1532年天文元年(享禄5年)8月 法華一揆。山科本願寺を焼く。
人ごみに散れ 本願寺。
1532年 法華一揆 本願寺
ところが晴元の命令にまず木沢長政が従い、更に本願寺を嫌う近江守護六角定頼と一向一揆に対抗する形で京都と山城国の法華宗徒が編成した法華一揆が呼応した。
However, Nagamasa KIZAWA first responded to Harumoto's order, followed by Omi shugo (the governor of
Omi Province) Sadayori ROKKAKU who abhorred Hongan-ji Temple, and the Hokke-Ikki army mobilized
by the Hokke sect followers inKyoto and Yamashiro Province to confront the Ikko-Ikki army.
[ポイント]
1.1532年、一向宗を襲撃するなどした法華一揆がおこった。
[解説]
1.はじめ東国を基盤にして発展した日蓮宗(法華宗)は、やがて京都へ進出した。とくに6代将軍足利義教のころに出た日親(1407~88)の布教は戦闘的であり、他宗と激しい論戦をおこなったため、しばしば迫害を受けた。
2.京都で財力をたくわえた商工業者である町衆には日蓮宗の信者が多く、町政を自治的に運営した。彼らは1532(天文元)年、一向一揆(浄土真宗)と対決し、一向宗寺院を襲い山科本願寺などを全焼させ、京都から追い払った。これら一連の京都における日蓮宗徒の団結による勢力拡大、自治を法華一揆という。
3.しかし1536(天文5)年、法華一揆は延暦寺と衝突し、その焼打ちを受けて、一時京都を追われた。この戦いを天文法華の乱という。この事件で隆盛を誇った日蓮教団は壊滅した。
〈2016同志社大・全学部
蓮宗徒は1532年、法華一揆をむすんで( i )と対決し、京都の町政を自治的に運営するまでになったが、天文法華の乱では敗北し、一時勢力が哀えた。」
(答:i一向一揆)〉
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