ユーゴスラヴィアの政治家。
欧米からは独裁者と見られている。
セルビア北東部のポジャレヴァツで、セルビア正教会司祭の家に生まれる。
1959年にユーゴ共産主義者同盟に入党。ベオグラード大学法学部卒業後、ベオグラード銀行の頭取を務めた。80年にティトー大統領が死去したあと、コソヴォのアルバニア人問題が表面化するとセルビア人のナショナリズムを利用しつつ、共産主義者同盟内で勢力を拡大し、89年にはセルビア共和国幹部会議長に就任。90年の複数政党制による自由選挙では社会党を支持母体としてセルビア共和国大統領に当選。旧ユーゴスラヴィア解体後のユーゴスラヴィアでも共和国大統領に再選された。97年にはユーゴスラヴィア連邦共和国大統領に選出された。91年から始まるユーゴスラヴィア紛争の責任者として、99年にはハーグの旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から反人道的行為の罪状で起訴された。2000年9月のユーゴ大統領選挙で敗北し、10月の「民衆革命」で政権の座を追われた。01年には不正蓄財と職権濫用の容疑で逮捕。戦犯としてハーグの国際法廷に引き渡され、02年に公判が開始したが、06年収監中に心臓発作で死亡した。
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