私はもともと何でもかんでも自分でやるのが好きで、
人と同じのが嫌で、指図されるのも嫌で、
その時その時のマイワールドを創る、全開で表現する、というのが、
歌手としてのみならず、多分、私はそういう人で、そうやって生きたいのだと思います。
私たちは体を持ち、物質世界に(も)生きていますが、
ある意味、物質的という「制限」があるからこそ、
より工夫を凝らし、cretaivityが試されるのだなあ、と最近、思います。
面白い世界に生まれたものだなあ、と。
タイトルに「producing」と付けましたが、
こんな私なので、自由に好きにプロデュースをすることに
大変な喜びを感じます。
特に、3年前にステージ復帰してからは、
毎回、セットリストから、フライヤーから、お店から、衣装から、トークに至るまで、
「さて、どんな世界や物語を創って届けよう?」と、
ワクワクしながら、時には大いに悩みながら、
それでもそのプロデュースのプロセスから本番が終わるまでは、
私にとって人生の宝物のような時間です。
そう考えた時に、私たちは、
人生だって自分がプロデュースしているのではないかと思ったのです。
ただ、「思うように行かない」ことがとっても多くて、
それこそいつも自由に好きにという訳にもいかなくて、
自分以外の人たちもそこにいて、思いや考えも複雑に絡まっていたりして、
セルフプロデュースは勝手にやれるけれど、
人生のプロデュースとなると、一筋縄では行きません。
それでも、自分の人生の手綱は自分が持っているのだ、と明言してしまうと、
例えば、自分が映画のプロデューサー、監督になったつもりで、
もっと大きな「全体」を見られるようになるのではないかと。
たくさんの登場人物、たくさんのロケーション、同時進行のシナリオ・・・なんかも、
プロデューサーとしてそれらを観ると、
「その一部で、全部受け身の私」として観るよりも、
「ほほー!」という発見があるかもしれません。
そして生きていれば、もちろんグダグダや、モヤモヤや、
苦しみや悲しみもやって来ます。
でも、もし自分がそれをそれこそ、「produce(生んでいる)している」のならば、
まさにプロデューサーとして、「さて、ここで、ここから、主人公(私)は何を体験したいのだろうか。
そして、それを体験するには次は何をすれば良いか?」と問うことができる・・・ではないですか!(ヒラメキ!)
しかも「何を体験したいか」は自分で決められます。
そしてそれは何でもいいのです。
私なんかはすぐに「愛だ、喜びだ、トキメキだ」というプリンセス思考になりますが、
「敢えて、苦しみと困難を体験して、強くなる!」というサムライ思考でも良いのです。
そして、自分が体験したいことを体験するには、
次にどのような行動に移れば良いか、もしくは、どのように思考を変換するか・・・
そういうことだと思います。
多分一番ダメなのは、今起きていることを「自分の外側のせいにする」ことです。
もちろん、青天の霹靂、まさかのトラブル、「アタシじゃねーよ!」な出来事はたくさんあります。
でも、そこで手綱を自分以外のモノや者に受け渡してしまうと、
その先の、「ここで、ここから何を体験したいか」という選択権をも放棄する、
つまりプロデューサーとしての権限を放棄することになってしまうと思うのです。
なんて、言うは易しでございます。
かく言う私も、
「で、私はどうしたいんだ?どうすればいいんだ?」という
ラビリンスにハマることが多い訳でして、で、そーゆーのがいい加減めんどくさくなるわけです。
そこで、「ああ、もーいいや〜!surrender〜!」となれたらフォースの覚醒の域なのですが、
如何せん生真面目なのか、執拗な私は
「いやいや、私は今の状態、自分の真意、真実を知りたい」とかってなっちゃうか・・・ら、
こういうことを書いちゃうんじゃん!
でも、「自分が人生のプロデュースをする」というのは、確かに今日閃いたことなのです。
外側で起きる色々な事象をどう色付けて、
どう演出して、
どう自分を持っていくか
・・・は確かに私たちの持つパワーの圏内のはずなのです。
私自身がよく体験するのは、
「自分の真意がわからない」、そこで「次の演出ができない」ということです。
自分の真意がわからない、というのは多分ウソで、
自分の真意を知りたくない、のです。
それは恐れから来るものです。
真意を知ってしまうと、計画台無し、心地よい、でも古いパターンが壊される
・・・つまり自分が良しと思ってしがみついている何か
・・・を手放すことになるかもしれない。
もとい、実は、その時点で「真意を本当は知っている」のです。
プリンセスAYUKOは「愛だ、喜びだ、トキメキだ」を体験したい。と言ってるのに、
その体験を選んでいない。
プロデューサー目線から彼女を見てみると、プリンセスは何かに執着している。
「〜じゃないとダメ」「こうじゃないとダメ」があるのだ。
それさえ取り除けば、ほら、あっちにもこっちにもあるのだよ〜、それらは。
外の事象を変えるんじゃない、内側の思考を変えろ!
体験したい感情、感覚を体験するために、そっちの視点で物語を創れ!
これはまさに修行。
しかし身につけることが、
自分の人生を真に自由自在にプロデュースすることなのでは、と思ふ。
Freedom within is always the key...
歌手AYUKOのページはこちら♪
人と同じのが嫌で、指図されるのも嫌で、
その時その時のマイワールドを創る、全開で表現する、というのが、
歌手としてのみならず、多分、私はそういう人で、そうやって生きたいのだと思います。
私たちは体を持ち、物質世界に(も)生きていますが、
ある意味、物質的という「制限」があるからこそ、
より工夫を凝らし、cretaivityが試されるのだなあ、と最近、思います。
面白い世界に生まれたものだなあ、と。
タイトルに「producing」と付けましたが、
こんな私なので、自由に好きにプロデュースをすることに
大変な喜びを感じます。
特に、3年前にステージ復帰してからは、
毎回、セットリストから、フライヤーから、お店から、衣装から、トークに至るまで、
「さて、どんな世界や物語を創って届けよう?」と、
ワクワクしながら、時には大いに悩みながら、
それでもそのプロデュースのプロセスから本番が終わるまでは、
私にとって人生の宝物のような時間です。
そう考えた時に、私たちは、
人生だって自分がプロデュースしているのではないかと思ったのです。
ただ、「思うように行かない」ことがとっても多くて、
それこそいつも自由に好きにという訳にもいかなくて、
自分以外の人たちもそこにいて、思いや考えも複雑に絡まっていたりして、
セルフプロデュースは勝手にやれるけれど、
人生のプロデュースとなると、一筋縄では行きません。
それでも、自分の人生の手綱は自分が持っているのだ、と明言してしまうと、
例えば、自分が映画のプロデューサー、監督になったつもりで、
もっと大きな「全体」を見られるようになるのではないかと。
たくさんの登場人物、たくさんのロケーション、同時進行のシナリオ・・・なんかも、
プロデューサーとしてそれらを観ると、
「その一部で、全部受け身の私」として観るよりも、
「ほほー!」という発見があるかもしれません。
そして生きていれば、もちろんグダグダや、モヤモヤや、
苦しみや悲しみもやって来ます。
でも、もし自分がそれをそれこそ、「produce(生んでいる)している」のならば、
まさにプロデューサーとして、「さて、ここで、ここから、主人公(私)は何を体験したいのだろうか。
そして、それを体験するには次は何をすれば良いか?」と問うことができる・・・ではないですか!(ヒラメキ!)
しかも「何を体験したいか」は自分で決められます。
そしてそれは何でもいいのです。
私なんかはすぐに「愛だ、喜びだ、トキメキだ」というプリンセス思考になりますが、
「敢えて、苦しみと困難を体験して、強くなる!」というサムライ思考でも良いのです。
そして、自分が体験したいことを体験するには、
次にどのような行動に移れば良いか、もしくは、どのように思考を変換するか・・・
そういうことだと思います。
多分一番ダメなのは、今起きていることを「自分の外側のせいにする」ことです。
もちろん、青天の霹靂、まさかのトラブル、「アタシじゃねーよ!」な出来事はたくさんあります。
でも、そこで手綱を自分以外のモノや者に受け渡してしまうと、
その先の、「ここで、ここから何を体験したいか」という選択権をも放棄する、
つまりプロデューサーとしての権限を放棄することになってしまうと思うのです。
なんて、言うは易しでございます。
かく言う私も、
「で、私はどうしたいんだ?どうすればいいんだ?」という
ラビリンスにハマることが多い訳でして、で、そーゆーのがいい加減めんどくさくなるわけです。
そこで、「ああ、もーいいや〜!surrender〜!」となれたらフォースの覚醒の域なのですが、
如何せん生真面目なのか、執拗な私は
「いやいや、私は今の状態、自分の真意、真実を知りたい」とかってなっちゃうか・・・ら、
こういうことを書いちゃうんじゃん!
でも、「自分が人生のプロデュースをする」というのは、確かに今日閃いたことなのです。
外側で起きる色々な事象をどう色付けて、
どう演出して、
どう自分を持っていくか
・・・は確かに私たちの持つパワーの圏内のはずなのです。
私自身がよく体験するのは、
「自分の真意がわからない」、そこで「次の演出ができない」ということです。
自分の真意がわからない、というのは多分ウソで、
自分の真意を知りたくない、のです。
それは恐れから来るものです。
真意を知ってしまうと、計画台無し、心地よい、でも古いパターンが壊される
・・・つまり自分が良しと思ってしがみついている何か
・・・を手放すことになるかもしれない。
もとい、実は、その時点で「真意を本当は知っている」のです。
プリンセスAYUKOは「愛だ、喜びだ、トキメキだ」を体験したい。と言ってるのに、
その体験を選んでいない。
プロデューサー目線から彼女を見てみると、プリンセスは何かに執着している。
「〜じゃないとダメ」「こうじゃないとダメ」があるのだ。
それさえ取り除けば、ほら、あっちにもこっちにもあるのだよ〜、それらは。
外の事象を変えるんじゃない、内側の思考を変えろ!
体験したい感情、感覚を体験するために、そっちの視点で物語を創れ!
これはまさに修行。
しかし身につけることが、
自分の人生を真に自由自在にプロデュースすることなのでは、と思ふ。
Freedom within is always the key...
歌手AYUKOのページはこちら♪