おっさんの記録箱

古寺巡礼記の紹介と山野草の写真記録
御朱印の記録 (御詠歌の御朱印が自慢)
低山登山の記録(山なんか大嫌いだぁ~)

【飛鳥川原寺の謎】

2010年09月12日 | 【寺社と坊主の話】

【飛鳥川原寺の謎】

 飛鳥の都で、物部氏を押さえ蘇我氏が台頭し日本での古代仏教史が始まった。
蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺)が、平城遷都に伴い元興寺・極楽坊となり移転した。
薬師寺は、天武天皇が妻である鵜野讃良皇后(持統天皇)の病気平癒を祈願し、畝傍山と香久山の中間あたり耳成山の南の飛鳥の地に創建され、平城遷都に伴い現在の西の京へ移転した。
更に、天香具山の南にあった大官大寺が、平城遷都で大安寺と寺名を改め移転した。

 日本最古の寺として日本書紀に書かれている古代飛鳥時代の四大寺院が、法興寺・薬師寺・大安寺(大官大寺)そして川原寺(弘福寺)なのです。ところが、何故か川原寺だけが平城遷都に移転しなかったのです。それだけではなく、他の3寺と違い日本書紀に記述の少ないのも川原寺の特徴です。この飛鳥時代に川原寺が創建し、何かの事情で歴史から抹消され、平城遷都にも無視され、平安時代に焼失し跡形だけを残し消え去った謎の寺なのです。

 川原寺は、天智天皇(中大兄皇子)の母である斉明天皇の川原宮跡地に建てた寺です。皇極天皇(斉明天皇)を利用して台頭してきた蘇我入鹿の権勢と戦い、中臣鎌足とともに暗殺と言う卑怯な手段を用いてでも滅ぼさねばならなかった天智天皇の思い。母である斉明天皇への愛情はどうであったのであろうか。2つの説がある。
 ひとつは、斉明天皇と蘇我入鹿との関係を考え、天智天皇に母への憎しみがあったとする説。だから斉明天皇に関わる寺を聖武天皇が移転させなかったと言う説です。
 しかし、蘇我入鹿暗殺の本当の首謀者は、斉明天皇だと言うことになると話は変わってくる。と言うのは、蘇我入鹿の権勢が強くなりすぎて皇極天皇が自由を失い、入鹿の言いなり状態にならざるを得ないことから密かに暗殺を計画し天皇の権力の復興を計ったと考えられるのです。となると、天智天皇の斉明天皇への親子愛は、強固なものでしょう。更に、川原宮へ斉明天皇の御霊を祀り鎮める寺としてあったならば、この地を動かすわけにはいかないであろうと納得できる理由ができます。これがもうひとつの説です。

 ちなみに、斉明天皇陵は、宮内庁説で越智崗上陵に陵墓があります。前者の説であれば飛鳥の外れに作られた古墳となりうるでしょう。しかし、多くの学者が言う明日香村の岩屋山古墳または牽牛子塚古墳と陵墓としてあげられていることを考えると飛鳥の宮を眺められ、川原寺の真西に位置する陵墓から後者の説にふさわしい位置にあると考えられます。
 確かに、舒明没後から孝徳即位までは内乱による天皇空位期であり、皇極天皇が蘇我氏を後ろ盾にしたい気持ちが理解できましょう。しかし、これほどまでに明日香の地を愛した天皇も居ないでしょう。石文化の宮を作った斉明天皇の御霊を鎮めるべく建てられた寺としてみれば、この地を離れるわけにはいかなかったんだと結論づけても良いのではないでしょうか。


 2010/09/11 牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であると確定的となった。よって、後者の説の「斉明天皇の陵墓から見える位置にある川原宮(川原寺)から動かすことが考えられなかった。」と言うのが結論ではないかと思います。

 【180】川原寺(弘福寺) 飛鳥


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。