつも,
ある「サーチエンジン系」サイトが出てくる。
(なのでいちいちリンク先のURLをコピーしてやってた)
すごい不自由だなあと思いながら日々が過ぎ、
2ヶ月前くらいにようやく、その変なサイトのURLを調べてみると、
ウィルス(のようなもの)で被害にあっている人たちがいる。。。

そこで、じゃあ、どうやってそれを除去すればいいのか調べてみると、
何やら複雑な工程で手動でやらねばならない。
試したのだけれど難し過ぎて途中で断念。

普通にインターネットをやるのなら、
面倒な手順を踏めば、見られる。

「専門の人に見てもらわないと」と思いつつ、
日々が過ぎていったのでした。


ところが、先日、自分のwebsiteを編集したくページを開いたはいいが、
あらゆる「クリックするところ」がちゃんとその場所に行ってくれない。
例の「URLをコピーして」という手順も効かない。


そこで、ようやく
「こりゃまずい。ちょっと不自由、じゃ済まないぞ」と。


で、近くにあるとある〇〇デポにとりあえず見せに行ったところ、
エンジニアさんも手こずっていたようで、
長い時間待ったけれど、
いわゆる「ウィルスではない」が、何かをダウンロードした時に、
くっ付いてきてしまったのではないだろうか・・・。
結局のところ「初期化するしかない」とのこと。

まあ、この先の新しいPCを買う上でのセールスなどは置いておいて、


ああ、もうこれは買い替え時なのだなと悟った。


そもそも、今持っているのは
3年くらい前に当時のMacBookに私はコーヒーをこぼし、
もはやPCは立ち上がらず、大急ぎで〇〇デポへ行って、
お金の問題もあり、2014年製の中古のMacBookAirを即購入したのです。
幸いデータの入っていたチップは無事だったので、
そのチップを中古の方に移動して、危機を乗り越えたわけです。


そうすると、今おかしなことになっているPCは8歳ということ、
しかも中古で買ったわけですから、
今更初期化して何して、という延命を選ぶよりも、
もう十分に働いてくれたのだから、ここで引退、
そういうことでいいのだ、と思いました。


その後の話として、
とりあえず〇〇デポから帰ってきてPCをいじってみると、
よりおかしなことが起き始めていて、
それは検査の過程で何かしらが起きてしまったと思うのですが、
電話しても「それもそのウィルスのせいで、初期化するか、新しいものを購入するか」といきなり言ってくるので、「見てもいないくせに、それはないでしょう」と怒ったのですが、


やめた。


やめた、やめた。


心に「新しいのにしなさい。心機一転始めなさい。」と言われてることを
認めることにした。


最近、私は「SNSやYoutubeにアップする動画をもっとちゃんとしたものにしないといけない」と、これも前々から思っていたことなのですが、ちょっと前に「やはりそうか」という
きっかけとなるようなこと起き、決意したところで、このPCの終焉でしょ。

こういうシンクロニシティーというのは
本当に起きるもので、
何かが「あっちへ行け!」とあちらこちらから
新しい方角を示してくる。


これからも使うであろうガレージバンド(音楽を作ったり録音したりするソフト)、
万が一、ロジックというプロフェッショナル用のソフトをダウンロードしたくても、
今の古いものでは型が古過ぎてダウンロードできない、
そして、動画作りはまずはi-moveiから入るにしても、
今にに入ってるものと、最新のものでは雲泥の差があるだろうと思う・・・


なんと納得するタイミングでの、
納得する出来事と、
納得する決断であろうよ。


タイトルに「PCの死と、私の再生」と書いたのは、
PCの死というものが、まるで古い私の完全なる死を象徴しているような気がしたこと、
そこからPCを新しいものにすることは、
私自身の死からの再生、新しい自分の誕生、
そんなことを象徴しているような気がしたからです。


あまりにも、(外的なことではなくて)
自分の内面でのことにリンクするのです。


PCというのは(私の場合はノートパソコンだけど)
まあまあ大きめの買い物ですが、
それだけに思い切って新調した時って
ものすごくワクワクしません?
まるでここから新しい世界が広がるような。


よく「外から入る」なんて言い方がありますが、
それはそれですごくアリなことだと思います。
今回の私もきっとそう。

ピッカピカのPCに、
私自身を新規にするために
後ろから押してもらう。


もう一押しなところの、
一押しをね。


そんな訳で、もはやAmzonでお買い物はできないは、
おまけにこのブログの編集画面にも行けないはで、


もう買う!!!!



(私に待っているのは、初期設定と、データ移動、
そして何よりも恐れているのは、インターネットに繋げられるのか、一人で。
毎回、そこでつまずいてプロバイダーに電話してアレして、
っていう過程でドッと疲れ、ヨレヨレになる。。。)



(因みにブログ編集画面に行けないのにどうやってこれアップするのかというと、
まずはパソコンのPagesにて原稿を打ち、それを私のスマホのメールに送り、
それをコピーして、スマホからブログ編集画面に飛び、そこでペースト。
あの小さな画面では到底打てない!これを今皆さんが読んでくださったということは、
成功したのね!)



さて、次回は、無事に買って、初期の諸々の嵐をくぐり抜け、
新しいMacBookAirからブログをお届けできるのかしら~~~~!


こういうワクワクは生きていて
とっても大事ね。
そういう意味ではこんなワクワクを体験できるのは
幸せなこと。


Death and Rebirth
They are twin angels, you see?


不死鳥の如く


次はこれ!




洗濯機で説明しよう

2022年09月14日 | 生きていると
今日は親友のHちゃんと
久しぶりに電話で話す機会ができました。


彼女は、ありがたいことに、
このブログをいつも読んでくれているのですが、


「あゆちゃんがしばらくブログ更新してない時は、
ああ、今、籠ってるんやなあ、って、笑。
で、更新が続いてる時は、
おお、続いとる、続いとる、って、笑。」


一緒に笑ったのですが、
いやいや、おっしゃる通りで、
ブログがしばらく更新されない時は
はい、お籠り状態でございます。


個人的にはお会いしていませんが、
多分、長らくこのブログとお付き合いしてくださってる方々も
いらっしゃるのではと思っておりまして、
そんな皆様も、きっとHちゃんみたいに
「ああ、またこの人籠ってんな」とか、
「おお、最近は調子いいんじゃない?」なんて、
私の「パターン」を見抜いていらっしゃるのではないかと。


そんな話をHちゃんとしながら気づいたのは、
やはり、自分が下の方にいる時というのは、
まあ、下の方で一生懸命、その下の方の自分と向き合いながら、
日が差す方へとそんな自分を連れていこうと奮闘しているのですが、
そういう時というのは、どうしても「言葉」にならないのです。


洗濯機でいうと(なぜ?笑)
グルグルと「洗い」→「すすぎ」というプロセスにいまして、
そういう時は服がいっしょくたになって
ある意味混沌としながら回っている。
言葉にならない、というのはそういうことです。(は?笑)
「すすぎ」が終わりますと、
今度は激しく「脱水」という最後の段階となり、
流れるメロディーと共にそれは収束を迎え、
ようやく「干す」。

そこで、いっしょくたになっていた服は
一枚一枚、太陽の下に干される。


で、私がブログを書く時というのは、
太陽の下に干している時か、
乾いて一枚一枚畳んでいる時か。


・・・。



そんな感じです!


因みに今打っているブログは・・・


(私は2日に一回の頻度で選択をするのですが)

洗濯しなくていい日


という、たま〜〜にあるバージョンでして、
つまり、


洗濯と洗濯の間。



で、さっきのお話に戻しますが、
「言葉が出ない」時というのは、
私が奮闘している時なのですが、


歌にしても、オリジナルを書く時、
私個人的には「渦中のグルングルン」状態を歌いたいと思わなくて、
太陽の下に干して、見えてきたものを歌いたい、そう思っているのです。


ネガティブなものとグルングルンした後に、
見えてきたもの、を歌いたい。

決して「上っ面の明るい歌」ではなくて、
暗闇を通り抜けての明るい歌を歌いたい。


暗闇そのものは、
あくまでも個人的ですが、
私は歌にしたいとは思わないのです。


・・・というのが、今後、たくさんオリジナル曲を書いていこうと決めた私の、
多分、スタイルなのだろうなあと思っています。


暗闇を通らない人間なんて誰もいなくて、
通ってませんという顔して歌いたくもないし、
かと言って、通ってきました、というのを顔に出して歌いたくもない。


そんなようなことを今日、Hちゃんとの私のブログについての会話で思いました。



太陽の下に干された服というのは、
きれいになっているけれど、
新品の服とはまた違って。


洗濯機のグルングルンに耐えた分、
強くたくましく清々しい・・・?
(洗濯の話で詩的にするには無理があるわね、笑)


ということで
今回は、洗濯と洗濯の間の日のブログでした。




つまり、たまりつつある・・・?!




*聴くブログ!?「Soul Quest Sound Blog」という
ラジオなようなものを勝手に作って展開しております!
このブログの調子が、そのまんま私のトークと音楽で展開されています。
このブログのカテゴリー「Sound Blog」から是非どうぞ!
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