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1786(天明 6)年、徳川10 代将軍家治が死去すると、御三卿のひとつ一橋家から( 1 )が迎えられて、11 代将軍に就任した。
田沼意次は老中を解任されたが、なお雁間詰として発言権をもっており、当時幕閣の要路を占めていた大老井伊直幸および老中水野忠友・松平康福らは、いずれもその一味であった。
これに対して、御三家・御三卿を中心とする徳川一門・譜代勢力は、次期政権担当者として、陸奥白河藩主の松平定信を立てようとして、田沼勢力と激しく争った。定信は御三卿のひとつ田安家の出身で( 2 )の孫にあたり1783(天明 3)年白河藩主となった。
こうして、両派の対立が数カ月つづき、開幕以来の政争となったが、ついに反田沼勢力が勝ちを占めて、定信の老中就任が決定した。
1787(天明 7)年、支持勢力の輿望をになって老中首座についた定信は、ただちに田沼勢力を幕閣から一掃し、広範な幕政の改革に乗り出した。
これを( 3 )という。
定信は、吉宗の享保改革を理想とし、幕府財政を立て直すため、厳しく倹約を命じ、華美な風俗を取り締まるとともに、商業資本の発展をおさえて農村の安定・復興をはかることに力を注いだ。
そのため定信は、農業人口の確保に力を入れ、他国への出稼ぎを禁じ、江戸に流入した農村出身者の帰農をすすめ、荒廃した田畑の開発を奨励した。
また飢饉にそなえて、都市や農村に( 4 )を設けさせ、米穀を貯蔵させた。
江戸では、町入用(町費)の節約分の 7 割を積み立てさせ、飢饅や災害にそなえさせた。
これを( 5 )という。
定信はまた、江戸の治安維持のため、石川島に( 6 )を設けて、浮浪人や無宿者を収容し、職業技術をさずけて、正業につくよう指導した。
さらに旗本・御家人を救済するため、( 7 )の債権を放棄させる( 8 )を出した。
学問・思想および風俗・出版に対して厳しい統制を加えたのも、定信の改革のいまひとつの特色である。
定信は異学の禁を出して、朱子学を正学とし、さらに林家の家塾を官立の( 9 )とあらため、朱子学の振興をはかった。
また、「海国兵談」を出して海防の必要を説いた( 10 )を、人心をまどわす者として処罰した。
定信の改革は、一時的に幕政を引き締める効果はあったが、あまりに厳格すぎて現実の社会の実情に合わなかった。
こうして人びとの反感を買い、定信は在職 6 年で老中職を退いた。
[解答]
1 家斉 2 吉宗 3 寛政の改革 4 義倉(社倉) 5 七分金積立 6 人足寄場 7 札差 8 棄捐令 9 昌平坂学問所 10 林子平
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