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AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

ココカラファイン・・・再び

2022年09月12日 | 生きていると
ココカラファイン、というのは、
皆さまご存知のとおり(知ってる?)
ドラッグストアの名前なのですが、


再び、というのは、
確か2,3年前に「ココカラファイン」から
インスピレーションをいただき、
それについて書いたからです。


ココカラファインが再び降臨!
ということで、再び。


ちゃんとウェブサイトなどで調べるべきではありますが、
勝手な推測で、


「今、ここから、元気になりましょう!」(←ドラッグストアだからね!)


なんていう思いがこもってるのではないかと。

・・・ということにさせていただく。(敬礼)


なんでもかんでもDEEPに語るのが
このブログでございますから、
勝手に深掘りさせていただきますよ!
(ココカラファイン・ドラッグストアに敬意を込めて!)



今、ここから、元気になりましょう!


というのは、ある意味、選択の余地ないですわ。


だって、過去はもう過ぎ去ったし、
未来は未来だしねえ。


そうすると、やっぱり、今、ココカラ。


何でもかんでも、今、ココカラ。


スタートするなら今、ココカラ。


元気に向かうのも、いつも、今、ココカラ。


過去からはできないし、
未来はいつまでも未来ですもの。


今、ココカラ!!!
しかない・・・。


いや、なんかね、ちょっと今日調子が良くなくて、
なんだかまた、だって、だって、とかって
古いパターンのネガティブ思考がやってきたので、
(まあ、それを客観的に認知できているのはいいこととする)

しかし、まあ、何度も何度もこのループに巻き込まれるけど、
一体全体、じゃあ、どうしたらいいんだ!


と、頭を抱えていたの。


そうしたらね、


全ては今、ココカラだ!


と思ったの。

・・・からの、ココカラファインなんですけれどね。


古いパターンって、要は、やっぱり「過去」なのよね。
いつまで経ってもそれを引きずる。


そして、思い出したのです。


2ヶ月前だったでしょうか。
敬愛する友人、というよりは人生の先輩方にお会いしまして。

色々お話をしてね、
最後に一人の方がね、


「これだけは覚えておいて。
亜由子さんは、これから新しいものを受け取るの!
分かった?!」



と、念を押されまして。


新しいものねえ・・・


そこでまた私のだって、だって。
「状況は同じままで、どうやって新しいものを受け取るんですか?!」と。


その先が面白かった。


「違うのよ!状況は同じように見えても、
そこから亜由子さんが受け取るものがこれまでとは違うものなのよ!
同じような状況からでも、受け取るのは新しいものなのよ!
感じるものが変わるの。見る角度が変わるの。」


ははぁ・・・!


そんな彼女の言葉を今日改めて思い出しましてね。
(なんてったって、「これだけは覚えておいて!」って言われたことですから。)


新しいもの・・・を受け取る。

ココカラ先は新しいものを受け取る。
たとえ、外側の景色が同じだとしても。


ああ、全部、ココカラなんだ。


私が決めればいいんだ。
コ・コ・カ・ラ、と。


つまり、
ココまでのものは、
もう全部、一切合切、過去のものとして葬ってしまっていいのか。


そう、過去は過去。
もう、いいんだ。
だって、新しいものを受け取ると決めたなら、
過去の「ああだった、こうだった」というのはいらない。
っていうか、いたら邪魔。

もう、同じ自分を繰り返す必要はないんだ。


新規で、ココカラファインでいいじゃないか。


ああ「だった」、こう「だった」は
「そうだった」。で、もういいのだ。

でもココカラ先は「そう」である必要はない。


「そうだったね。でも、もういいよ。ありがとね。
でも、今、ここからは、そうじゃない。」よ。


過去を完全に受け入れる!
そんで全部許す!そして振り返らない!



私は、今、ココ、に立つ。


ココカラファイン。


いつも、ココカラは「新しいもの」。
・・・にするかは自分次第。
先にも言ったように、外側が同じように見えても、
新しいものを受け取る、と決めるのです。
過去の記憶、というレンズは捨てる。
それは、そのレンズから勝手に未来を予測しない、ということ。


無限の可能性を秘めた未来に自分を開く。
ビビりながらでも。


いつでも、ココカラ、始められる。

今から。
ココカラ。


新しい一歩。


明日になっても。
その時の、
今から。
ココカラ。


ほんの一瞬前の過去も含めて、
私たちは常に過去を手放し続けないといけない。

そして常に「全てはココカラ」と、
今に言い続ける。


新しいものはいつもココカラ。



ココカラファインで行きましょう。



前回もこれ貼ったのかしら?
やはり敬意を称してここはね!






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Making Love ~Giving and Receiving

2022年09月11日 | 生きていると
今朝、一人の親愛なる友人と、
そうね、1時間くらいかしら(!)
LINEで語り合って、
そこから発見したことを
今回はお話したいと思います。


Making Love...


これに相当する日本語がないのが残念。
今って、メイク・ラブとかって広く使われているのでしょうか?


要はセックスのことではありますが、
セックスは「性行為」を示すことに対して、
Making Loveというのは
性行為ではあるけれど、大分違う。


Making love to someone
Making love to each other


Loveという言葉が使われているように、
肉体的な行為ではあっても
そこには、
Loveを通しての「Giving and Receiving」があります。


でも、今日はいわゆる恋人同士でのMaking Loveだけでなく、
もっともっと広い意味でのMaking Loveのお話をしたいのです。


Giving and Receiving


と書きましたが。


皆さんはよく「give and take(ギブ・アンド・テイク)」という言葉は
聞くと思います。


私は好きじゃないの。
「Take」というのが。


「Take」というのは「取る」ということです。

Give(与えて)、その分Take(取る)ということ。
Takeというのは、その人であったり、事象であったり、
なんでもいいんだけど
「(与えた分)持っていく、持ち去る」、なんなら「奪い取る」、
そういう印象があるのです、私にとって。

違う。そうやって循環するんじゃない。
と、私は思ってる。


「Take(取る)」と「Receive(受け取る)」というのは、
似て、大きく、大きく非なるものです。


私たちに必要なのはGiving and Receivingの方だと思うのです。
「与えて、受け取る」の方です。


そう、先に言った「Making Loveの循環」です。


そもそも。
その行為の話に戻りますが、
Making Loveというのは相手がいます。
一人でやるマスターベーションではありませんね。
一人で満足して、ああ気持ち良かった、ではありません。


愛する対象が存在して、
その人をひたすら愛おしむ。

それが「Give」。


そこには純粋な「Give」があって、
その純粋なGiveがあるということは、
純粋に「Receiveできる」という状態であることだと思います。
Takeじゃない、相手が差し出してくれるものをReceiveする(受け取る)ことができるのです。


ブロックがないのです。



Giveというものがmaking Loveではなく、
マスターベーションを基盤にされてると
何が起こるか。


「Receive」ではなく「Take(取る)」が起きるのです。



マスターベーションとは自分を満足させることです。
それを「Give」という仮面を被せて相手にGiveしたつもりでいても、
自分を満足させることが目的ですから、
当然「相手から取る」ことになってしまう・・・。

ほとんどの場合は、「無意識」に起こることだと思います。


では、無意識のマスターベーションとは何でしょう。


・・・


今、ふと思いついたのが
「自分を守る」という言葉です。


自分を守る、ということは
壁がある、ブロックしているということ。

つまり本来の「give」ができない状態。


Giveしたいんじゃない、実は「Want(欲しい)」なのではないか。
だから、Giveに見せかけて、
自分が「欲しいもの」を相手から「取りたい」、
そういうことなのではないか。


では、なぜそんなことが起きるのか。



その根底にあるのは
「欠乏感」なのではないかと思うのです。
自分は十分ではない、という感覚。


だから、実はあげるもの(Give)なんかなくて(と思っていて)、
その欠乏感を満たしてもらうために(マスターベーション)、
Giveをよそおって何かを与えたつもりになって、
その分、相手にその足りないものを埋めてもらう、
というのが、無意識が欲していることかもしれない。


それが

Give(Want) and Take


と、なるのかもしれない。
これは愛の、つまり、Making Loveの循環じゃない。


今朝、私が友人に
「私は受け取るのがとても苦手で、その練習をずっとしてる」と言ったら、
彼女は「そんな頑張らなくても、自然にできるようになるのでは?」と言った。

そして、自分の仕事の話もしながらこう言った。
「マスターベーションではなくて、
相手に対してペッティングすることが大切だよね。」と。


そこから、
私は「Receive」「受け取る」の方ばかりにフォーカスしていたことに、
はたと気づいたのでした。
私は誰かが差し出してくれてるのに、受け取るのが下手だから。
身を委ねる、ということも怖かったりする。
お願いすることも上手じゃない。


だけど、そっちからじゃないんだ。


私の中の「Give」の方だ!、と。


ペッティングという、やたら懐かしくて小っ恥ずかしい、
80年代臭満載の言葉にプププと内心なりながら、私は、

「いや、ペッティングじゃないよ。
Make Loveだよ!


という流れで、

Making Loveという言葉に今日、辿り着いたのです。



皆さんは誰かとMake-loveしたことはありますか?
ただのsexじゃないよ。Make-love。


ちょっとした怖さや恥ずかしさとかあってもいい。
完璧じゃなくていい。
でも、ただの性行為じゃない、メイク・ラブ。


その経験を思い出してほしいのです。
もし、そういう経験がなかったとしても、
誰かと、友達でもいい、家族でもいい、
純粋に喜びを分かち合った時のことを
思い出してほしいのです。


相手を愛し、信頼している気持ち。
自分の心もカラダも相手に開いている感じ。
相手を愛し、そして、相手の愛をそのまんま受け取る感じ。
それはとても自然で、

それこそ「愛が循環」している感じ。



それだ!!!と思ったのです。


Make-Loveするんだ!!!と。



つまり。

自分にMake-Loveすること。
生きることにMake-Loveすること。
日々のことにMake-Loveすること。
仕事にMake-Loveすること。
家族、友達、恋人にMake-Loveすること。


自分を自分に開くこと。
生きることに自分を開くこと。
日々のことに自分を開くこと。
仕事に自分を開くこと。
家族、友達、恋人に自分を開くこと。



そうすれば、
自然に、Giving and Receivingが起きるんだ。
それはバランスが取れた、循環。


開いている、ということは、
そこには欠乏感なんてないんだ。
そもそも、誰一人として欠乏している人なんていない。
それは自分が作り上げた幻想。


開いている、ということは、
Giveは無限にあり、
Receiveも無限にあるということ、
なんだと思う。


多分、あってる。
というのも、私はまだその入り口だから、
完全には到達してないのよ、笑。

でも、道しるべができたわ。


自分を開く、というのはとても勇気がいること。
私はそれと長らく向き合ってきたけど、
価値はあるよ、その道中がきつくっても。


I make love to myself, First.
Then, I make love to my Life.

And I make love 2 U...



私の友人に愛と感謝を込めて。




Making Loveというと、やはりRoberta Flackの「Feel Like Makin'Love」ね。
これからの季節にピッタリ。この曲はもちろん、恋人同士のお話^^


こんな穏やかなジャケットも。
これこそMaking Love to Lifeな感じ。




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Liberation〜ビクビクからワクワクへ〜

2022年09月03日 | 生きていると
ニューヨークと言えば(?)
『自由の女神』を思い出す方も多いと思いますが。


英語だと
『Statue of Liberty』
となりまして、

そのまま訳すと
『自由の像』になっちゃって
(多分)味気ないから、女神、にしたのかな、
とか勝手に推測しています。


Statueはともかくとして。


問題(?)はLibertyの方。


自由、と聞くと、Freedomじゃん?
Statue of Freedomでもいいじゃん?

って思いますでしょ?


確かにLibertyもFreedomも自由と訳せるのですが、
何が違うかっていうと、


Libertyというのは
動詞「Liberate」、つまり「解放する」、
の名詞形。


『解放』という意味合いが強いのです。


個人的に感じることですが、
「解放する」って、動き、じゃない?
Freedomという自由という状態を指しているのと比べると、
Libertyというのは「自由へ向かう=解放する」という動きを感じる。


アメリカの歴史や文化を考えると、
ぴったりな感じがする。


でも今日はアメリカのお話ではなくて、
個人レベルでのLiberty、Liberation(解放すること)のお話。


このブログのカテゴリーに
「スピリチュアル&ヒーリング」というのがあるのですが、
私、どうもヒーリング、とか、癒し、っていう言葉を使うのに
抵抗を感じるのですわ。
(致し方なく使っている)


そのものの意味に対してではなくて、
日本での(だけじゃないかもだけど)使われ方とか認知のされ方というのかしら。
どうも、やたら、まあ既に使い古されてるけれど、
なんていうか、浅い、っていうか、チャラいっていうか、
かと言って、スピリチュアル的にマジで使うと、
なんか胡散臭いっていうか。笑。


まあ、いいわ。
とにかく。


最近、私がようやく気づいたことというのは、
自分自身が「己の魂のヒーリング、癒し、の道」を歩いてきて、
(というより、強制的に歩かされてきた感があるのですが)


これって、
要は・・・


癒す、とは、解放することではないか
癒される、とは、解放されるということではないか



つまり

癒し全般、Liberation(リベレーション)に置き換えちゃっていいんじゃないの?


ということです。


癒しとかヒーリングっていう言葉にうんざり来てるから(私だけ?)
これからは、カジュアルに使う時でも、
例えば温泉に入ったりして、


「超癒されれる〜〜」ではなく、


私今、超リベレートされてる〜〜


っていうのがいいのではないかと。


・・・絶対、流行んないわ。



癒し=Liberation(解放)のお話に戻すと。

何から自分は解放されるのか。
何から自分を解放するのか。


上のように受動的に言えるし、
能動的にも言えるけれど、


自分自身の体験から気づいたことは、
癒しとは、後者の方だということ。


誰かが、何かが、解放してくれるのではなく、
自分が自分で自分を解放するということです。


じゃあ、「何から?」ということですが。


癒し、が必要であるということは、
そこに「傷」「痛み」があるということですね。


その、自分が負った傷、痛みから自分を解放すること。

それが、真の意味での癒し、ヒーリングであると思います。


じゃあ、どうやって???


まずは、それらの傷や痛みに気づいて、認めることです。
そしてそれは「過去からのものだ」ということに気づいて、認める。
そして、いかに、それらに基づいて
自分が日々、どういう場面で、人に、事象に、
パターンとしてのリアクションしているか
気づいて認めることです。


今、読み返しましたが、
これ確実に、

本屋さんの「精神世界」コーナーの
「ヒーリング」カテゴリーにある本・・・
的なものになっている・・・


が!


私が体験してのことだから続けるよ。



さて、「認めること」が3つあるけれど、
この過程だけでも、本当に大変なのです。
気づくこと、そして更に、認めること。


認める、ということは、もう無視できない、ということです。
つまり、もう自分は自分をそこから解放する道に入ってしまった、
ということになります。
もう戻れないよ、ということです。


でも、それはちゃんと時期があるように思います。
認める、というよりも、認めざるを得ないことになるからです。
不思議なもので。
そして、これ以上そのままでは先には行けないよ、
というある種の、Red Flagが現れるのです。

そう、どんどん辛く、苦しくなっていくのです。
そういうことが「気づけ!気づけ!」と起きてくるのです。



そこでようやく認める。


これを読んでる皆様は年齢的には大人の方々だとであろうという前提で・・・


多くの日々感じる、傷ついたとか、ものすごく腹が立ったとか、悲しいとか、
それらの根底にある「怖れ」とか、
更にそこからくる「自分を(他者から)守る。攻撃する」といったような姿勢は、


本当にその時のものですか?


過去からのものが原因のパターン化したリアクションということはありませんか?


純粋な、本当にその場でのアクションではないかもしれません。


それらは何と言っても、「人との関わり」を通して起きます。
過去に「人との関わり」を通して起きたことが、
それが傷や痛みとなったのなら、
それが癒されるまで(解放されるまで)
別の人たちであっても、あなたの中でパターン化され、
あなたのリアクションは繰り返されます。


ですから、
毎回、あなたは傷つき、心が痛むのです。
全く別の人、全く別のシーンでも、
「過去と似たような」ことを「わざわざ探して、見つけて」
「ね?ほらね?結局、そーじゃん!」と、
自分の過去からの傷や痛みをそうやって「証明」するのです。


過去からの縛りを、無意識に求めるのです。




クレイジーでしょ?!



そう、クレイジーなの。
クレイジーなのよ。
分かるかしら?!



でも、私は自分がそうであったことに気づいて認めた。



その傷や痛みがどんなものであれ、
それがいつ、とか、誰から、とか、
人それぞれの生きてきた道がありますから、
それぞれのシーンがあったと思います。
もう覚えてないこともあるかもしれません。
頭から記憶がなくなっても、
心がまだそこにいることだってあります。



どんなものであれ。
人を通して傷ついて、
ずっとそこにいると、


自分を肯定できなくなります。
自分をちゃんと評価してあげられなくなります。
自分なんか、となります。
自信なんて言葉は自分とは縁がない、と思うようになります。


つまり、自分が自分という人間を、
そのままで、無条件に、愛してあげられれなくなります。
そうすると、自分は人に愛される価値などないとなります。


だからそうすると、
自分は人に愛される価値などはない、という証明をあちこちに
無意識で探すようになるのです。
「ただ起きていること」としてフラットに観るのではなく、
過去のこととダブらせて観るのです。
たとえ今の目の前の相手が自分を愛していようとも、
「そんなはずはない、だって」と「愛させない」ないようにするのです。
それが一人の相手だろうが、複数の人たちでも。



それがどんどん自分を本来の、
つまり傷や痛みがない、
ピッカピカの自分から遠ざけてゆくのです。


そうやって生きることが、
そうやって人と関わることが、
どんなにか辛いものか。
自分になぜそんなにも意地悪になるのか。


しかも、過去の、遠い昔の「アレ」とか「アレ」が
未だに主権を握ってるなんて、
そんなアホらしいことはない。



本当の自分はそんなんじゃない。
「アレ」とか「アレ」で価値がなくなるような、
そんなやわいものじゃない。


それらを許せずに、いつまでもそこにしがみついているのなら、
今とこれからの自分がかわいそうじゃないか。


もう、いいじゃないか。


もう、十分、長い年月、傷ついて、悲しんで、
自分を必死に守って、頑張ってきたじゃないか。
今更許すことも、そこから手を離すことも怖いほど、
その場所が心地よくなるほど、
もう、十分にそこにいたじゃないか。



もう、それらの体験を勇ましく「叡智」に変えて、
大切な学びとして、
まっさらになって、前に進んでもいいんじゃないか。




Liberationとは解放するということ。
それは、自分がするChoiceだと思います。


そして、簡単なことではありません。正直。
何なら、元の場所でヒーヒーやってた方がいいと思うかもしれません。
でも、一度、解放の道を歩み始めると、
元に戻ろうとしても、もう戻れない、ようになっている。
戻ってしまったような気がしても、


そのスパイラルの道のちょっと上に行ってる。
同じように見えても、ちょっと上に行ってる。


Liberationというゴールはすでに設定されていて、
一体こんな状態の自分をどうやってゴールの持って行くんだ、と思っても、
持っていかれる。

毎日毎日一歩一歩。


「アレ」とか「アレ」とか、
そのまた「アレ」とかに
何度も脅され、誘惑されながらも、
時には泣きながらでも、


「引きずってでも」こいつ(自分)をゴールに持って行こうとする、
別の自分がいる。


そして目には見えない力と。



Healing takes as long as it takes.


癒しはかかる時間だけかかる。



そう、ゴールは設定されているけれど、
それぞれに必要な時間がかかる。
それは知らせてもらえない。


けれど、もう信頼するしかないのです。


どんだけジタバタしようが、
泣きわめこうが、
ある時は、ちょっと流れに身をまかせる余裕があったり、
ある時は、すごい頑張ったり、
なんか疲れたとか言って放っておこうが、



その全ての過程がLiberationというゴールへの道に含まれての、
it takes as long as it takes
ということを信頼する、ということでしょうか。



私は今ようやくその辺りに来られたような気がします。


今年は随分と、
大きなLiberationゴールの設定をされたなとつくずく思います。

これまでの長年のガラクタを今ゴソッと解放しないと、
アンタ、先に行けないよ、と言われているようで。


そして、どんだけのガラクタを私は背負ってきたのかということにも、
すごく驚きました。

そして、それが心地よくなっていたのでしょうね。
恐ろしいことに。


長年の心地いいガラクタを解放するということは、
「それがもう存在しない、いやそれらにもう翻弄されない、
全く知らない世界」が待っているということで、
それはそれは怖いのです。


だから、Liberationというと、
いかにも爽快で素晴らしい感じがしますが、
それを経験する前というのは、
未知の世界ですから、
怖いのです。



でも、ヒーヒー、怖い怖い、涙と鼻水の道も、
少しずつゴールよりになってくると、
つまりLiberationというのがどういうことか垣間見えてくると、

恐怖におののいていたマインドも、


あ・・・そうなの?
あら・・・いけるかも?


と、味方についてきてくれるのです。



そうすると、不思議と、
濃い煙で見えなくなっていた、
感じることができなくなっていた、
本来の自分を少しずつ感じられるようになってくるのです。


これまた、


あら・・・素敵じゃない?
この「私の感じ」・・・なんか好き。


とか、なったりしてね。


ちょっとずつだけれど。



今日のサブタイトルの


「ビクビクからワクワクへ」というのは
そこからのお話なのです。



Liberation、マジの(胡散臭いとは言われようと)癒しというのは、

ビクビク→中間→ワクワク


というプロセスだと思うのです。
私のビクビク期間は本当に長かったのですが、
少し「ワクワク」というのを垣間見ることができるようになって

私は今まさにIn Between(中間)のところにいると思います。

まだ片足は若干過去のビクビクに。
でも、その足を完全に離すのももう少し。
もう片足はワクワクという未来へ。



It takes as long as it takes


焦らず、慌てず、
今こそ、亀!(←マイブーム)のように、
一歩一歩。



ワクワクのLiberationへ。



ワクワク、アッハハ〜〜!の自分の方が私は好きだ。

それこそ自由じゃない?






「自由の女神」がカモン、カモンと呼んでいるよう。
 Yes, I am! And you, my beloved one, have always watched and loved true me that I myself have forgotten.
Because of you, I have realized. I'm coming back to myself. Slowly and surely. Back to you as Miss Brand-New Way.








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ミス・ブランニュー・デイ(サザンの歌から)

2022年08月30日 | 生きていると
どうもね、
宇宙には『大宇宙音楽館」というのが
あるに違いない、と私は思っている。


(大丈夫です、ちゃんと今日のタイトルに繋げるから。)



生きていると不思議なことは結構色々あるもので。
それらはその時の自分への「サイン」のようだったりして。
あまりにピッタリくるものだから。

でも、これまた少し時間が経つと、
そういうのを忘れちゃって、
で、そういう不思議とか奇跡みたいなのを忘れて、
あれあれ〜〜〜とまたウロウロ迷子になっていたりすると、
そういうことが起きたりします。
私の場合は。


私は歌手だからでしょうかね。


「音楽を通して」そういう不思議サインをもらうことがあります。


例えば、車を運転している時にラジオから流れてくる音楽。
ちょうどあることでプンプンしていた時に、
そういうプンプンしてる自分が嫌だったのですが
どうにも出口がない時に、
「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ!
そうだよね。その通りだよね。
ごめんね。私こそキツすぎるよね。」
とハッとさせられるような曲が流れてきびっくりしたことがあります。。
初めて聴く曲だったのですが、
それはまるで(私がプンプンしていた)相手からのメッセージのように聞こえたのです。
それで私は優しい気持ちになれました。


「たまたま」でもなんでもいい。
それがたまたまなのか、
自分の心に響く、ハッとすることなのか、
後者だったら「ギフト」として
いただいておけばいいではないですか。
(私はそうしてる)


さて、上記のような音楽を通しての
「サイン」というのはこれまで何回もあったように思いますが、


違うバージョンとして、
「急に頭の中で流れ出す」ということも。
しかも、何年も聞いてないし、
特にファンでもないし、
知ってる曲ではあるけれど、
一体全体、どこから来たんだ?という曲が流れることも。
誰が選曲してるの?
なんか、私の心を知ってるDJでもいるの?みたいな。


もし、
本当に「サイン」として曲をもらってるとして、
それが見えない存在として、
つまり私を守ってくれてる存在とかがいて、
なんかすんごいタイミングで私が聞けるようにしてくれてるとしたら・・・


つまりよ、彼らは地球に住んでる人間じゃないわけじゃない。


単純に、


あなたたち、なんでそんな曲知ってんの???


ってなるわけ。
よく知ってるよね、ドンピシャの歌詞の内容まで!!!


・・・とまあ、そこが「宇宙ナメてる人間」の考え方でありまして。

そこで、私は人間としてこう想像した。


それが冒頭に書いた、
『大宇宙音楽館』の存在よ!!!
もうそれしか考えられないじゃない?(脳みその限界)


つまりそこにはね、
地球だけでなく、
宇宙全てに存在してる星々の音楽全てが
貯蔵されているわけ。


宇宙規模のSpotify


だからね、地球人じゃなくして、
私を助けてくれる存在たちは、
(多分なんだか不思議な力を持ってるから)
瞬時にして「今はこの曲!」とかって見つけられるのよ。
よく分かんないけど。



・・・。



はい、ここでようやく本題。
(久々の長文前置き)


ということで、
今日、先ほど、突然私の脳内で流れてきたのが、


サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ」
もう、びっくり。




もちろんサザンは知っている。
この曲も知っている。
すごい若い時にアルバム1〜2枚くらいは買ったかな。
でも突っ込んで聴くことはなくて。



本当にマジでどうした?!



もちろん、実は最近テレビとかで知らず知らず流れていて、
その記憶がそうさせた、「たまたま」論もある。


でもね、すごく気になったのです。


私が知ってるのは
Oh, oh, ミス・ブラ〜〜ン ニュ〜〜 デ〜〜イ
というサビのその部分だけで、
でも、「Brand-new day」という言葉が
今の私の心に響くので、
歌詞を調べてみたのです。


すると。


意外な歌詞だった!!!


ほんの一部ですが、


Oh, Miss Brand-new Day
みな同じそぶり
Oh, Miss Brand-new Way
誰かと似た身なり

誰のため本当の君捨てるの crazy
しなやかさと軽さをはきちがえてる



要は若くて魅力的な女の子(たち)について歌ってるのですが。


びっくりしたのは、
Miss Brand-new(真新しい) Day / Miss Brand-new(真新しい) Wayのはずなのに、
「みな同じそぶり」「誰かと似た身なり」という矛盾。

これをどう解釈するかは人それぞれで良いと思うのです。

でも、一番私にとって今回印象的だったのは
「誰のために本当の君捨てるの crazy」という部分です。


更にそこと、
本当の意味での(矛盾のない)
Miss Brand-new Day / Miss Brand-new Way
というのがリンクする。


真新しい日。
真新しい道。(在り方、やり方)

そんな感じ。


ああ、そういうことか、と。


誰のために本当の君捨てるの?
(捨てちゃダメだよ。そんなのcrazyだよ。)
本当の自分で生きてよ。
周りと違っていいじゃない。
そこから本当の意味での、
Miss Brand-new Dayになって。
Miss Brand-new Wayになって。




そんな風に今の私は解釈して
大宇宙音楽館からのギフトとして
いただくことにしました。


So, thank you...



でも改めて。

Miss Brand-new Day
Miss Brand-new Way

って素敵な響きじゃない?


この曲での桑田佳祐さんの
あえての矛盾を通しての、ちょっとした嫌味
でもそこには
イマドキのファッションで、
イマドキの言葉を使い、
そしてとってもキレイで、
男たちを誘惑して遊びまわり・・・
そんな君に引っかかっちゃう僕だけど、
でも、それは本当の君ではないでしょ?
僕にはわかるよ、
という、彼のいっぱいの愛が詰まってる。


今の私は「そういう女の子たち」ではないけれど、
私の表面的なことではなく
真っ直ぐ私のコアを見抜いて
そこを愛してくれる、
そんな気持ちにさせてくれる。


それを今、自分にしてあげること。



でいい?桑田さん?(笑)




追記:FBのコメントしてくれた友人により判明したのは、
当時はバブル期で、そのBrand-newというのは、
いわゆる「イマドキ」の、「流行りの」という意味で
みんなが同じようにそれらに飛びついていた、ということだったらしい。
なるほど!(だから歌詞に矛盾はないのかな。)
でも、今回の私は本当の意味でのBrand-newとして解釈したのかもしれません。
自分だけのBrand-new。
だって皆と同じだったら全然真新しくなんてないものね!
・・・という追記でした。




大宇宙音楽館に貯蔵されている一曲。







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「私は私」・・・(昨日のつづき)

2022年08月27日 | 生きていると
2日連チャンのブログ。


昨日は「ウサギと亀」のお話を取り上げて、
私の周りにはウサギさんたちがいるけれど、
今の私は亀役をしなければいけない、
焦らず慌てずゆっくりと、

そんな話をしました。


でも実はその後、考えました。



私が知っているウサギさんたちは
本当にウサギのようにして
今のところに辿り着いたのだろうか。


違う。


彼らがどれだけ大変な思いをし、
どれだけ立ち止まり、
考え、選択し、行動に移し、
それを何度も繰り返しながら
今の場所にようやく着けたことを
私は知っているじゃないか。


彼らこそ、
地道に、それこそビュンビュンとウサギたちに追い抜かれながら、
亀のように、一歩一歩歩いてきた人たちではないか、と。


そこで
自分が勝手に「ウサギ」にした友人たちに対して
猛反省したのでした。


そもそも
「ウサギと亀」という時点で
そこに「比較」が出てくるわけです。
(誰かと)比較をする時点で、ある意味アウトであり、
だからこそ、
その、どっちが速いかとか、
そこで優劣をつけるのかとか、
「そのような比較の土俵」で
あなたは戦いたいのですか?
と、このお話は問うているようにも思います。


比較自体が悪いことではなく、
何と何を比較し、
何と?誰と?戦うのか、ということだと思うのです。



っていうところで、
まんまと引っかかった私ですが、
もぉ、大丈夫〜〜〜。
と、我に帰る。


確かに「亀目線」で行くと、
我々が作り出しているマトリックスの中では
まるで自分を
社会が、世間が、人々が、事象が、
ビュンビュンと追い越してゆく感じがします。


つまり、「置いてかれてる」という錯覚が起きる。


そう、「錯覚」。



時間軸がある故の錯覚と言いますか。


確かに私たちは時間がある世界に生きているし、
過去、現在、未来という観念があるけれど、


多分、私は感じるのですが、
「それぞれの時間軸」があるように思うのです。

なんと言いますか・・・
一人一人違う時間の中に生きていて、


その違うであろう時間をそもそも
どっちが先だ、どっちが遅れてるか、
と比べること自体が無意味のような。



思うに、
亀のシンボルというのは
「自分軸と自分の時間軸がブレない」
つまり、
マトリックスに惑わされない、
そのような意味があるような・・・


気がしてきましたよ、今日になって。



昨日、不思議なことに、
二人の友人から別々に


『私は私』


という言葉を聞きましてね、
それがずっと心に残っているのです。


私は私・・・かぁ・


なんとなく遠くを見てしまった。
まるで憧れているかのように。



『私は私』というのは
決して排他的になることでもなく、
人や人とのコネクションに対して
否定したり、拒んだりして、
「どうせ私は」的な態度を取ることでもなくて、


まあ、
簡単に言えば
「自己肯定」であり、
しかも徹底したもの。


『私は私』というのは、
自分であることに責任を持つことであり、
責任を持つ分、
自由に自分の世界を描いてゆける、
そういう勇気を持つ、
ということだと思います。


マトリックス(社会、世間、人々、あらゆる事象)に
惑わされないで『私は私』でいるということは、
さっきの亀をビュンビュンと追い越してゆく「流れ」に
巻き込まれない、流されない、ということです。


あくまでも、
淡々と、一歩一歩、
目の前の道を歩いてゆく。
自分が切り開きたい道を切り開いてゆく。


改めて。


亀ってすごいぜ。



二人の友人から『私は私」という言葉を同じ日に聞き、
憧れにも近い感じで、遠くを見た私でありますが、


私、自己肯定感はあるのよ。


『私は私』次元に行くには
あともうちょっとってとこね。



っていう次元にいるわね、今は、笑。


『私は私』と聞くと、


私には『自由』という言葉が浮かびます。

責任が伴う自由だけれど、
だからこそ自由。


責任が伴うからこそ、
『私』という世界を徹底して守る。
それは人を入れないんじゃない、
人でも、何でも、「選ぶ」ということ。
同時にそれは、『私は私』を徹底することで、
自然と自分に合った、必要な人たちや事柄を
「呼び込む」ということでもあると思います。


私は『私は私』と言い切れる強さが欲しい。
それは、弱さがないのではなくて、
全部ひっくるめて『私は私』と言える、
ある意味、自分という存在に対しての、
許しであり、慈悲であり、愛である、
と思うのです。


「〜である」ことの、
勢いと優雅さの、
真剣さと軽やかさの、
美しいハーモニー、バランスなのだと思います。




ああ、しかし、
私も毎度、こうやって
言葉ではいい感じで書けるんだけど、
実際の自分はどうかって言ったら・・・




うわ〜〜はっはっはっはっ!!!



と笑ってごまかす。


・・・と、
それも私か!



よし。
亀さん次元に飛べるように
みんなで唱えようぜ。



私は私。

僕は僕。

アタシはアタシ。

オレはオレ。

おいらはおいら。

麻呂は麻呂。

ミーはミー。

ユーはユー。(ジャニーさん)



*当てはまるものがない場合は、自由に主語を変える。



昨日はクイーンだってので、今日はキングで!


ど迫力!オレはオレ。



ユーはユー。



こんなかわゆいキングも。



誰かさんを思い出す。僕は僕。







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