いいパパ千歳 不死となり。
1188年 『千載集』 藤原俊成
2012慶大:法
神職の家に生まれ育った[ 1・2 ]は、和歌の道に優れた文化人だった。[ 3・4 ]の名を受けて藤原俊成が撰上した『[ 5・6 ]』に若くして一首が入集するなど、地下歌人として才能を認められるようになり、[ 7・8 ]によって和歌所が再興されると、藤原家隆、飛鳥井雅経らとともにその寄人に任じられた。このときに撰上された歌集にも10首が入集しており、あわせて25首を勅撰集に残している。一方で、神職の地位を得ようとし、河合社(ただすのやしろ)の禰宜になることを望んだが、[ 7・8 ]の後ろ盾があったものの、一族の反対にあって叶わず、しまいには寄人の職を投げ打ち、50歳を迎えた春、出家して大原の山中に閑居し、しばらくして日野の草庵に移り、そこで『[ 9・10 ]』を著した。天災や戦乱、飢饉が相次ぎ、社会が大きく変わりゆく時代を生きた[ 1・2 ]は、以下の[1]から[4]に一部を引用するように、若い時分に京の都で体験した災厄の数々を『[ 9・10 ]』の中で述懐しており、ここから、中世の人々の災害感を垣間見ることができる。(以下略)
(答:12鴨長明 34後白河院 56千載集 78後鳥羽院 910方丈記)
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