泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

ノロノロとおなかにパンチ

2013-12-31 22:38:58 | その他の記事

 年の瀬に某社に製品説明会をお願いしたら,その2日後の朝に下腹部に違和感,弁当を食べていた家内も吐き気と下痢がすると連絡してきたので,いやな予感がしました.すぐに参加したメンバーに連絡を取ったところ,あの人もこの人も....ということで,仕出し弁当のノロだろうなあ,ということに.仕事柄,すぐに保健所に連絡を取ったのですが,土曜日でスムーズにはゆかず,夕方には悪寒,胃痛,下痢でなかなか大変でした.3日間の絶食を強いられ,そのあとも,手洗いその他,子供にうつさないように大変な配慮を続け,放置した残務のためようやく休日の月曜に仕事場へ,そこで保健所の方と会う仕儀となりました.
 その後の経過は省略しますが,便からノロが確認されたと保健所の別の担当者が報告に見えた折,内部の人間以外に説明会に来た担当者も発症していてその人とは初対面であったことはすでに伝えてあったにもかかわらず,どうもその認識が甘いのか,まだ食中毒とは断定できないといいます.仕出弁当しか接点の無い複数の人間が数時間内というピンポイントで嘔吐・下痢・胃痛・発熱という症状を呈した場合,原因が特定できていない段階でも食中毒はほぼ確実で,科学的にそうでない確率は無視できるほど小さいのですが....
 結局,仕出弁当屋さんの職員の一人がその前日か何かに消化器症状で医療機関を受診したが,ドクターに何の根拠もなくノロではないといわれていたらしいことが伝わってきました....

 時節柄,外食や弁当類を食べるときはよく手を洗って,なおかつ,手づかみでは食べない・指は舐めないよう,お気を付けください.そうしていても,ウィルスが加熱後に食品についてしまっていたらお手上げなのですが.

 大みそかにふさわしくない話題になってしまいましたが,皆様よいお年をお迎えください.


江戸時代の伊予松山城下之図 

2013-09-15 23:15:30 | 和の古地図

 今回はローカルな話題です.といっても,ここではいつもトリビアかもしれませんが.

 最近,江戸期の松山城下之図を入手しました.江戸図以外の町図は,蒐集及び研究の対象からは外していたのですが,郷里に近いので調べることにしました.
 松山城は慶長7(1602)年から,いまの伊予郡松前町にあった松前城(正木とも真崎城とも)を移転し,加藤嘉明の築城になる平山城で,その石垣の美しさと安政期に再建された天守閣などにより,名城として知られています.勝手なリンクで失礼かと思いますが,こちらこちらこちらなどが大変参考になります.
 天守は当初五層でしたが,転封となった桑名藩主・松平定行が寛永12(1635)年に三層に改築し,本図を含めて殆どの現存する城の図の天守閣は三層となっています.

 このような城下図では,まず作成の時代同定が重要です.松山市文化・スポーツ振興財団の松山城二之丸史跡庭園の歴史のサイトに「二之丸古絵図」として,宝暦・嘉永・文久各期の城下図が伊予史談会より提供されているようです.また,松山市教育委員会による「松山市史料集」の2巻(文久図)・3巻(寛永図)・13巻(宝暦図・嘉永図)に付録として立派な複製地図が用意されています.また,坂の上の雲ミュージアム「いにしえマップ」には,寛永・元禄各期の城下図も見ることが出来ます.



 城下図自体は宝暦図に近いという印象を持っています.

 松山市史料集第3巻を調べてみました.文化12(1815)年頃に成立した「松山古今役録」は松平家初代から役録ですが,その「上」に目を通したところ,
・城の南,堀の内などの屋敷の家臣名には
竹内久右衛門 大名分 天明1[1781]
吉田十八太 大名分 宝暦7[1757], 年寄役 寛延1[1748] , 御奉行 寛文9[1669]
稲川八右衛門 年寄役 寛政2[1790], 六番番頭 宝永3[1706], 七番番頭 天明4[1784], 御奉行 延宝7[1679]
蜂谷忠兵衛 年寄役 安永6[1773]
佃 九兵衛 弐番番頭 寛政13[1801], 七番番頭 寛文8[1668], 七番番頭 天明5[1785]
吉田 十郎右衛門 六番番頭 延宝7[1679]
舟橋 源右衛門 大目付 享保9[1724]
その他,山田・久松・三浦などもあるが,名前が役録と同定できない.

 などが見受けられ,襲名の世襲があったと推測されることから,最大公約数として特に共通名が多いのは寛文~延宝頃か,あるいは安永~寛政期のようです.
 あるいは舟橋家は元文年間に追放されている(一族全員ではないかもしれない)ようなので,舟橋源右衛門は一代名の限りだった可能性もあり,享保年間の地図である可能性もありそうです.
 奥平家の名前が判然としませんが,長左衛門らしく,宝暦図と同一の書体で,寛永図では明瞭でした.嘉永図では奥平弾正になっています.当時も家老格か,堀の外で,大名格の家臣だったのか.

・寺院については,宝暦図にあった港町の南の永福院など3つの朱塗りが無くなっており,それは嘉永図でも同様でした.
・立花橋(橘橋)がかかっていなかったことは,僧・尭音が文政年間に架橋したということであれば,それ以前と考えられます.なぜか宝暦図には橋が描かれていて,嘉永図にはかかれていません.何度か流されたものか,省略されたものかもしれません.

 以上から,結論は出ないものの,暫定的には安永~寛政期を最有力とすべきかと考えています.
今後,同書に掲載されている「松山俸禄」は文化五(1808)年,「松山歴奉略記」は正徳~弘化期,「松山武鑑」は嘉永五(1852)年の成立で,そのほか,「明暦年間松山御支配帳」は明暦四(1658)年二月の役録,「懐中使覧 松山役録」は寶永元(1704)年なども当たっていく必要がありそうです.



 残念なことに,地図の余白や裏面に手紙の下書きと思しき落書きが多数書かれています.これらについては,絵図が描かれてから時代が下ったものと推測され,「松平薩摩守様」(島津薩摩家)・「越中守様」(久松桑名家)・「隠岐守様」(久松松山家),など久松家に繋がる大名の宛名と,「秋山九十九」「秋山〇〇〇」の名があります.

 秋山九十九は「松山古今役録」,及び,寛政元(1789)年の「松山分限帳録」では御側役で(松山市史料集第3巻 p.769・830),後者では見習定府とあるので,天明~寛政の頃の手習いの跡でしょうか.もしかしたら,この地図は秋山家に伝わっていたものかもしれません.

 久松家からは時代は特定できないものの,島津との姻戚では三代定頼の婿として薩摩守綱久のみとなるようなので,万治~寛文の頃の話であれば,面白いのですが空想の域を出ません.


資料(美術品・貴重書)の天敵の話

2013-07-18 01:09:41 | 美術品の保守

~この記事はあまり心地よい話ではありませんので,食事時には読まないで下さい~

 ようやく繁忙期を抜けて時間を取れるようになった今日このごろ.初夏の連休を利用して二年間の懸案だった作業に取り掛かりました.

 紙類資料の天敵は....そうですねぇ,光の照射でヤケたり,液体がかかることでシミ・シワが出来るといった物理化学的な問題もありますが,今回は生物として,黴(カビ)と害虫について.
 どちらも古いものにはつき物ですが,カビはいたるところに胞子があるので,発芽しないように温湿度管理で対処します.カビの成長の水分源は空気中からまかなわれるのではなく,液体の水の存在が必要とのことで,急激な温湿度変化で結露することが問題なのだそうです.安定した条件では湿度70%までなら大丈夫らしい.常識的には湿度60%以下が目標,あとは資料の特性にもよりますが,紙自体も極端な乾燥下ではもろくなるようで50%以上が目安のようで,タペストリーや板絵や羊皮紙はさらに乾燥を嫌うので55%程度までが妥当でしょうか.
 ただ,絶対的な胞子の数は増やしたくないので,カビが生えた後があって変色しているもの,カビ臭いものは持ち込まないに限ります.しかし,それが貴重書や大家の素描・銅版画だったら....
 まずカビの生えた跡がアクティブかどうか,つまり菌糸が現在活動中なのかどうか? それにはムシメガネと日々の観察ですね.不幸にしてアクティブな場合は70%のエタノールがカビの菌糸を死滅させるのには有効といわれます.ちなみに文科省のカビ対策マニュアルはこちら

 害虫ではありませんが,土蔵にある古書をかじるのはネズミで,かじられた跡はウマクイと呼ぶらしい.本の表紙には糊がついているので,それをかじって地図状の跡をつけるのはゴキブリ.けれども,そこそこ大きいものは駆除しやすい.


左:本の前小口の下方にウマクイ
中:ゴキブリの食害
右:いわゆる虫食い

 しかして,和本をもっとも手ひどく荒らしてくれるのは....シミ(紙魚という虫)ですか?
いえいえ,これは表面の澱粉質,つまり糊をなめるだけらしい.

 この小さな小さな虫が諸悪の根源,シバンムシです.紙が好物なのはほかにザウテルシバンムシがいるそうですが,たぶんフルホンシバンムシでしょう.古い本を買うと,オマケに付いてくることがあります.本当にあった話で,ある日,届いた和本をぱらぱらめくった後,机の上を見るとゴマ粒のようなものがゆっくり動いているではありませんか!そのときはつまんで成仏させてしまいましたが,もしやと思って調べると,やはり.そういえば,むかし米びつの中に何匹か見たことがあるのと見かけは同じ....食性の差があるようですね.自然界の多くのシバンムシは枯れ木を主食としているようで,額縁や彫刻などの木材のほうが好物だとか....

 それからというもの,気が気ではなく,あの本やあの地図にどんどん虫穴が広がっている悪夢を何回見たことか.害虫はとにかく持ち込まないことが肝要です.
 もともと置かれていた旧家の蔵や古書店の倉庫に巣くっているとすれば,入手先に注意することも勿論ですが,キチンと管理されている古書店さんであっても品の出入りは不可欠なので,あらたにムシ付きが入ってくることもあるでしょう.従って,新入りさんはかならず,白い紙を広げた上で検品し,ゴマ粒を探すこと,それから,幼虫と卵まで処理しなければなりません.

 従来は燻蒸といって,毒性の強い薬品(臭化メチル)をバルサンのように密閉した収蔵庫で焚くという手法が一般だったそうですが(当館の油彩画もある美術館に貸し出し中に燻蒸していただいたことが10年以上前にありました),いまはオゾン層破壊の原因となるので,臭素(ブロム)系燻蒸剤の使用は全面禁止になっているようです.いずれにしても,住宅では健康被害の恐れがあり,はなから無理なこと.
 それに変わる方法としては,電子レンジに数秒かけるという話もあり,理屈からは虫卵も駆除できるわけですが,時間をかけすぎると痛んでしまうらしく,彩色のない安手の本ならいざ知らず,高価なものはちょっと無理でしょうね.

 あれこれ調べて到達したのが,脱酸素療法(ネーミングは適当です),正式には低酸素濃度処理法と呼ぶそうですが,密閉して酸素を奪い虫を窒息させる方法です.大学の研究室でも使用されている由で*,某社から販売されている脱酸素剤を規定量使用して,酸素チェッカーのタブレットの色を見ていくと,はじめ青紫色になっていますが,24時間ほどで赤みを帯びてきて,48時間ほどでピンクに変わり,脱酸素はうまくいったようです.

1は密閉袋の中にビニール小袋を二重に折り畳んだのまま入れてしまったため,酸素が残っていてまだ青みの強いチェッカー
 結局ピンク色になるのには1週間ほどかかりました.さらに気密性が高いと,2週間かかったものもあり,個別包装はしないほうが得策です.
2は同じ状態でスタートした密閉袋内のむき出しのチェッカーで,1日後でやや赤み(赤紫色)がでている状態
3は2日後のチェッカーでピンク色になっていて無酸素化できたようです.下に敷きつめられているのが脱酸素剤ですね.
 このタイプは一袋で2リットル分の空気中の酸素を奪うので,A4ファイルサイズの収納箱をそのまま密閉するのに10袋でなんとか有効であったようです.作業は可及的速やかに行わなければ,同剤の効果は落ちてしまいます.30分以内とのこと.密閉袋からはできるだけ空気を追い出した方が効率はよく,できれば複数の手でやったほうがいいし,掃除機などで吸引すると良いのだが,そんなことをするとムシ嫌いの当館学芸員の目が釣りあがってしまうことでしょう.



 成虫(例のゴマ粒みたいな)>幼虫>卵の順で有効ですが,基本的に2週間,1ヶ月置けば虫卵も駆除できていると目されます.温度が20℃以下だとムシが休眠状態となって窒息しにくくなるようです.逆に温度が高いほど生物の酸素消費量は増えるので,この季節だともう少し短時間で済むことでしょう.ただ,小袋などにはいった和本もそこそこあったので,その脱酸素化にはもう少し時間がかかりそうで,2ヶ月ほどこのまま様子を見てゆくことにしました.

 上の成虫の写真は,作業が終わってやれやれと扉を出て,隣室の白い壁をぼんやり見ていて....見つけてしまったものでした.作業中に少し開けていた扉の隙間から,飛んで出たものか....地図の大きなものや軸物は密閉袋に入らないので,一部はむき出しにしていたし,タペストリーはかかっているし....雌雄の成虫がランデヴーしていないことを祈るしかないなあ,がっかりの顛末.床の茶色と壁の青が恨めしい一日となりました.広いストックヤードが欲しいですね.成虫駆除だけならバルサンもいいかもしれないが,展示品への影響はないものか....
フェロモントラップもあるようですが,タバコシバンムシとジンサンシバンムシ用しか市販されていませんでした.

 物を持つことは大変です.後世に貴重な文化財を引き継ぐことはもっと大変ですね.文化財の総合的有害生物管理(IPM)が日本の博物館でも導入されています.

 蛇足ながら,現代では「虫干し」とは主として秋の穏やかな日和に陰干しすることを言うようですが,古来は7月に行われていたようで,成虫の出鼻の時期に資料をチェックして,虫害の拡大を防ぐという理にかなったものでした.土用虫干しというそうです.

*「東京学芸大学所蔵古書籍の虫害状況と保管法に関する研究」,2003


ドイツ博物館-4 ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(5)

2013-05-22 23:49:01 | 旅行記

 1F(二階)に上がるとやはり閉鎖中の展示室が続き,途中,「薬学」の部屋に出ましたが,順路からすると最後のところなのでざっと見てから,また後で写真をと思いましたが結局そのままとなりました.さすがにだいぶ疲れてきたようです.

 気が付くと通路は「物理学」と「エネルギー工学」の狭間ですが,左の部屋を見ると,おお!

左:天体望遠鏡が鎮座した部屋です.が,扉は閉鎖されている....
中:ここは「アカデミー・コレクション」の部屋ですが,展示準備中.遠目にしか見えません.
右:望遠レンズで写真を撮ってみると,向かいの壁の棚には肖像の横にたぶんリング型日時計Universal ring dial が置かれているようです.


左:写真で見ると,壁の解説には「バイエルン(英語ではバヴァリア)科学アカデミーの科学機器」の展示である旨が書かれていました.
中:この部屋が左,奥が「エネルギー工学」,戻ると「物理学」
右:「エネルギー工学」の入り口には人間が産み出す電気やCO2量の表示.奥は太陽光エネルギーや核エネルギーなどの展示でした.

 戻って,「物理学」のセクションは迷路のように入り組んでいます.途中でどこかわからなくなりました.
左:物理法則の教材の体験型展示 科博にもありますね.
中:アルキメデスの原理
右:中にはアンティーク機器もあります.これは1656年に発明されたクリスティアーン・ホイヘンス式の振り子時計の振り子(左上に1673年刊行の解説書の写真).この辺りのキャプションや解説はドイツ語しかありません.

 うろうろしていると,また異質な空間が現れます.


科学者の書斎を再現したものと思われますが,ここも進入禁止.奥に渾天儀と地球儀が見えます.入れてくれと,係員のおじさんに頼んだのですが,「ダメダメ,・・・あれは複製だよ」と.
左の写真は,腕を伸ばしてあたかも部屋の中にいるようなアングルでとってみました.


左:渾天儀のアップ 水平環の台が八角形なのでドイツ製かと思いましたが,台は状態がどうも近代の複製のようです.球のほうはオリジナルかも.
右:地球儀も複製でしょうかね? 台の下にはコンパスが入る穴も付いていますが.


 この地球儀の水平環の板に張られた紙のはがれ具合は決して複製ではなく,明らかにオリジナルでした.帰国後に再確認したところ,これは有名なブラウの68cm地球儀で,1645/48年頃に製作された第4版でした.
 この特徴としては(1)左上に日本が描かれていますが,蝦夷は変形して縦長く,本州よりはかなり北に描かれています.(2)左下のオーストラリア大陸はまだ探検され尽していないので,南東が不完全です.(3)右上の北米のカリフォルニアは半島でなく島として描かれています.


ドイツ博物館-3 ミュンヘン・ウィーン・ロンドンの旅(4)

2013-05-19 09:32:36 | 旅行記

ホール方面から向かって右奥に向かいます.照明を落とした一角は「ドイツの未来大賞」.そこを抜けると広い階段教室のような空間に出ます.


左:「ドイツの未来大賞」 左にはドイツの著名なエンジニアリング企業の名前が掲示されています.奥に人だかりが出来ていますが....展示内容はよく分かりませんでした
右:この場所ではナノテクやバイオテクノロジーの講座が開かれるそうです.奥の宇宙基地のような球体はDNA研究所らしく,中では研究者の方が仕事中で,勿論入れません.右手のオブジェは骨梁構造を表現しているようです.


左:手前の壁には生体応用技術として最新の義足の展示
中:このホールを出て,戻りは「ロボット工学」の部屋ですが,日本の展示会に比べると,動いていないためか見劣りします.
右:鉄道模型パノラマの部屋 ハンブルクでもそうでしたが,ドイツの博物館ではよく眼にしますね.


左:トンネル工学 この手前を左に曲がるとエレベータ・階段室ですが....
中:上を見上げている子供
右:6階層のもっと上からワイヤーが降りています(画像ななめに右上方向へ)


フーコーFoucaultの振り子でした.じつは,外から眺めた右の高い塔がこの部分です.

 19世紀前半に提唱されたコリオリの力という物理学の概念があり,地球の自転によって,極寄りと赤道寄りのわずかな差でもその場所に存在する物には,赤道寄りのほうが自転と逆方向に残ろうとする慣性力が大きいため,北半球では時計回りに振り子は回転します.
 振り子が並んだピンを倒していくので,一種の時計になっています.回転が1周するのにかかる時間は、その場所の緯度θ°に依存し,24時間/sinθで計算されます.ミュンヘンの北緯は48°でsinθ=0.743から32時間で,ここでは100度くらいが9時間相当と表示されています(矢印は方向を示すだけ).素朴な疑問ですが,毎日開館直前にピンを戻し,台を回転して場所合せをするのでしょうね.

 水力工学と橋のセクションは改装中のため,以上で地上階は終了,ここから1F(2階)に上がります.地上階は工学中心でしたが,上の階はもっと古典的な意味でアカデミックかもしれません.