次の文を読み、あとの設問に答えなさい。
平氏は、武門の貴族として朝廷に仕え、①12世紀半ばの二つの乱を通じて政界に確固とした地位を築いたが、その②独裁的政策が反対勢力を結集させ、短期間にして没落・滅亡への道を歩む結果となった。
まず、反平氏の兵をあげたのは[ ア ]であった。
[ イ ]に支えられた[ア]は、[ウ]の子供という血統をかかげ、諸国の反平氏勢力に挙兵を促した。
[ ア ]、[ イ ]はまもなく敗死したが源頼朝や信濃の[ エ ]などが呼応し、約 5年間にわたる戦闘の後、ついに平氏は 1185 年、[ オ ]の合戦に敗れ滅亡したのである。
頼朝の勝利はその権力基盤の強さに求められる。源氏の嫡流という血筋の尊貴性を最大限に利用して、③頼朝は東国の武士集団との間に強力な主従関係を結んでいった。
つまり、頼朝は従者となった者に[カ]を与え、従者はそれにこたえて主人頼朝への[キ]に励むという関係である。
従者は頼朝の強力な軍事力の基盤となった。
このようにして頼朝の従者となった武士は御家人と呼ばれた。
御家人の最大の関心事は、彼らが支配する土地、すなわち所領に対する支配権を保証されたいという点にあった。
そのため、頼朝の御家人に与える[ カ ]は、具体的には、御家人が支配する先祖伝来の土地に対する権利を確認する[ ク ]が中心となった。
御家人にとって、頼朝の花押の記された文書は、所領を保証する証拠文書として子孫末代に伝えられるべき「亀鏡」と認識されたのである。
従って、④1185 年、頼朝が[ ウ ]に迫って、地頭の任命権と、1 反当たり 5 升の[ ケ ]
を徴収する権利を獲得したことには大きな意味があったと評価されるのである。
つまり、この権利が与えられたことによって、頼朝の土地に対する支配権は朝廷から公認されたことになり、これまで私的に御家人に与えてきた[ カ ]は公的に保証されるところとなったと言えるのである。
頼朝政権(鎌倉幕府)の実質的確立期を考える上でもまた、この1185年という年は重要な年であったと言えよう。
*花押 名前または名前の一部をくずして図形化した一種のサイン
*亀鏡 よりどころとなるもの
問1文中の[ ア ]から [ ケ ]までの空欄に適当な語句を入れなさい。
問2下線部①について、この二つの乱を、起こった順に答えなさい。
問3下線部②について、平氏は抵抗する勢力を弾圧する方針で臨んだが、1180 年に起きた「南都焼打ち事件」もその一つに数えられる。この事件について次の問いに答えなさい。
(イ) この事件を指揮した人物は誰か、答えなさい。
(ロ) この事件によって壊滅的打撃を受けた寺院のうち、ある貴族の氏寺として創建され、広大な伽藍を誇っていた寺院は何か、答えなさい。
(ハ) 平氏が南都の寺院を焼打ちしたのは、寺院の抵抗があったからであるが、どのような抵抗であったか、簡潔に説明しなさい。
間4 下線部③について、(イ)瀬朝が主従関係を結んだ武士を統轄するためにおいた役所は何か、(口)またその初代長官は誰であったか、それぞれ答えなさい。
問5 下線部④について、頼朝が、この時認められた任命権を行使して、御家人を地頭に任命することを何と呼んだか、答えなさい。
[解答]
問1.ア.以仁王 イ.源頼政 ウ.後白河法皇 エ.源義仲 オ.壇の浦 カ.御恩 キ.奉公 ク.本領安堵 ケ.兵粮米
問2.保元の乱・平治の乱
問3.(イ)平重衡 (ロ)興福寺 (ハ)僧兵が以仁王や源頼政に加担し、平氏に対抗した。
問4.(イ)侍所 (ロ)和田義盛
問5.地頭職補任
[解説]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます