[ゴロ]武智南北部さ/牛の牧(まき)
(南家(なんけ)・武智麻呂(むちまろ))(北家(ほっけ)・房前(ふささき))(宇合(うまかい)・式家(しきけ))(麻呂・京家)
[ポイント]
1.藤原四家とその始祖(長幼順)は、南家(武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)である。
[解説]
1.藤原四家は藤原不比等の四子が興(おこ)した4つの家。729年、長屋王を、謀反の意思ありとして長男武智麻呂らが邸を囲み、一族と共に自殺させ(長屋王の変)、光明子を立后させて覇権をにぎる。
2.しかし、藤原四子は737年に疫病(天然痘か?)で相ついで亡くなった。
3.藤原武智麻呂(680~737)は、不比等の第一子、南家の祖。名称は邸宅の位置に由来。
4.藤原房前(681~737)は、不比等の第二子、北家の祖。名称は邸宅の位置に由来。
5.藤原宇合(694~737)は、不比等の第三子、式家の祖。。名称はその官職式部卿に由来。
6.藤原麻呂(695~737)は、不比等の第四子、京家の祖。名称はその官職京職大夫(きょうしきだいぶ)に由来。万葉歌人として重要な大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)を妻としたときもある。
7.長屋王の変で、長屋王の邸宅を囲んだ「六衛の兵」の六衛とは、令で定められた五衛府(衛門府・左右衛士府・左右兵衛府)と聖武天皇の時に新設された中衛府のことである。この六衛の兵を藤原宇合が、中衛大将(ちゅうえいのだいしょう)(中衛府の長官)の藤原房前とともに、ひきいていたことは、藤原氏が宮廷の武力もしっかり握っていたことを示している。
〈2015早大・法
下線eの藤原四子のうち、南家を興し、藤原仲麻呂の父として知られる人物は誰か。正しいものを一つ選べ。」
あ麻呂 い武智麻呂 う房前
え種継 お宇合
(答:い)〉
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます