AYUKO SAITO's Soul Quest Journal

歌手・アーティスト
どんな風に生きたい?どんな風に在りたい?
DEEPな魂の旅を皆さんと共に。

「実はね」で話せたら

2023年12月03日 | 人との関わり(愛とか)
ブログには
自由奔放に色々書いているくせに、
近しい人に対して
「言葉を呑む癖」があることが
分かりました。


今朝、
親しい友人の一人とラインのやり取りがありました。

別に深刻なことでもなんでもない、
彼女からお願いがあったのです。

で、内容はごくごく正当なことで、
そこに全く疑問はない。

すぐさま「了解!心配ご無用よ!」的な返信をして。


けれど、私はちょっと傷ついたのですね。
それをわざわざ伝えないと、
私には分からないだろう、と思われているのではないか、って。
(全くそういうことではない、
というのはその後の会話で明らかになるんだけど。
っていうか、そんなのは最初から分かっていた)


いつもの私は
そういう「傷ついた」とか「それは嫌だ」という感情とか、
言葉だとかを呑んでしまう。


別に大したことないし、
「私が勝手に感じてることだから」と
一人で処理する。

そういう風に感じる自分が悪いのだ、って。


でも、今回はそれを言葉にした。

私にとっては実はかなり勇気のいることでした。


「ちょっと心が痛んだよ」というラインを打ちながら、
心の奥がズキズキと痛む。
このズキズキはなんだろう。


結果、いかんせん長いお付き合いの友人なので、
「いやいや、そんなつもりはなくてー!」と、
なぜ彼女がそのようなお願いをする必要があるのか、
そのバックグラウンドをお話ししてくれて・・・


「そりゃそうだ」と私はすっかり理解できた。


問題はその内容ではなくて、

私は言葉を呑んでしまう癖がある、

ということにハッとしたのです。


それは「私にとって近しい人」に対して。


近くない人であれば、
私の境界線を踏まれるようなことがあれば、
断固として真正面から立ち向かい、
流暢に言葉が出るというのに。


私がそういう(相手はそのつもりはなくても)
「傷ついた」とか「嫌なんだ」ということを
近しい人に言うとなると、


「そこからどんな展開になってしまうのだろう。
喧嘩みたいになったらどうしよう。
ナイフのような言葉がいくつも飛んできたらどうしよう。」


そういう恐怖感に襲われるのです。

そんな恐怖を味わうくらいなら、
自分で処理した方が安全だ、って。




でね。

別に伝えてもいいし、伝えなくてもいい。
ただ、「選択」があるというだけで。


今朝のことも
別に大したことではないし、
いつまでも尾を引っ張ることでもなんでもないし、
伝えなかったとしても、
なんの問題もなかった。


なぜ伝えてみよう、と思ったのかはよく覚えてないけれど、


一つ言えるのは、
すごく当たり前でシンプルなんだけど、


「相手と密なコミュニケーションができる」


ということです。

コミュニケーションを取る、ということは、
相手の「実はね」のお話を聞けること、
またこちらの「実はね」のお話を聞いてもらえること、

世間話ではなく、
自分と相手との間で発生したことなので、
「お互いを知るチャンス」となるわけです。


その「実はね」という姿勢がすごく大事なのかもしれない。


「実はね」というのは、
その言葉どおり、「本当のところ」の話。
自分を守るわけでもなく、
相手を攻撃することもなく、
「丸腰での話」、
そういうことなのだと思います。


「実はね」の姿勢がお互いにあると、
丸腰のままで向き合う、
正直「見せたくない弱いところ」もあったりするけれど、
でも多分、そうやって人は信頼関係を築いていくのだろうし、
そうすると「見せたくない弱いところ」すら、
その関係性においてはお互いにとって、
「力」「強さ」になるのかもしれない。


地に足の付いた、
一番「ボトム」にいる自分を見せるということは、
弱いところも含む自分を丸々受け入れるということ、
そして、相手に丸々受け入れてもらうということ、
そういうことかもしれません。


彼女からはもちろん、もちろんの助、
喧嘩にもならなかったし、
ナイフのような言葉も飛んでこなかった。

彼女が私の「心が痛んだ」というメッセージを読んで、
すぐ様どのような感情が湧き上がったかは分からないけれど、


彼女は
最初から「実はね」で会話を始めてくれた。


決して感情的になることも、
喧嘩になることも悪いことじゃない、

でも、最終的には
「実はね」の会話でしか
関わりは深くはならないだろうと思う。


難しいのは
感情的になったりしている時、
自分の「実はね」がよく分かってない時が多々ある。


とにかく
「相手に対しての反応」としての感情がそこにあるだけで、
実際問題、自分は「本当は何に反応して感情的になっているのか」
分からなかったりする。


お互いがそういう状態だと、
感情的な喧嘩で終わってしまう。

そして「仲直り」というのは、
それぞれがようやく「実はね」の話をできる準備ができた時だ。



さて、先に記しました、

*******
「そこからどんな展開になってしまうのだろう。
喧嘩みたいになったらどうしよう。
ナイフのような言葉がいくつも飛んできたらどうしよう。」

そういう恐怖感に襲われるのです。

そんな恐怖を味わうくらいなら、
自分で処理した方が安全だ、って。
*******


この「恐怖感」というのは、
皆さんも持っているものなのでしょうか?

もしかしたら、私個人的な体験から来ているのでは、と
今勘ぐっているところです。


そしてそれは
子供の頃に見ていた両親だったのでは、とハッとしたのです。


私の父は(今思えばその理由は分かりますが)
とても短気な人で、いつも機嫌が悪かった。
でも暴力を振るう人では決してありませんでした。

母のことがやたらとイライラするみたいで、
機嫌が悪い時は、いつも母に当たっていました。

当たるならまだしも、
なんでもないきっかけで
ものすごい剣幕て怒り狂う時もありました。

それは私や弟にもそうでした。

もはやこちらがなんの言葉も返せないほど、
こちらを追い詰める、
そういう怒り方でした。

中学生か高校生の時だか、
私は母に「なぜ言い返さないのか」、聞いたことがありましたが、

「言い返したら大変なことになるし、
私はそれが嫌だから黙っている」

そんなようなことを言っていたのを覚えています。




なんでもかんでも
過去をほじくり返せばいいわけではないし、
そこに「その恐怖心の原因」があるのかも分かりません。


ただ、
今朝の一件で
「相手から何が返ってくるか分からない」ということに対しての
「恐怖心」というものに対して、
あれ?と思ったのです。


そりゃ誰しも
誰かと向き合って話す、ことに対してドキドキはあるかもしれませんが、


私の持つ恐怖心に違和感を感じたのです。


そこでふと
私が小さかった頃の両親を思い出したのでした。



友人に「ちょっと心が痛むよ」と打って、
全くなんでもなく穏やかな会話の後も、
心がズキズキしていたのは、
あの頃にとても傷ついたままの、
自分の心がまだ残っているからだろうか。


「実はね」ではなく、
ひたすら怒りで追い詰められ、

いつも父の顔色を伺っていたような。。。



父との幸せな思い出ももちろんあり、
もうとっくに仏様になってるし、
今の私は感謝と許し、に辿り着けたと思ってるけれど、


それこそ
「心の癖」のようなものが、
まだ置いてきぼりをくってるのだろうか。




まだ「答え」は見つかりません。








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