AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

タッチパネルメニューという迷宮@回転寿司

2020年11月30日 | やんややんやの日常
このブログのトップページの上には
「日々感じていることをDEEPに書きます」
と記されていまして、
はい、その通り「DEEPが売り」、
いや、単に小難しいとも言える、ブログでございます。

しかし!!!

今明かしますと、
本当は「(注:DEEPじゃない時もあります)」と
加えたかったのですが、
なんと文字数オーバー!ということで断念した次第。


ということで、
今日は

DEEPじゃない日常の小話

をご紹介。

はじまり、はじまり〜〜〜〜


つい先日のこと、
お昼ご飯を回転寿司に食べに行きまして。


今や当たり前となったのでしょうか、
パネルをタッチして注文するというアレでございました。

夜タイムよりもお客さんが少ないのか、
またこんなご時世なので、そんなに回っていないので、
食べたいものが回っていない時は、
パネルメニューから注文しなくてはなりません。


この手のやつがあまり得意ではない私ですが、
致し方ない、食べたいものをいただくためにいざ出陣。

ふむふむ、まずは大雑把な種類欄から「にぎり」をタッチして・・・
はは〜〜、ここで魚の種類が選べるのね、とかなんとかやりながら、

「で、戻るにはどうすりゃいいんだ?」とか、
「戻る、押したのにさっきの画面じゃないじゃん!」とかアタフタしながらも、
まあ、なんとか最後の「注文する」をタッチして一段落。
ふ〜〜〜。(疲労困憊)


そこへ、70代以上と見られるお兄様お姉様のグループがやっていらして、
私たちのテーブルのすぐ後ろに座されたのでした。


ほどなくして、何やら賑やか、というか、ざわついている。
どうやって注文するんだということで、
握ってくれる職人のお兄さんと揉めているんだかなんだか、
どうも70'sグループは「口頭で」注文したいらしいのだけれど、
お兄さんは「感染予防もあるので、すみません、口頭では注文はお受けできません」と。


つまり、70's集団は
パネルで注文という戦さに出陣したくない
わけである。

分かる。。。よく分かる。。。
もうすぐ50'sの、だけど彼らに比べたら、
「そうは言ってもまだ」50'sの私でさえも
そのお気持ち、よーくわかりますです。

アレはラビリンス(迷宮)である。

しかし。ルールはルール。

パネルで注文するか、しないか。
生か、死か。

もうそれくらいの崖っぷちに立たされた70's。

いざ出陣したのであろう。
早速てんてこ舞いの様子が伝わってくる。
やはり、早々に「あの世界」でロストしたのであろうか。

でもどうやら、私のように「どうやったらあの画面に戻れんの?」というよりも、
「そもそも、これ何?どうやって使うの?もー何が何だか分からないんだけど。」といった、
出陣する以前の「まず、どこからどうやって敵地に入ればいいのか」という事態が起きているようでした。

結局、その敵地側の人(店員さん)が助っ人としてやって来る、という緊急事態に。



・・・感染予防という壁を超えた、和平条約成立。


まあとにかく、やんややんやの大騒ぎでした。


追記:
その後、ようやく助っ人と共に迷宮を無事にお出になられたのでしょう、
早速品々がやってきたのですが、
今度は、数が違うとか、
それぞれ自分が何を注文したんだか忘れたのか、
新たな騒ぎが巻き起こっているのでした。


タッチパネルメニューの世界で繰り広げられた平和の樹立・・・そして、まさかの内戦勃発。


DEEP!!!




そして、数秒後、

「あ、それ私の!」という声が聞こえたのでした。

爆発!!!(本当の静けさはその後に)

2020年11月29日 | スピリチャル&ヒーリング
何が爆発したかというと・・・
私のネガティブ感情でございます。

それは昨日のことです。

昨日のブログのお話になりますが、
昨日私はドーンと気持ちが落ちまして、
「じゃあ、落ちた場所から書こう」と、
「宇宙の(エネルギーの)リズム」の法則、
つまり、上がったら下がる、下がったら上がる、
それはもう「絶対」のリズムとなっており、
落ちた時は、そこに静かに、静かにいましょう、
そうすれば自然に上がってくるから・・・
とかなんとか尤もらしきことを

宣(のたも)うた。


「このブログを書きながら少し上がってきました」

とかなんとか言っちゃって。

ところが、その後そうは行かなかった

という、

今回はその補足というか
一番大事なところかも


ということでして、
なぜなら、昨日のブログを読んでくださった方で、
とても素直に、落ちたところに静かにしてようと試みたけれど、

上がりませんけど・・・全然上がりませんけど〜〜!!!

と(私のように)大惨事が起きていたらこりゃ大変と思いまして、
その後、私に何が起きて、ようやく「本当の静けさ」にいたり、
「浮上してきた」という現在に至ったかを責任を持って
お話させていただきたいと思います。

昨日のブログに

「かつての私でしたら、
いや、今でもたまにやらかしますけれど、(マスター・ヨーダレベルはほど遠い。)
ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態を招いていましたが、
ようやく「まずは感情をそのまま感じて、とりあえず、観る」ということは
少しできるようになってきました。」

と、書きましたが、

ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態

を、まんまと招きました。

落ちたところで静か〜〜にして浮上することに成功した方、素晴らしい。
しかし、私のように「ブルーにブルー」つまり、
ネガティブな感情がもう溢れ出て止まりません!ということが起きた方、


それを止めないでいい!!!
ほとばしれ、ネガティブ感情!!!


ここで「いや、静かにしてなきゃいけない」と、
出てきたがっている感情をギューギューと抑えてしまうと、
その場はなんとか成功しても、必ず、今度は、もっと大きい形でやってきます。


さあ、私は「あかん。ブログで書いた通りになってないじゃんか!
どうしよう、ヤバい、止まらない!あぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
誰か〜〜〜〜〜!!!」


落ちている時というのは、ネガティブ感情の「待ってました」の機会でして、
トピックはなんでもいいのですが、だいたい自分の日々、人生の中で、
大事な部分、気になる部分、悩んでいる部分、不安に思っている部分、自信のない部分を
攻撃してきます。

ネガティブな感情というのは色々ありますが、
行きつくところは対自分か、対誰か、となると思います。

「どうせ、私なんか・・・どうぜ私なんか・・・」

もしくは

「アイツが、アイツが、アイツが〜〜〜!!!!」

という感じになるかと思います。
自分を責めるか、人を責めるか。

さて、もう止められないネガティブ感情、
止められないのだから、もうしょうがない。
心の中では、溢れ出るネガティブ・ワード。
怒りやら悲しみやら(因みに怒りの源は、悲しみ、なのですよ、実は)
日頃押さえつけていたのか、我慢していたのか、
出口を見つけられないままでやってきた
気持ちが、まさに、爆発していたのでした。


ここで大きなミスを犯すところだったのです。


私はそのネガティブ感情の大爆発のまま、
結論を出し、行動に出てしまうところでした。
「もう、無理、もう、私には無理なんだ」と。
それは、爆発が一瞬静まったときに訪れました。
一見自分は少し冷静になったつもりで。

そして、その「結論&行動」にそのまま乗せられる前に、
私は止まった、というか、危機一髪、止まることができました。


「そういえば、この前、○○さんが、
ネガティブ感情に襲われた時は、それを思いっきり言葉にして書いてみるといいって
言ってたなあ」
と思い出したのです。

「よし、執行する前に、試しにそれやってみようじゃないか」と。

そして、私は「1日3ページジャーナル」というのを毎日書いているのですが、
昨日は、3ページまるまるその時のネガティブな感情を言葉にして埋めました。

不思議なもので、心の中でそれらを溢れさせても、結局「形」にはなっていないので、
「出口」を見つけたことにはならないのですね。
言葉にする、ノートに手書きする、というプロセスで、それが「リアルな出口」を見つけるのです。
そしてね、とんでもない言葉が出てきても、そのまま書くのです。だって、誰も読まないのだから。
書き出すと「ヤバくない、こんなこと書いちゃうの?」と一瞬「頭」の方がたじろぐのですが、
書くんです。頭ではなくて「感情のまま」、恨みツラミ、怒り、悲しみ、
なんでもいいから、出てくるがままに書くのです。
行き場のない感情を言葉という形に「してあげる」のです。


書き終わった後。


まず私の感情は「気が済みました」。
出口を見つけたからです。
解決した、とか、答えが出た、というわけではありません。
けれど、爆発→結論→行動、はやめました。
その「結論」を明日まで保留にしようと思えたのです。

ここでようやく、「静けさ」がやってきました。
その静けさは時間が経つにつれ、より穏やかになってゆく、
自分が「自分の中心」に戻ってゆく・・・そのような感じでした。

もう夜でしたので、
私はそのまま眠りにつきました。


そして今朝目覚めた時、

ああ〜〜〜あの時、あのまま結論出して、行動しないで、本っ当に良かった

と、心から思ったのです。
私はようやくたどり着いた「本当の静けさ」の中で、心からそう思ったのです。
「私が心から願うことは、あの感情の中にあるんじゃないんだ」と。
でも、あの感情を気が済むまで感じて、ちゃんと出口に連れていかなかったら、
きっと分からなかったな。。。と。


感情というのは、
あらゆる経験から、ある意味「リアクション」のような形として起こるものです。
特にネガティブな感情は、まるでパブロフの犬のように、
いつものあの時、いつものこんな時に・・・何度も何度も。

そして、感情は、「宇宙のリズムの法則」の中で、
上がったり、下がったりする流動的なもので「真実」ではないのです。
でも、私たちの人生をナビゲートしてくれる大事なものでもあります。

昨日私に起こったことは、「ああ、また感情に呑まれた」という
情けないものでしたけれど、
「本当の静けさ」に行き着くためには、
ネガティブだろうと、その感情が一旦現れたら
せき止めないで流してあげることが大切なこと、
それはすぐさま、その勢いで「結論を出し」「行動に移す」のではなく、
まずはそれらに「リアルな出口」を作ってあげる、
つまり「書いて、その言葉を形にする」ということが
一つの手段になるのだ、ということを発見することができました。


自分の「本当のところ」から出る結論、選択、行動のみが、
「本当に辿り着きたい場所」を知っています。

そして、「本当のところ」というのは、感情ではありません。
「本当のところ」というのは
自分の中心にある「本当の静けさ」の中でしか分からないのです。

でね、この静けさがずっと続くわけではないのが、

人生、修行なり。

「ああ、また私はやるんだな、これを」と思うのだけれど、
螺旋階段を上ってるんだと思えばいいさ。
そう、「げ、また同じ場所で同じことをやってる」と思っても、
実は、前回よりちょ〜〜っと上にいる。


さてさて・・・

まさかの「その後」となりましたが、
この私の個人的なすったもんだ劇場が
どなたかのお役に立ちますように。。。


(お騒がせすったもんだ劇場、つづく。)










落ちたら落ちたで、その静けさの中に

2020年11月28日 | スピリチャル&ヒーリング
「宇宙の法則」というのがありましてね、
全てはエネルギーで成っているという前提の元、

「(エネルギーの)リズムの法則」というのがあるのです。
(だ、そうです)

つまり、エネルギーは上がったら下がり、
下がったら、また上がる、
を波のように繰り返すという、
もうこれは「絶対!」という法則だそうで。

歴史の「盛衰』のような大きな流れから、
個人個人の日々の感情まで
この宇宙のリズムの法則が働いている・・・と。

私たちの感情の話をすると
歓喜の状態がずっと続くことはないし、
悲嘆の状態がずっと続くことはない。
波の幅(時間)や高低はそれぞれ違いがあるけれど、
皆さんもなんとなく分かりませんか?

簡単な例で言うと、
お友達と集まって大盛り上がりで
最高に楽しくて幸せな時間を過ごすんだけれど、
終わって帰ってきた時の、
なんとも寂しいような、急に空虚な気持ちになるような。


あんだけ楽しかったのに!!!
あれは嘘だったの!?

いえ、あれは本当だったのだけれど、
上がったらどうしても下がるのが、このリズムの法則なのです。
(だ、そうです。)

(因みにその法則は物資的な世界で働くのですが、
つまりそれは「重いエネルギー」とされているもので、
じゃあ、感情は物質じゃないじゃん、と言いたくなりますが、
感情のエネルギーは重いエネルギーにあたり、
一方、思考というのは感情よりも軽いエネルギーとされていて、
影響を受けにくい、とのこと。
その「思考」をどう使うか、というのが肝になってくるんですって。
それはまたいつか。)


以上の話を私は3年近く前にとある方から教えていただきまして。
私はもともと感情の起伏が大きく、(よく言えば豊か、笑)
特に「落ちた」時に完全にその波に呑まれてしまう。
(感情を感じる、と、感情に呑まれる、は違う)
「あなた、自分の感情を観る!コントロールする!」練習をしないとあかん、
と言われたのでした。


さて、
気持ちが上がっていく時は心地いいですが、
これ下がっていく時というのがねえ・・・
上がりが大きければ大きいほど、
波がてっぺんまで行って、
「落ちてゆく」時というのはきつい。
オーバーだけれど、天国と地獄へと落ちてゆくようなものです。


なぜ、今日はこのお話をしようかと思ったというと、
実は別のトピックで書くつもりだったのですが、


アタシ、今日、なんか、落ちてて書けない。。。ああ・・・


という状態で、どうしよう、どうしようと思っていたのです。
しかし、「いかん!どうしよう、どうしようとジタバタすれば呑まれる!!!
そう、昨日まで大分上がってたから、今日は下がるんだ。」と自分に言い聞かせ、


静か〜〜〜に今いる場所にただ、いてみよう。

と。
その「静か〜〜〜な場所から何かを書いてもいいではないか。」と。
そこで「宇宙のリズムの法則」について書いてみようと思い、
もしかしたら今日、「落ち気味」の方々もいらっしゃるかもしれないし、
何かの役に立てたら、これ幸い。


かつての私でしたら、
いや、今でもたまにやらかしますけれど、(マスター・ヨーダレベルはほど遠い。)
ブルーを更にブルーで彩って、「別にそこまでわざわざ落とさなくても」という事態を招いていましたが、
ようやく「まずは感情をそのまま感じて、とりあえず、観る」ということは
少しできるようになってきました。

今日はその練習として、
「落ちたところで静かにいる」をやってみたところ、
このブログを書いていくうちに、
少しずつ浮上してきている感じ。

力を抜けば、体は自然と水に浮く!!!!というアレですな。

この記事をたまたま覧になってくださった方々が、
「今日はルンルンだから〜!」なら、そんな嬉しいことはありません。
もしも、「私・・・今日はちょっと落ちてる感じ」の方がいらっしゃったら


静か〜に、静か〜に・・・

ただ、そこにいてみてください。
ただそこに。

また、上がっていきますから・・・


peace, peace, peace...













ココカラ・ファイン!!!

2020年11月28日 | 自分を変える、どう変える
初めて「ココカラ・ファイン」というドラッグストアを見つけた時、
「ふぅ・・・む・・・」
つまり、その名前に何らかの印象があったのでしょうが、
困惑したのを覚えている。。。
なんでこんな(失礼)名前を付けたのだろう、
これがいいネイミングなのか、そうでないのか、
なぜ自分が困惑しているのか分からないという困惑。

私のような人がもし多くいたとしたら、
それはそれで、このネイミングは成功したと言えるのであろう。

おそるべし、パワー・オブ・ココカラファイン!!!

皆様、こんにちは!
昨日(前回)のお話を読んでくださった方、
(・・・を読んでくださってるということは、
今回も訪れてくださったということになる!)
ありがとうございました。
初めての皆様、はじまして!
いらっしゃいませ、どうぞ、どうぞ!


昨日のお話はちょっと重めで、
だからこそ「パ〜〜〜ワ〜〜〜〜!!!」というお話でしたが、
今日はね、明るい話から始まる「パ〜〜〜ワ〜〜〜〜!!!」というお話。


今日は仲の良いママ友達とお昼を一緒に食べました。
たまには近所から抜け出そうということで、「町」から「街」へ。
彼女はきれいで可愛くて、とても優しく賢い女性です。
私より7歳年下で、現在42歳。(今計算したね、あなた)

昼ビール&ワインに感謝しながら、
美味しいイタリアンをたらふくいただきながら、
お互いに色々な話をして、楽しい幸せな時間となりました。

さて、お互いご近所さんなので、当然帰りも一緒。
そして、得てして帰り道に話が一番盛り上がったりする。
電車に揺られ、バスに揺られ、おしゃべり止まらず、
マスクしてるから、その中は超保湿状態となるは、
なんだかゼーゼーしてくるは。

その帰り道は、彼女の仕事の話になりました。
社員ではなくパートという形で、同じ場所で数年仕事を続けています。
条件のこともあり、そろそろそこは止めようかな、という話。

現在もそうですが、彼女は絶対に接客業が合っている人で、
それを彼女に伝えたら、
「私、実は○○とかで仕事してみたいなあ」と言う。
とても楽しそうに、幸せそうに。

いい!いい!それいい!素敵〜〜〜〜!!!
合ってる!!!トライしてみたら?探してみたら?

と興奮した私でしたが、
「でも、そういうところは年齢制限とかあるんだよ。。。」
と、彼女。

が、私は喰いさがる。

まずは募集してるか調べてみたら?
調べてみないと分からないじゃない?
そこがダメでも、他を見つけるかもよ???


そこで待っていたバスがやって来て、
彼女は小さな声で言ったのです。

「こんな年でも夢を持っていいのかなぁ・・・」
と。


こ・・・こんな年!?・・・ですと!?


私は・・・ものすごくショックだったのです。
それは、7歳も私よりも若いのに、とか、そういうことではなくて、

そうか・・・「こんな年」だから、とか
そのほか「もう○○だから」とか、「自分は○○だから」とか、
そういう条件から、もう○○はできない・・・やってはいけない・・・
とか、そういう、人の生き方の幅を、「行動する前」から狭める、
言い方悪いけど、「社会にはびこっている固定概念」を
目の当たりにしたショックでした。

そして、彼女だけでなく、
そうやって行動する前から
当たり前のように諦めてしまう人は
いっぱいいるのかしら、と。

その後、彼女はバスの中で、
かつて病院の受付で働いていた時の話、
人が大好きだという話、
理解し合えた時の、繋がった時の喜び・・・
そういう話をしていた彼女はとても生き生きとしていました。


バスから降りて、
来年50の姐さん(私)は言い放つ。


私ね、ここまでの人生はリハーサルで、
ここからが『本番』だと思ってるからー!!!
オーホホホホホ!!!

(最後の笑いはブログ上の演出)

42歳の彼女がこの言葉を聞いてどう思ったかは分からないけど、
それこそ社会的に「もうそんな年」の人が「まだそんなこと」を言っちゃってるのが、
彼女を「やってみたいこと」へちょっとだけでも、
ぽん!と押してくれたらなあと思います。


夢、や、願い事は叶えてあげるためにあると思います。
確かに、そのまんまを叶えることは難しいことはあるかもしれません。
けれど、それに近づいてみる。その世界を探索してみる。
見てみる。体験してみる。
それらが、きっと新しい扉を開いてくれる。
気づけば、思いも寄らなかった場所にたどり着いたりするのです。

やってみないと分からない。

そして、「やってみる」というのに「こんな年」は絶対ない。

全ては、いつも「ここ」から。

ココカラ・ファイン

「ここ」から(ココカラ)、素晴らしい(ファイン)。



ココカラ・ファイン、天っ才!!!

『犠牲者』になってはいけないよ

2020年11月26日 | 生きていると
昨日の「さっむ〜〜〜!」から一変して、
今日はポカポカ。ありがたや。

今日は何を書こうかなあと思いながら、
家中をクイックルワイパーで掃除していたのですが、
「これ(↑タイトル)で行こう」と思いついたのでした。


あえて『犠牲者』に『』を付けたのは、
いわゆる事故などで本当にその犠牲者になってしまうという意味としてではなく、
『犠牲者』という「意識」を持つことを意味したかったのです。


私たちは日々、色々な境遇に足を突っ込むというか、
運命なんだか、ご縁なんだか、それが起きちゃうんだか、自分で実は選んでるんだか、
その辺のところはミステリーゾーンとして置いておくとして、
とにかく「非常にきつい。辛い。どうしよう。」という事態が
「降りかかってくる」時があります。
「はっきり言って私が悪いんじゃない!」的なね。


それは仕事のことであるかもしれません。
家庭・家族のことかもしれません。
「状況」であったり、「人間関係」であったり。


そこで今日のタイトル「『犠牲者』になってはいけないよ」のお話ですが。

つまり、『犠牲者という意識』を持ってはいけないよ」ということなのですがね。

『犠牲者という意識』を持つということは、
カオスの根源となっている(と、自分が思っている)状況や人に対して
「これのせいで〜〜!!!」
「あいつのせいで〜〜〜!!!」
と、呪っている状態だと思うのです。

良いでしょう!!!
とにかく憤慨しまくって、呪いまくれ!!!
(マジで。本当に。とりあえず。)


しかし、最近、気づいたのです。
それって・・・

それら(状況とか人とか)に自分の全パワーを譲渡するということなのだ、と。
自分の全パワーを譲渡するということは
「自分の意志で自分を生きられない」ということなのです。

だって、『犠牲者』ってそういうことでしょう?
外界で起きたカオスに「持っていかれる」ってことでしょう?

何かのせい・・・確かに何かの、誰かのせいかもしれない、けれども、
ひたすら「○○のせい」という意識の中にい続けると、
その代償として、「それでも自分はこう生きるのだ。こう在るのだ。」という、
自分の幸せは自分で責任を取るという意志のパワーを
手放すことでもあると思うのです。


・・・ということに私自身が気づいたのは、
その「カオス」が今年自分の身に起こった(今も真っ只中)からです。

『ツレがうつになりまして』

という映画化もされたエッセイ漫画をご存知の方も多いかと思いますが、
はい、私の主人がうつになりました。
共に暮らしている人が日に日に変わってゆく様、
別人のようになってゆく様、
どんどん幽霊のようになってゆく様・・・


ここでは詳しいことは書きませんが、
その様をすぐそばで見続ける、共に生活する、のは
かなりキツい。
限界まで来てようやく治療を始めて会社を休むことになって、
そこからもまた、かなりキツい。

この夏、私はどんどん主人の有様に引っ張られ、
不安や恐怖にかられ、何度も何度も大泣きし、疲弊し、
「私は私」と頑張りながらも、やっぱり引っ張られ、
二人の子供たち(小学生)がいるんだから
せめて私は元気でいないと、というプレッシャーが更に不安に拍車をかけ・・・


はい。つい最近、私も限界が来ました。
私の場合は自分の判断で病院に行って、
ここを乗り越えるために必要な薬を飲んでいくことにしました。
乗り越えるためなら手段は選ばねーぜ。
(この手のはね、実は慣れっこなのです。
そんな話はいつかまた。)


で、決めた。
私はもう犠牲者になんねえ。


確かに「まさか私に降りかかるとは」な出来事ではあるけれど、
自分の日々を自分で幸せにする責任だけは絶対放棄すまい、と。
主人のせいにするわけでもなければ、
彼を突き放すということでもないのです。

どんな環境に身を置くことになっても、
マイワールドを守れるのは自分だけなのです。
でも、マイワールドを守る、というのはね、
決してガードを固くする、とか、誰かを入れない、ということではないのです。

簡単に言えば、
外界で起きていることとマイワールドの間に、
きちんと境界線を置いて、
引っ張られることなく、中に取り組んでしまうこともなく、


私は私でブレない。


ということです。
それが、自分のパワーを外に譲渡しない、
『犠牲者』という意識を持たない、という
最初の方に書いたことの意味です。(今、繋がった、笑)

そしてね、
自分がちゃんと自分のパワーを保持しているからこそ、
幸せを選択でき、またその選択が周りをも幸せに導くことができる・・・
私はそう信じることにしたのです。
(よく思い出すのは、飛行機での酸素マスクについての説明です。
「まずは自分が」マスクを装着して、その後、自分で装着できない子供達とかを
手伝ってあげる、というアレです。)


私の場合は、降り掛かったカオスは「主人のうつ」ですが、
皆さんもきっと、それぞれ辛く大変な体験をなさった、
もしくは体験していらっしゃる、かもしれません。
「は?夫がウツ?あんた、そんなでカオスなんて言ってんじゃないよ、
こっちわねえ!・・・」というお声もあるかもしれません。

どんな状況であれ、苦しさとしばし付き合わなければならないのでしたら、
どうか手放さないでください。


あなたのパァ〜〜ワァ〜〜〜!!!



追記;ルール(勝手に決めた)
何度でも「バカヤローー!」と(心の中で)罵っても良い。
ひとしきり罵った後は、己の無限のパワーを思い出す。
そして、声に出して泣きじゃくって良い。
ひとしきり泣いた後は、また己の無限のパワーを思い出す。^^


ね。
がんばろ!

ほら、生きてる、ちゃんと!