□近現526.◇B
[ゴロ]私(あっし)をいや悔い足尾 古かった。
(足尾(あしお))(田中正造(たなかしょうぞう)・古河市兵衛(ふるかわいちべえ))(谷中村(やなかむら)廃村)(1891・鉱毒)
[句意]私を多少古くさい嫌な村の白衣の医者にして下さい、という句。「あっし」は「わたし」のくだけた言い方。いなせな感じをともなう職人言葉。「古か」は博多弁風。「多少」から「田中正造」を再現するのはむずかしいかも。練習をお願いします。
[point]
1.足尾鉱毒事件(1891~)は古河市兵衛経営鉱山の鉱毒事件で、田中正造が抗議運動を主導したが、谷中村の廃村に終わった。
[解説]
1.足尾銅山(栃木県)は、幕末には廃鉱同然であったが、将来性に目をつけた古河市兵衛(1832~1903)が、1877(明治10)年買いとった。狙いが当たり、足尾銅山は6年後には買収時の十数倍の産出量をあげ、やがて国内銅の6分の1を占めるまでに成長。古河は労働環境を無視し利益優先で経営した。このため労働者は納屋制度の下で過酷で危険な奴隷的労働環境におかれ、しばしば暴動が起こった。待遇改善を求めて会社と対立する足尾銅山争議(1907)もおこったが、政府は軍隊を使って鎮圧した。
2.いっぽう、この飛躍的な生産拡大にともなって、下流の渡良瀬川(わたらせがわ)流域の農業・漁業に被害が現れはじめた。1891(明治24)年には足尾銅山の鉱毒による深刻な公害事件(足尾鉱毒事件)が発生し、15年余りにわたって大きな社会問題となった。
3.鉱害は、まず1880年代半ばごろから、鉱山から流れ込む鉱毒で同川の水が青白色に変じた時は、必ず魚が浮くといわれるかたちで現れた。1896(明治29)年の大洪水では、群馬県など4県にわたる流域一帯の農作物や家畜に大きな被害をあたえ、人体にも影響をおよぼすにいたった。
4.これに対し被害地の農民は、1897(明治30)年以来、蓑笠(みのがさ)・草鞋(わらじ)ばきで大挙して上京し、数回にわたって陳情をこころみたが、1900(明治33)年には警官隊と衝突して数十名が逮捕された。栃木県選出の衆議院議員田中正造(1841~1913)は、議会で政府に銅山の操業停止をせまった。また木下尚江(きのしたなおえ)らの知識人とともに世論の喚起につとめた。政府もようやく鉱毒調査会を設けて鉱毒予防を銅山に命じたが、あくまで軍需を優先し操業は停止させなかった。そこで、1901(明治34)年12月に田中は議員を辞職し天皇に直訴をこころみたが、果たせなかった。(なお、この年11月古河市兵衛の妻タメが入水(じゅすい)自殺している。鉱毒事件を苦にしたのが主因とみられる)
5.政府は1907(明治40)年、被害と洪水を緩和するために、渡良瀬川と利根川の合流点に近い栃木県下の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水池にした。しかし、田中はこれを不服とする住民とともに谷中村に残り、1913(大正2)年に亡くなるまでそこに住んで政府に抗議し続けた。
〈2016早大・商〉
問H 下線部ト足尾鉱毒問題に関する記述として正しいものを2つマークせよ。
1.古河市兵衛が経営する銅山から流出した鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した。
2.鉱毒が発生したため、渡良瀬川流域の農民は集団離村を余儀なくされた。
3.田中正造は天皇への直訴とあわせて、議会で政府に足尾銅山の操業停止を要求した。
4.政府は足尾銅山に鉱毒予防を命じ、一時、操業を停止させた。
5.日露戦後、政府は谷中村を廃村にした。」
(答:1・5 ※2×鉱毒による廃村はあったが集団離村はない、3×天皇直訴は議員辞職後、すなわち直訴と「あわせて(:同時に)」議会要求はできない(←あまり良い問題文とは言えないが)、4×軍需優先のため、停止は命じていない)〉
〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉):「
近代工業の発展は、公害問題も引き起こした。たとえば、栃木県の足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川流域の農漁業に深刻な被害をもたらした足尾鉱毒事件が発生した。栃木3区選出の衆議院議員であった( へ )は、議会で政府に銅山の操業停止を迫り、世論の喚起にも努めた。政府も鉱毒予防を銅山に命じたものの、銅の輸出を優先して操業を停止させなかったため、被害の範囲は広がっていった。」
(答:田中正造)〉
〈2011明大:全学部:「
問5 下線部(オ)大規模な公害問題に関連し、その代表的なものとして足尾鉱毒事件が挙げられる。この事件に関係する説明として誤っているものはどれか。次のA~Dのうちから一つ選べ。
A この事件は古河市兵衛が創業・経営していた足尾銅山において、銅の精錬過程で出された鉱毒が渡良瀬川流域の住民に被害を与えたものである。
B この事件の解決に当たった者のなかに栃木県内に選挙区を持つ衆議院議員田中正造がおり、彼は問題の解決を目指して、議員辞職したうえで1901年に天皇に直訴した。
C 政府は栃木県内の谷中村を廃村とし、そこを遊水池とすることでこの問題を解決しようとしたが、遊水池は十分には機能しなかった。
D この問題の解決に積極的にかかわった政党に片山潜や安部磯雄らが創設した社会民主党があった。」
(答:D× ※1901年創設の同党は2日後に禁止のため政治活動はしてない。ただし創設者の一人幸徳秋水は天皇直訴状の下書きを書いている)〉
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